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第1話

「やい、宗次郎。宗次郎やい」  頭の上から、いつもの声が聞こえた。 「はいはい」  と、俺は適当に返事をする。 「今年の秋は雨が少ないぞ、少ないぞ」 「そいつはどーも。親父に伝えておくよ」  俺は竹の箒を動かしながら応えた。境内の掃除は俺のバイトだ。……といっても家業の手伝いで、額もお駄賃というところだけど。 「親父どのに、ちゃんと伝えておけよ宗次郎」  そいつは満足そうににいっと笑うと、鳥居の上から御神木のほうへ風のように飛びすさり、そのまま木立のほうへざ、ざ、と枝伝いに移動していった。  あれはこの神社の神さまだ。……と本人(神)は言っているし、小さいころから見ている古い写真とまったく同じ顔だから、まあ本当にそうなんだろう。何より、俺以外にこいつは見えない。他の誰にも。小さいころは見えていた、と言う親父にもだ。 「掃除はおわったか、宗次郎? また双六(すごろく)でもするか?」  ひひひ、と神さまは笑う。  この神さまが言っている「すごろく」とは、陣地が書いてある盤の上で、サイコロを振ってそれに従い駒を進めるという、それだけなのにやたらに複雑なゲームのことで、子供の頃からこいつに教えてもらった俺以外に知っている者はいない。少なくともこの近辺には。  そして、こいつがニヤニヤ笑いを浮かべているのは、近頃ようやくハンデをひとつ無くしてもらったというのに、いやむしろそのために、このひと月ほど俺がコテンパンに負け続けだからだ。 「んー、やりたいけど、今日はちょっと忙しいからやめとく。修学旅行に行くから、ちょっと練習しておきたいんだよね」  俺は鞄からカメラを取り出した。いかにも趣味でカメラやってます、という感じのごついタイプではなく、携帯性が高いがレンズは大きめという、いいとこ取りの……悪く言えば中途半端な性能のデジタルカメラだが、俺の腕や高校生という肩書には相応のものだと思っている。  野外の夕方というライティング環境に慣れておこうと、俺は適当に灯篭や建物にカメラを向け、設定を調整し、またカメラを覗く。神さまは、そんな俺をしばらく眺めたり、ひとりで首をひねったりしていたが、ふいに声をかけてきた。 「しゅがく旅行とはなんだ」 「ぅんっ? えーと」  一瞬言葉につまる。たまにこういうことを聞かれると、彼が近所の友人などではないと思い知らされてしまう。 「そうだなあ……勉強の一環で、クラスのみんなで遠い土地に行って、歴史の教科書に載ってるような寺とかを見て、寝泊まりして、帰ってくる」 「帰ってくるのか!そうか!」  我ながらいいかげんな説明だと思ったのだが、神さまのほうはそれが欲しかった答えだったようだ。どことなく不満そうなそわそわした雰囲気を漂わせていたのが、一転していつもの放逸で陽気な様子に戻る。 「帰ってくるのならいい! 帰ってくるのならいい!」  興奮したのか、風を巻き起こしてその場を飛び去り、境内を(おそらく)ひと息にぐるり一周して戻ってくる。 「帰ってくるならいいぞ、宗次郎? どこまで行くんだ? 京の都見物か? あのあたりは寺がうんとあるぞ」 「驚いたな、京都であってるよ」  ずっと神社にいる神さまなのにするりと出てきた言葉に驚いたが、古来から寺を見に行くといえば京都・奈良が定番なのだろう、と思えば納得だ。 「だが、京の山景を楽しむには、まだ少しばかり早いのではないか? オイがいつも出雲へ向かうころには、(きい)(あか)も鮮やかで、空を飛ぶのにも目が楽しゅうてええもんだがよ」 「そりゃあまあ、紅葉まで楽しめたらよかったけど、修学旅行でそこまで贅沢も言えないってゆーかさ、そりゃ撮影するなら京都の真っ赤になった紅葉(もみじ)なんて最高だったけどさ……」  言いながら俺は、ああこれは格好が悪いなと気が付いて口をつぐんだ。強がりを見透かされるのも恥ずかしかったが、それが彼なのも嫌だった。  神さまは、そんな俺の葛藤に気が付いているのかいないのか、俺を真ッ直ぐに見据え、その大きな瞳でじろりじろりと俺を眺めた。  と、いきなりどんどん、と足踏みをして、大音声をとどろかせた。 「あいわかったッ!」  こいつの突然の行動には慣れている俺だが、もうちょっと落ち着きがあってもいいと思う。神さまなんだし。 「何がわかった?」 「そうと決まれば酒だ! 御神酒(みき)をもて!」 「あーはいはい、お神酒ねー」  神さまは気分が盛り上がると、特別な季節や祭りのとき以外でも、こうやって酒を要求してくる。だいたい我が家の備蓄から提供されることになるので勘弁してもらいたいのだが……。 「明日、親父が持ってくると思うんで。どうそ、お納めください」  そういって、ぱんぱん、と柏手を打ち、深く礼をする。いつもやっていることだけど、俺はこの神さまに面と向かって礼をするのがちょっとだけ苦手だった。  この神さまは、こうやって俺が氏子として礼を尽くした時に、普段のイタズラっぽい笑みじゃない、なんともいえない優しい表情でいつもこっちを見つめているのだ。  それが、近頃では、照れ臭いでも、恥ずかしい……でも、イラつく、でもない。全部を合わせたような、もやもやした気持ちになってしまう。 「楽しみにしておけよ、宗次郎!」 「あーはいはい」  悪い神さまというわけではないので、言っていることが多少すっ飛んでいてわからなくても、こうやって流すのが普通だった。 (宗次郎、宗次郎……か)  俺は小さくため息をつくと、ご機嫌で賽銭箱に腰かけている神さまに向けてカメラのシャッターを切った。    *   *   * 「デジカメなんかいじっていないで、ご飯食べちゃいなさい」  母さんの声にせかされながらも、 「ちょっとデータ確認するだけだから」  と言い訳して、俺はカメラの電源を入れる。修学旅行に行く前に、練習のデータは全部消しておきたい。 「あんた、旅行の準備、ちゃんとやったの?」 「服は揃えたしタオルとかオーラルグッズも入れたし、酔い止めも一応持ったよ」  カメラ用の予備バッテリーも予備データカードも入れたので、趣味の風景写真もばかすか撮れるというものである。 「晴れるといいわねぇ。最近寒いから、後で肌着もう少し出しておいてあげるわ……あれっ、今ニュースにほら、京都とか出てなかった?」 『……今日のトピックスです。気候の変動のためか、京都の一部の寺社で、早い紅葉が見られるようになったと話題に……』  俺は驚いて、画面を食い入るように見た。鮮やかな新緑の中、突然そこにだけ秋が出現したかのように、朱や黄色や赤の木の葉がまるで花のように咲き乱れていた。 「何だこれ、すごい……。もしかして、まさか」 『ご覧ください。こちらの御神木の銀杏(イチョウ)などは、一部ではなく全体がすでに色づきはじめています。樹医によれば、特に病気や寿命ということもなく、いたって健康であると……』  御神木、というアナウンサーの言葉が決定打だった。 「やっぱり、あいつの仕業だろどう考えても――!」 「あら、うちの神さまが何か関係してるのこれ?」  母親が曖昧な表情で尋ねる。彼女にとっては『うちの神さま』が存在している証拠といえば、いつの間にか蒸発したようになくなってしまう御神酒や、絶妙なタイミングで吹き荒れる突風などがそれであって、声を聞いたというような決定的なものではないのだ。家族の証言はあっても、本当かしらねえ、という程度の認識だった。  とはいえ彼女はいつも、否定的な態度というよりは、一歩引いたところからの好奇心といったていで夫や子の話を聞くのが常であった。 「余計なことしないように、釘をさしておくべきだったよ」 「あんたが変な願いごとでも祈願したんじゃないでしょうね」  「そんなわけないよ。ちょっと、紅葉の時期に行くんじゃないのか、どうしてだ、みたいに言われて、そうだな紅葉も見たかったけどって返事したらこんなことに……」 「それは……ずいぶんあんた、甘やかされてるじゃないの」  母さんの言葉に俺はげっそりした。確かに、頼んでもいないのに神の力で祝福?恵み?をいただくというのは、これは相当に甘やかされているということだろうけど。  しかしこれは過保護というやつではなかろうか。 「むしろ試練なんだけど」 「あんたの気持ちを全部汲んでやってくれる相手じゃないってことでしょ。それは直接話ができる分、あんたのほうがわかってるんじゃないの」 「それはそうだけど――」  俺は上手く言葉を繋げられないままカメラへ目を落とした。混乱する気持ちを落ち着かせるため、先ほどの作業を続けてみる。スッ、スッと画面に出る写真を送ってチェックしていく。暗すぎたり光が強すぎたりする、神社の境内の風景。  俺は何がこんなに気に入らないんだろう?  たかだか神さまがちょっと勘違いして、害のない暴走をして、旅先の風景がちょっと季節外れなものに変わってしまっただけだ。いや、ちょっとで済ますのもアレだけど、それで何がどうなるってものでもない。代価に腕を取られるわけでもない(既に御神酒で支払い済、ということになっているのだろう)。  もやもやする気持ちを払うように、写真を送る。ふと、神社の社が写っている一枚に目が留まった。 (これは……この、賽銭箱は)  神さまが賽銭箱に座っていたときの写真。  正面からそれを写したはずの写真には、しかし、社と賽銭箱がただ写っているだけだった。 (また写せなかったのか)  俺は時計の近くに飾ってある、一枚の引き伸ばされた写真にちらりと視線を走らせた。  子供のころからずっと眺めてきたそれには、屈託なく笑う少年が写っていた。それは、今俺が見ている、子供の頃から変わらない神さまの姿。  ほとんどの人には見えず、声も聞こえない神さまは、もちろん写真や動画に映ることも一切なかった。……この一枚を除いては。 (悔しいな――)  その色あせた古い、古い写真には、『宗次郎、撮』と片隅に書きこんである。  ――俺は。 (どうやったら、じいちゃんを越えられる? どうやったらあんたを撮ることができる?)  孫かわいさに、といったような過剰な加護を授けられるのも気に入らない。いかにも神様然とした顔で接せられるのも嫌だ。双六で手加減されるのも、こうやって、何百枚撮ってもいっこうに写真に写らないこともイラつかされる。  だが、やはり一番こたえるのは、名前を呼ばれないことだった。 (どんなに顔が似ているのか知らないが、じいちゃんはあんたを置いて、修行先で嫁をもらって帰ってきたんだろう?)  二人の間にどういう信頼や友情が……もしくは愛着があったのかは知るよしもないが、神さまは何度俺の名前を憶えても、すぐに『宗次郎』に戻ってしまう。 (宗次郎、宗次郎)  ひとなつこい笑顔で、嬉しそうに、帰ってきた友の名をよぶ神さま。 「絶対、撮ってやるからな」  そうして、いつの日にか、俺の名前を呼んでもらうのだ。  あの、晴れた日に吹く乾いた風のような神さまに。                   了

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