1 / 1

切恋眩瞑

  『──貴方は私のことを、どう、思っているのですか……?』   そう言ってすぐに話を逸らした彼の、美しい横顔を思い出す。  あの言葉は、一体何を意味していたのだろう。  真意を問えば、壊れてしまうのだろうか。  今まで築き上げてきた関係も。信頼も。  全てが……。    麗国中枢楼閣、最上階。  私室から少し離れた場所に、物見楼と呼ばれる楼台がある。  政務を終えた国主、(かのと)は、渡床から見えた真円を描く月に誘われるようにして、この場所を訪れていた。  時折聞こえる虫の音に耳を澄ます。    昼間の内はまだ感じられる夏の名残のような暑さも、夜になればすっかり冷え、少しばかり肌を冷やすような風が、叶の長い銀糸の髪を揺らした。    少しずつ、少しずつだが季節が冬へと向かっている。  生命に彩られていた世界が、次の世代のための準備を始め、やがて朽ち、眠りにつく。  そして再び恋と彩りの季節に、今以上の賑わいを見せてくれる。  だが叶にとって、彩りの失われていく次の世代の為の準備期間が、とても寂しいものの様に思えて仕方なかった。  たとえ次世代に再び彩りを見せてくれようとも、そんな生き物の中には伴侶に巡り合うことすらできず、この冬で朽ちていくものもある。  普段であればそんな生命の循環など、気にも留めずにいた。当たり前の事のように思っていた。  伴侶に巡り合うものと、そうではないもの。  自然という生命の巡りの中で、伴侶に出会わなければ、己の命を継ぐものも生み出せず、ただ朽ちて、他の生き物の血肉となるだけだ。  だがそれも自然淘汰という意味では、必要なことなのだろうと、叶は思う。 (……そういうものだと、分かっているというのに)  朽ちていくものと自分を、どうも重ねてしまって、切なさに胸が痛くなる。  ずっと好きだった人がいる。  好きで好きで堪らないというのに、好意を伝えたことは一度もないし、これからも伝えるつもりはなかった。  伝えるつもりがないというのに、彼のことを特別に想う自分がいる。彼に話し掛けられればその日一日が幸せな気分になり、彼が他の者と楽しく話をしているのを見るだけで、酷く気持ちが落ち込む。  そうやってやがて臆病者の自分は、伴侶に巡り合わなかった秋の彩りのもの達と同じように、この想いごと朽ちていくのだろう。   (……らしく、ないですね)    本当に自分らしくないと、叶は思う。  これまで欲しいものは欲しいのだと、自分の思うようにしてきたというのに。  彼に対しては、どうしても駄目なのだ。  嫌われたくないと、力尽くで自分のものにするような者なのだと、思われたくない自分がいる。  自分を嗤うように、叶がため息をついたその刹那。 「──あなたが溜息とは、明日はいよいよ大雪かもしれないですね」  その声に叶は敏速に振り返った。  普段なら分かる彼の気配を、感じることができなかった自分に、内心驚く。  自分はそれほど、物思いの中に入り込んでいたのか。 「……普段なら飄々として私に気付くというのに」  それほど思いの深いことを考えていたんですかと問う咲蘭(さくらん)に、叶は軽く息を詰める。  楼台の桟枠に背中を預けながら、叶は言葉を探した。  何と答えていいのか分からなかった。  確かに普段ならば、彼の気配に気付き、彼が言葉を発する前に話しかけて、話の先導を取ることもできたかもしれない。 (……だが、今は)  誰にも触れられず、伴侶も見つけられず、朽ち果てていく秋の彩りのもの達の存在のことを、その生命の巡りのことを考えてしまったから。 (……それに自分を)   重ねてしまっていたから。  何も言わない叶を特に気にする様子を見せずに、咲蘭は桟枠に手を置き、叶とは逆の体勢で体を預ける。  流れるような動作で見上げるのは、空。 「綺麗……ですね」  咲蘭の視線の先には、叶も先程見ていた月があった。  