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第一章 波の狭間で6
悪夢だ。宏輝はまた今日も謎のカードをゴミ箱に捨てる。
初めてカードが届けられた日から、今日でもう十日目。いたずらであろうと思っていたカードは毎日のように届けられ、宏輝を精神的に追いつめていた。
文面は毎日異なっている。初めのうちは抽象的なものだったが、その中身は日に日に宏輝個人に宛てられたものになり、また文面も性的なものになっていた。
『僕にとって君は眩しすぎる』
『抱きたい』
『ヒロキを俺だけのものにしたい』
宏輝を苦しめる相手が自分と同じ男であるとわかったとき、宏輝はおぞましさに吐き気をもよおし、その日の授業を休んだ。カードには精液らしきものがかけられた形跡も見受けられる。
――どうして、また男に執着されるんだ。
宏輝は感じることのないはずの悪臭に鼻を歪める。十年前の忌まわしき記憶が、この数日間の嫌がらせによって呼び起こされ、当時の混乱の中に宏輝自身を落としこむ。
――嫌だ。嫌だ。助けてマサくん。
あの日、宏輝は必死で将大に助けを求めた。この声が将大には届かないことは承知の上で。身体中を這い回る脂ぎった手のひら。むせかえる汗の臭い。うなじにかかる生温かい吐息。
「うぅ……っ、うぁ……ぅ……っ」
過去のトラウマに苛まれた宏輝は、この日も大学を欠席した。
嫌がらせはその後も続き、宏輝は精神的に追いつめられ、その影響は身体にも出るようになった。不眠気味になり、思考が安定しない。食欲も落ちる。全身を包みこむ倦怠感。もともとやせ形だった身体はさらに細くなり、頬もげっそりとこけ、目の下にはくっきりと隈が刻まれた。
毎朝郵便受けを見るのが怖くなり、郵便受けを確認しないで大学に行く日々が続き、溜まりに溜まった郵便物を見た大家がわざわざ部屋まで届けに来た日もある。
もちろん、例のカードも大量に溜まってあった。可愛らしい包装を見て、大家は「恋人からのプレゼントかい?」と尋ねた。冗談じゃない。これらのカードは目に見えぬストーカーからの嫌がらせだ。
――ストーカー。
そうだ、宏輝を悩ます相手はストーカーなのだ。ストーカーなられっきとした犯罪だ。訴えればどうにかなるかもしれない。だが宏輝はストーカーからのカードをすべて処分してしまっていた。手元にすら置いておきたくはなかったからだ。
それに何と言って訴えればいいのかもわからない。宏輝がされたことはストーカーと思しき見知らぬ相手――おそらく男から毎日カードを送りつけられたというだけのことだ。その内容も脅迫めいたことではない。直接的な被害がないため、誰かに相談するのもためらわれた。
だが宏輝はもうこのアパートにひとりでいることに恐怖を覚え始めている。このままストーカーの行動がエスカレートしたら。そう考えるだけで冷や汗が出る。家はもう知られているのだ。かといって引っ越し資金なんてものは、ごく普通の学生に備わっているはずもない。
「……助けて……マサくん……」
今の自分が頼れる相手は将大だけだ。宏輝はスマートフォンと財布だけを持ってアパートを飛び出した。
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