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おかえりなさい、永遠に(改稿前)
赤いスパイクを履いた足をスターティングブロックにセットする。
スタートの合図が、つま先から硬いふくらはぎの筋肉を通り、意識より早く足が前に進む。
『まるで翼が生えたような走り』とは誰が言ったか。
ショートスプリント。100mのレーンを走る瞬間だけは、俺は誰よりも自由だった。
目が覚めると、少し黄ばんだ天井が見える。
「呼子くん、起きた?」
「佐賀野か」
漂う煙は佐賀野の手元にあるタバコだ。
佐賀野がタバコを片手にキスをすると、ダイレクトに伝わるタバコの味に佐賀野のにおいを感じる。
本来なら甘い光景なのに、佐賀野は無表情だ。
「呼子くん、いい夢でも見たの?」
気持ちのいい夢だった。足が、俺が自由だったころの夢だ。
布団の中で自分の右足を撫でる。手には触れている感覚があるのに、足には触られている感覚はない。
「いや、悪夢だよ」
「……からだ、拭いてあげるね」
寝間着の前のボタンが外される。素肌が外気に晒されるとひやりと寒い。
温かいタオルが丁寧に俺の肌に浮かんでいた汗を拭っていく。
「走れないの、そんなにつらい? 悲しそうな顔してるよ」
佐賀野の持ったタオルが潰れた右足を拭いている。もちろん視覚的に確認しているだけでされている感覚はない。
「呼子くんが、悪いんだよ。今まで通り日本で、日本の実業団にいてくれたらよかったのに。アメリカでプロ契約なんか勝手に結ぶから」
感覚がないはずの俺の右足が、潰れた瞬間の光景を思い出してジクジクと痛んだ。
「呼子くんには翼が生えてるから、どっかに行っちゃうんだ。だからそんな翼、もいじゃえばいいんだ」
アメリカでのプロ契約。
俺はてっきり、佐賀野が喜んでくれると思っていたのに。佐賀野は喜んではくれなかった。
だから俺の足を、佐賀野が潰した。
走れない俺に存在価値はないが、佐賀野にとって俺はそばにいるだけでいいんだそうだ。
「ごめんな、佐賀野」
佐賀野は俺が狂わせた。
だから俺が助けてやらないといけない。
「な、佐賀野。一緒に、死んじまおっか」
そう声をかけると、佐賀野は驚いた顔で俺を見つめた。
「呼子くん……うれしいよ。ありがとう、愛してる」
すぐに感動する佐賀野は、俺が初めて出場したインターハイで個人トップの成績で優勝した時も泣いていた。
佐賀野はとてもやさしく笑って泣くんだ。
そういえば、俺をはじめて抱いた夜ですら、泣いていた。
「佐賀野の笑った顔、久しぶりに見た。俺も嬉しいよ」
今日は最後の夜の前夜になった。明日の最後の夜に向けての話し合いをしながら眠る。
最後の夜の計画はすぐに纏まった。
『眠るだけの状態』にした後、お互いに抱きしめて眠るのだ。
「呼子くん、ずっと一緒だね」
そう言って、佐賀野は俺に微笑んでいる。
「ああ」
俺は力いっぱい、佐賀野を抱きしめた。
俺の大好きな佐賀野が帰ってきた、おかえりなさいの意味を込めて。
◆ 了 ◆
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