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第1話
携帯の画面に落とした視線のすみに、丁寧に磨かれた革靴のつま先が入り込み、綺麗に並んで止まった。程よい艶めきと、使い込んだ柔らかな質感。レバレッジカンパニーの営業が1日にどれだけ歩きまわるのかは知らない。知らないけれど、多分、在宅仕事しか知らない高野には想像もつかないほどの距離を、この革靴は踏みしめたに違いないのだ。
携帯から流れている音楽を止めて顔を上げると、仕事着の贅沢は罪悪感が無いと言う彼の、特に気に入りのグレーのスーツが目に入り、今日は何か大事な仕事があったのかもしれないという考えがちらりと浮かんだが、それはほんの一瞬で、高野が自身の頭によぎった考えを意識するより前に、夜を待つ薄墨の空に霧散して消えた。
イヤホンのノイズキャンセラーは優秀で、目が合って笑みを浮かべた男の口元がなにがしかの言葉を紡いだのは見えたが、それが音になる事は無かった。ちょっと待って、と応じた自分の声さえよく聞こえず、果たしてこの人混みの中、相手に届くだけの声量だったのかは、高野には分からなかった。
「……お疲れ」
イヤホンを取ると、周囲の音が突然、驚くほどの活気と熱量で身体の中になだれ込み、そのエネルギーを呑み下すのに1秒、高野は目をつぶり、目を開けると同時に、再度目に入った人好きのする笑顔に向かって声をかけた。
「うん。ありがとう。お待たせしました」
さっき聞こえなかったのは多分、お待たせしました、の一言だ。
「いいえ。仕事?」
そう、とうなづいて、宇津木はふふっと笑った。宇津木は、昔からよく笑う。だから、見慣れたものなのだ。幼馴染のこの男の笑顔など、もう、見飽きるほどに見てきているはずなのだけれど。
「店、予約してあるから。急ごう」
身の内から溢れてくるようなふうわりとした笑顔で宇津木が言い、高野は思わず視線を逸らす。くすぐったい。嬉しくて嬉しくて仕方がないと言うようなその笑顔がくすぐったくて、高野は最近、見慣れたはずの笑顔を、まっすぐに見返すことができない。
宇津木はそれに気付いていて、高野が目をそらすと余計に笑みを深める。今日も、きっと、そう。それを知っているから、目をそらすと余計に気恥ずかしさが募って、高野は顔を上げられなくなる。
「……高野」
ほんの少し間をおいて。俯いたまま動きを止めた高野の耳元に、笑いを含んで蕩けた声が届く。
「……意地悪したくなるから、そういう顔しないで」
耳朶に吐息が触れるほどの至近距離と、人混みの中囁かれた言葉の内容の危うさにどきりとして思わず顔を上げると、ひょいと身を起こした宇津木は得意げに肩をすくめた。
カッと、耳のあたりが熱くなる。
「こんなとこで何、言って、」
「聞こえないよ。こんな人混みじゃ」
高野の小声の抗議を飄々と躱し、宇津木は早く行こうと身を翻した。
「こうちゃん、はい」
満面の笑顔で囁いて、彼は小さなキャラメルを一つ、高野の手のひらにぽとりと落とした。子供の頃、宇津木は高野のことを、こうちゃんと呼んでいた。幸希(こうき)だからこうちゃん。
「ありがとう」
高野も声を潜めて礼を言い、二人で並んで白い包みを開ける。なるべく音を立てないように。ゆっくりゆっくり、包みを開いて。
昼休みの図書室は静かなさざめきに満ちていて、何か少し、特別な場所のような気がしていた。まだ10歳に満たない子供にとって、その静謐さは神秘で、その神秘の中で、高野と宇津木は、小さな秘密を共有する、共犯者だった。
ころりと、白いセロファンの包みから転がり落ちたクリーム色の四角いキャラメルを、手のひらに乗せる。秘密の悪事の興奮で、少し湿り気を帯びた小さな手のひらの上で、キャラメルはすぐにとろりと溶け出す。古い紙のカビたような、湿っぽい匂いの中に、かすかに混じる、甘い香り。高野がちらりと宇津木を窺うと、タイミングよくこちらを振り向いた彼とバチリと視線がぶつかり、二人でにんまりと笑う。声には出さず、口の形だけで宇津木がせーのと言い、二人同時にキャラメルを口の中に放り込む。じゅわりと広がる、甘い甘い、優しい味。
「…美味しいね」
両手のひらを筒状に丸めて口元を覆い、宇津木一人の耳にだけ届くよう耳元で囁くと、
宇津木ははうんうんとうなづいて、高野を真似て耳元で囁いた。
「二人で食べるのが、一番美味しいね」
二人だけの、甘い甘い秘密。
「美味しかった?」
「美味しかった」
よかったと、宇津木が笑う。宇津木は食事のセンスがいい。彼のオススメの店は、いつも本当に美味しいから、ついつい酒も進んでしまう。ふわふわと、心地いい。
終電間近とは言え、金曜日の駅前はまだまだ人だらけで、覚束ない足取りで進んでいると、時折人とぶつかりそうになる。
「っ、と、」