それは真円を描き、洗練された皓き光を、全てのものに平等に照らしていた。  空がとても高く、澄んだ空気の中ではその光はいつも以上に皓々しく感じられる。  まさに名月。  月を見る咲蘭の、宵闇のような漆黒の髪が、さらりと揺れる。普段ならば高く結われているその髪も、今宵は軽く下で纏められているだけだ。  風が吹くと横顔に髪がかかり、そして肩に落ちる。  思わずその結紐を解いて、後ろから抱きしめ、その艶髪に首筋に、接吻(くちづけ)を落としたくなる、そんな衝動を叶は、月を見ることでやり過ごした。  いつからだろうか。  彼のことを怖いと思うようになったのは。  彼の存在に、臆病になったのは。  確かに想いはあるのに、その想いごとこの身が消えてなくなってしまえばいいと、思ってしまう自分がいる。  彼が隣にいてくれるだけで充分なのだ。  隣にいて話をしてくれる。笑ってくれる。共に仕事をし、時折だが共に食事をする。  それで以上望んでは駄目だと頭ではわかっているのに、欲深い自分はやがて、それでは満足できなくなってしまう。  焦がれて、欲して、この想いを受け入れてほしいと、身勝手な願いを押し付けてしまいそうで。  そんなことあるはずがないと、わかっているのに。  だから怖いのだ。  今のこの心地良い関係を、壊してしまうことが。  この関係から新しい一歩を踏み出すことが。 「叶……?」  吐息のような声で、咲蘭が呼ぶ。  揺れているような、震えているような、そんな声をどうして出すのだろう。  どうしてそんな声で、自分を呼ぶのだろう。  気丈な性格の彼は、滅多なことではことでは弱い所を見せない。それが彼の矜持であることは、よく知っていた。  だからだろうか。  感情の揺れたように聞こえる声が、あまりにも咲蘭らしくなくて、やけに不安を掻き立てられる。  叶は物思いに更けていた意識を、咲蘭へと向けた。 「ずっと聞きたかったのですが……」    咲蘭の視線は月を向いたままだ。 「貴方は私のことを、どう、思っているのですか……?」 「──……は……?」    まるで否定を含んだかのような、間の抜けた声を出してしまったと、叶は思った。  どう、とはどういう意味なのだろう。そういう意味合いではないのだろうか。 (だが、もし違ったら)  きっと自分は後悔する。なぜそんなことを言ってしまったのかと、後悔する。 「……咲蘭」    叶が呼ぶ。  すると咲蘭はまるで夢から醒めたかのように、はっと叶に振り返った。 「すみません、変なことを聞いてしまいましたね」    月にでも酔わされたみたいですね、と浮かべる笑みは、とても優美で艶やかだ。 「さ……」  何故そんなことを聞いたのか訊ねたい心と、それを知るのが怖いという思いに挟まれて、叶の彼を呼ぶ声は、声にならず冷えた夜風の中に消える。    それはどういう意味で言ったのかと。  自分の抱える想いとは違うのだろうと、叶は思っている。恋や愛やそれ以上のことを既に求めている自分と違って、咲蘭のそれは違うのだろうと。  自分の望むものではないと否定しながらも、その意味が知りたいのに、知ることが恐ろしく声にならない。    問うことで自分の気持ちを、咲蘭が悟ってしまうのではないかと、そして拒絶するのではないかと思うと、恐ろしくて。 「──戻ります」  そう言った咲蘭の表情は何も変わらない。  ただその声だけが。  先程と同じように、切なく揺れている気がした。  声にならず、気持ちに押しつぶされそうになるそんな感情をひた隠しながら、叶は咲蘭の後姿を見送る。    今すぐに彼を追い掛けてしまいたいのだ。追い掛けて、背中から掻き抱いて、口付けてしまいたいというのに。  好きだ、と。  その背に声にならない声をぶつける。  どうにもならない恋情に、くらりと世界が回りそうで恐ろしくなった。                                                     

ともだちにシェアしよう!