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切恋眩瞑
『──貴方は私のことを、どう、思っているのですか……?』
そう言ってすぐに話を逸らした彼の、美しい横顔を思い出す。
あの言葉は、一体何を意味していたのだろう。
真意を問えば、壊れてしまうのだろうか。
今まで築き上げてきた関係も。信頼も。
全てが……。
麗国中枢楼閣、最上階。
私室から少し離れた場所に、物見楼と呼ばれる楼台がある。
政務を終えた国主、叶 は、渡床から見えた真円を描く月に誘われるようにして、この場所を訪れていた。
時折聞こえる虫の音に耳を澄ます。
昼間の内はまだ感じられる夏の名残のような暑さも、夜になればすっかり冷え、少しばかり肌を冷やすような風が、叶の長い銀糸の髪を揺らした。
少しずつ、少しずつだが季節が冬へと向かっている。
生命に彩られていた世界が、次の世代のための準備を始め、やがて朽ち、眠りにつく。
そして再び恋と彩りの季節に、今以上の賑わいを見せてくれる。
だが叶にとって、彩りの失われていく次の世代の為の準備期間が、とても寂しいものの様に思えて仕方なかった。
たとえ次世代に再び彩りを見せてくれようとも、そんな生き物の中には伴侶に巡り合うことすらできず、この冬で朽ちていくものもある。
普段であればそんな生命の循環など、気にも留めずにいた。当たり前の事のように思っていた。
伴侶に巡り合うものと、そうではないもの。
自然という生命の巡りの中で、伴侶に出会わなければ、己の命を継ぐものも生み出せず、ただ朽ちて、他の生き物の血肉となるだけだ。
だがそれも自然淘汰という意味では、必要なことなのだろうと、叶は思う。
(……そういうものだと、分かっているというのに)
朽ちていくものと自分を、どうも重ねてしまって、切なさに胸が痛くなる。
ずっと好きだった人がいる。
好きで好きで堪らないというのに、好意を伝えたことは一度もないし、これからも伝えるつもりはなかった。
伝えるつもりがないというのに、彼のことを特別に想う自分がいる。彼に話し掛けられればその日一日が幸せな気分になり、彼が他の者と楽しく話をしているのを見るだけで、酷く気持ちが落ち込む。
そうやってやがて臆病者の自分は、伴侶に巡り合わなかった秋の彩りのもの達と同じように、この想いごと朽ちていくのだろう。
(……らしく、ないですね)
本当に自分らしくないと、叶は思う。
これまで欲しいものは欲しいのだと、自分の思うようにしてきたというのに。
彼に対しては、どうしても駄目なのだ。
嫌われたくないと、力尽くで自分のものにするような者なのだと、思われたくない自分がいる。
自分を嗤うように、叶がため息をついたその刹那。
「──あなたが溜息とは、明日はいよいよ大雪かもしれないですね」
その声に叶は敏速に振り返った。
普段なら分かる彼の気配を、感じることができなかった自分に、内心驚く。
自分はそれほど、物思いの中に入り込んでいたのか。
「……普段なら飄々として私に気付くというのに」
それほど思いの深いことを考えていたんですかと問う咲蘭 に、叶は軽く息を詰める。
楼台の桟枠に背中を預けながら、叶は言葉を探した。
何と答えていいのか分からなかった。
確かに普段ならば、彼の気配に気付き、彼が言葉を発する前に話しかけて、話の先導を取ることもできたかもしれない。
(……だが、今は)
誰にも触れられず、伴侶も見つけられず、朽ち果てていく秋の彩りのもの達の存在のことを、その生命の巡りのことを考えてしまったから。
(……それに自分を)
重ねてしまっていたから。
何も言わない叶を特に気にする様子を見せずに、咲蘭は桟枠に手を置き、叶とは逆の体勢で体を預ける。
流れるような動作で見上げるのは、空。
「綺麗……ですね」
咲蘭の視線の先には、叶も先程見ていた月があった。