何度目かフラついた高野が思わず声を上げると、隣から伸ばされた腕が、高野の腰をそっと支えた。さりっと、指先が腰骨を擦り、ぞくりとした感覚が背中を登る。
「飲ませすぎた?」
少し驚いて隣を向くと、心配そうに眉を寄せた宇津木と目が合い、捕まっていいからねと告げられると、他意のない触れ合いに浅ましく反応した自分に気づき、高野は赤面して視線を逸らした。
「…あ、り、がとう」
自身の勘違いが恥ずかしくてぎこちなく礼を述べ歩き続けたが、一歩一歩歩を進めるたび、宇津木の指先が骨の上をさりさりと滑り、気にしないようにしようとするほど、その刺激に神経が集中してしまう。
絶妙な力加減で腰のあたりを刺激されて、ぞわぞわと変な気分になってくる。酔いのせいだけではない火照りが、とろとろと、脳を溶かす。改札に入るときには宇津木も手を離すはずだ。そうしたら、もう大丈夫と伝えて、少し、離れて…
「あ、高野。改札こっち、」
不意に、宇津木が方向を変えた。ぐいと、腰を支える手に力が入る。ゾクゾクが全身をめぐる。
「…ん、ぁ」
突然の刺激に身体が震え、鼻にかかった声が出た。ピタリと、宇津木の足が止まる。かぁっと頭に血がのぼる。
「っ、宇津木、あの、もう、一人で歩けそう、だから」
離して。離してと告げる。恥ずかしい。なんだ今の声。恥ずかしくて死にそう。頭の中がぐるぐるしている。宇津木から離れようと身をよじる。
「宇津木、離して」
「やだ」
情けなくて、上ずった声で抗議したが、その願いはにべもなく撥ね付けられる。どうしてと、泣きたいような気持ちで宇津木を向くと、熱を孕んだ視線が爛々と高野を捉えており、口元だけで笑う男のこの笑顔は多分、本当に初めて見る顔だと、なぜか一瞬、冷静に思った。
「……ごめん。ちょっと、もう、今日泊まりでもいい?」
どくりと心臓が跳ねる。
今も。今もと高野は思う。
今も、宇津木と高野は共犯者で、甘い甘い秘密の底に、苦い苦い想いを沈めて。
「…家に電話…」
「…うん。分かった」
宇津木の前では薬指の指輪を外す。誘ってきたのは宇津木から。
バカみたいなルールと、バカみたいな言い訳。
ー俺が悪いんだ。諦め切れなかった俺が悪い。だから、高野は何も悪くない。
白いベッドの上。与えられる愛の心地よさに身を委ねた高野の決意も覚悟も思いも。宇津木は、ふうわりと綺麗な笑顔で溶かしてかき混ぜて、全部全部ぼやかしてしまった。
図書館の秘密は白日に晒され、進んで咎を負った小さな彼は、泣きそうな笑顔で言った。
ーお菓子を持ってきたのは僕だから。こうちゃんを巻き込んじゃってごめんなさい。
「もしもし?俺だけど。終電逃しちゃって…今夜は適当に泊まるよ。…うん?あぁ…うん、ごめん。…うん…じゃあ、おやすみ」
ベッドに仰向けに横たわる高野を全身で囲い込む宇津木の視線は、自分ではない他者と話している時ですら、高野から外されることはない。妻の声を機械越しに聞きながら、欲に満ちた罪人の目を見返す時、高野は酷く冷めた気持ちになる。本当はもう、この夫婦生活は終わりかけているのだ。電話の向こうの声は無感動で、朝帰りの夫に対する猜疑も不安も読み取れない。ただ、子供が大きくなるまでは家族の形を保たなければと、お互いにそう考えていることは、10年の結婚生活で否応無く身についた以心伝心が伝えていた。もうだから本当は、この電話も、夫婦二人の間には何の意味も生まないのだ。電話をしようがしまいが、別段なにも変わらないことは、高野も分かっている。だからこれは、パフォーマンスなのだ。今、目の前で、高野に強い執着を見せるこの男の為の儀式。
短い電話を終えて携帯を放る。電話を切った瞬間、宇津木は微かに眉根を寄せる。
「……ごめんなさい」
高野はなにも悪くないのに、俺のせいで、ごめんなさい。
「……うん」
宇津木がそう言うなら、もうそれでいい。
空いた両手を上から見下ろす宇津木の髪に差し入れ、そっと引き寄せる。その刹那、宇津木の瞳の奥の熱情は一気に濃度を増し、溢れた熱が溶けこぼれて、高野を襲う。
「ごめん」
唇が触れ合う直前、聞こえるか聞こえないかの声量で紡がれた言葉には答えず、男の頭を抱えた両手に力を込める。薄く開いた唇を舌先でなぞり、そのまま男の口内に侵入する。男は一瞬、驚いたように目を見開き、その後すぐにうっすらと笑んだ。
目を閉じることのないキスの間、彼を罪人と言うならば、行為の愛を持ってそれに応じる自身は一体何者かと考えてみたものの答えは出ず、一瞬で主導権を奪われてすぐにぐずぐずに溶け出す脳が最後に思うのはいつも、宇津木の罪を赦し続けるしかない自分の罪は、では誰によって赦されるのかという、その問い一つだった。
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