それは真円を描き、洗練された皓き光を、全てのものに平等に照らしていた。
空がとても高く、澄んだ空気の中ではその光はいつも以上に皓々しく感じられる。
まさに名月。
月を見る咲蘭の、宵闇のような漆黒の髪が、さらりと揺れる。普段ならば高く結われているその髪も、今宵は軽く下で纏められているだけだ。
風が吹くと横顔に髪がかかり、そして肩に落ちる。
思わずその結紐を解いて、後ろから抱きしめ、その艶髪に首筋に、接吻 を落としたくなる、そんな衝動を叶は、月を見ることでやり過ごした。
いつからだろうか。
彼のことを怖いと思うようになったのは。
彼の存在に、臆病になったのは。
確かに想いはあるのに、その想いごとこの身が消えてなくなってしまえばいいと、思ってしまう自分がいる。
彼が隣にいてくれるだけで充分なのだ。
隣にいて話をしてくれる。笑ってくれる。共に仕事をし、時折だが共に食事をする。
それで以上望んでは駄目だと頭ではわかっているのに、欲深い自分はやがて、それでは満足できなくなってしまう。
焦がれて、欲して、この想いを受け入れてほしいと、身勝手な願いを押し付けてしまいそうで。
そんなことあるはずがないと、わかっているのに。
だから怖いのだ。
今のこの心地良い関係を、壊してしまうことが。
この関係から新しい一歩を踏み出すことが。
「叶……?」
吐息のような声で、咲蘭が呼ぶ。
揺れているような、震えているような、そんな声をどうして出すのだろう。
どうしてそんな声で、自分を呼ぶのだろう。
気丈な性格の彼は、滅多なことではことでは弱い所を見せない。それが彼の矜持であることは、よく知っていた。
だからだろうか。
感情の揺れたように聞こえる声が、あまりにも咲蘭らしくなくて、やけに不安を掻き立てられる。
叶は物思いに更けていた意識を、咲蘭へと向けた。
「ずっと聞きたかったのですが……」
咲蘭の視線は月を向いたままだ。
「貴方は私のことを、どう、思っているのですか……?」
「──……は……?」
まるで否定を含んだかのような、間の抜けた声を出してしまったと、叶は思った。
どう、とはどういう意味なのだろう。そういう意味合いではないのだろうか。
(だが、もし違ったら)
きっと自分は後悔する。なぜそんなことを言ってしまったのかと、後悔する。
「……咲蘭」
叶が呼ぶ。
すると咲蘭はまるで夢から醒めたかのように、はっと叶に振り返った。
「すみません、変なことを聞いてしまいましたね」
月にでも酔わされたみたいですね、と浮かべる笑みは、とても優美で艶やかだ。
「さ……」
何故そんなことを聞いたのか訊ねたい心と、それを知るのが怖いという思いに挟まれて、叶の彼を呼ぶ声は、声にならず冷えた夜風の中に消える。
それはどういう意味で言ったのかと。
自分の抱える想いとは違うのだろうと、叶は思っている。恋や愛やそれ以上のことを既に求めている自分と違って、咲蘭のそれは違うのだろうと。
自分の望むものではないと否定しながらも、その意味が知りたいのに、知ることが恐ろしく声にならない。
問うことで自分の気持ちを、咲蘭が悟ってしまうのではないかと、そして拒絶するのではないかと思うと、恐ろしくて。
「──戻ります」
そう言った咲蘭の表情は何も変わらない。
ただその声だけが。
先程と同じように、切なく揺れている気がした。
声にならず、気持ちに押しつぶされそうになるそんな感情をひた隠しながら、叶は咲蘭の後姿を見送る。
今すぐに彼を追い掛けてしまいたいのだ。追い掛けて、背中から掻き抱いて、口付けてしまいたいというのに。
好きだ、と。
その背に声にならない声をぶつける。
どうにもならない恋情に、くらりと世界が回りそうで恐ろしくなった。
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