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0:追憶

 生まれた時から父は居なかった。ただ『私の運命の番なの』と繰り返す言葉と。 『あなたは愛されて(のぞ)まれて生まれたのよ』  そう言った母はゆっくりと、でも確実に壊れていった。  子供の誕生と共に引越ししたアパートは築年数も不明なほど、外壁は煤けており、今では殆ど見なくなった鉄製の外階段も錆が浮き、触れる度にボロボロとクズが手に付く。  それでも母がこの場に住居を構えたのは、彼女の実家から投げつけるように与えられたお金を少しでもやりくりし、子供にちゃんとした教育をしてあげたいからという親心だった。更に大家の老婆が、元は身なりの良いであろう若いオメガの女性が一人、子供を抱えて育てる決意に胸を打たれたのもあったのだが……  番から離れたオメガは、定期的に訪れる発情(ヒート)の燻り続ける欲情の熱に炙られ続けていく内に、肉体だけでなく精神も焼き切れ、常識や観念といった人間としての尊厳すら燃え尽き壊れていってしまう。  子供はその光景を淡々と目の当たりにしてきたのである。  冬。前触れもなく母が死んだ。  薄っぺらい布団の上で、まるで眠っているかのように。母は静かに横たわっていた。  痩せこけても少女のような笑みを口元に浮かべて、まるで絵本に出てきた眠り姫のような死に顔で。  子供は虚ろな眼差しを母に向けながらも、手の中にある二つの異物の形を確かめるようになぞる。  少し前から母は殆ど寝たきりで、ある日薄っぺらい手帳と、本革の硬いケースに入った小さな何かを手渡し、こう言った。 『ごめんね。もう、何かしてあげれる事ができないから、この銀行の通帳からお金を下ろして、あなただけでも一人で生きて……』  淡く微笑む母は、メガバンクと母の名前が入った手帳と、多分印鑑だろう物を手渡し告げた。当時、五歳になったばかりの子供に、こんな物を渡されて使える訳がないだろう。しかし、そんな事すら思い浮かばないまま、ひとえに母を安心させる為だけに、それを受け取り頷いたのだった。 『……さむい』  暖房もほぼない狭く古いアパート。すきま風が入り、途方にくれた子供は、死体となった母に温もりを求めて布団に入るも、既に死後硬直も解けた母はただただ冷たいだけで、布団の中に居るのに外よりも寒く感じた。  時折カビの生えたパンを食べ、そして母の横で眠る日々。預かった手帳と革のケースは常に目のつく場所に置いて、使い道もわからぬまま眺めていた。  春。母はまだ眠ったままだった。この時にはうっすらと母が生きてない事に気づいていたが、外へ誰かに救いを求める事も生前に渡された通帳を使う事も億劫で、冷蔵庫に残っていた賞味期限の切れた食べ物や、止まる気配のない水を飲んで、夜には母の横で眠り、いつかやって来るだろう『死』を待ち続けていた。  彼女(・・)がやって来たのは、春も終わり、窓の外から僅かに見える桜の花が散り、枝には濃い緑の葉が生い茂った頃。  バン、と合板の端が剥がれた扉が勢いよく開かれ、蝶番がギシリと悲鳴を上げる中、彼女は息を乱し、綺麗な栗色の髪がぐちゃぐちゃになって、鮮やかに化粧した額には汗が大量に浮かんでいて、それでも毅然とした佇まいで入口に立っていた。 『──!』  艶やかなワインレッドの唇から、母の名を叫んでいる。母の知り合いなのだろうか。  しかし、屍になった彼女は当然ながら反応する事はなく、子供はゆっくりと母の隣から起き上がり『だれ』と呟いた。  この頃には、動く事も声を出すことも億劫で、日がな一日ひたすら寝ていたのだ。  久々に出した声は空気が漏れたようなもので彼女に届いたのか分からない。  彼女は部屋の状況の異様さに息を飲んで、それから弾けたように靴を脱ぎ捨て入ってきた。 『あなたは……玲司(れいじ)ね?』  何故彼女が自分の名前を知っているのか不思議に思ったものの、こくりと首肯する。  子供の頬に細く白い手を当てながら『こんなに痩せて……』と声を震わせて言う。ずっと冷たい母と一緒に居たからだろうか。触れる体温が熱い。  正直、初めて会う人にこんなに心配される理由が分からなかった。この人は誰なんだろう。 『もう……大丈夫だからね』  お風呂にも数ヶ月入らず、フケだらけの垢だらけの子供をぎゅっと抱き締めた彼女からは、とても良い匂いがした。なんだか、その声と匂いで、子供は死ねなかった(・・・・・・)と自覚したのだった。  夏。助け出された死に損ないの子供は、真っ白で薬の匂いに包まれた部屋でベッドに横たわっていた。  随分大きくなってから聞かされたのだが、当時は栄養失調に加え、数ヶ月遺体と過ごしていたせいで、精神鑑定やカウセリングを受けていたらしい。  警察も事情を訊きに来ていたようだが、ずっと母に囲われ外にほぼ出る事のなかった子供の知能は同年代の子供に比べ低く、死の概念もなかった為に通報できなかったのだろうと判断されたのもあるし、寒川家の圧力もあって、早々に捜査は打ち切られたようだった。  そういった理由もあり、体の改善は比較的早かったものの、精神的治療により子供が病院の外に出れるようになったのは、くすんだ枯葉が落ち、空は灰色の重苦しい雲に覆われた季節──母が死んでから一年が経とうという冬の日だった。  子供は六歳になっていた。  翌年、小学校に入るからと、病院には何人かの人間が出入りしていた。  自覚すればかなりの高待遇だったが、それも寒川が経営している病院の、特別室だったからだろう。  子供は乾いた大地に水を吸収するように、ぐんぐんと知識を吸い込んでいった。おかげで入学には間に合うそうで、周囲の人間達が胸を撫で下ろしていた。 『きっと、この子はアルファの確率が高そうですね』 『ほぼアルファで確実かと。運命の番となったアルファとオメガの間に生まれた子の殆どがアルファでしたから』  部屋の外で話す声が静かな部屋に流れ込んできたが、子供にはそれが何を意味するのか理解できなかった。  退院したその日は、綺麗な女性だけでなく、彼女の子供も一緒だった。ふわふわの毛皮のコートを着た女性の隣の子供より少し年上だと分かる少年は、キャメルのピーコートをまとっていた。 『おれは、さむかわそういちろうだ。おまえは?』 『ぼくは……れいじ』  居丈高に言い放った彼女の子供は、彼女から盛大に頭を叩かれていたが。何故、子供が叩かれる理由も、彼女が叩いた理由も、子供には理解できなかったのである。  子供の母は子供を溺愛していた。ドロドロのズブズブに甘やかし、母以外に目を向けないようにしていた。だからこそ、子供は母から叩かれた事もなければ、叱られた事もなかったのだ。 『玲司』  彼女は唐突に子供の名を呼び、子供に目線を合わせて屈んでくる。 『はい』 『今日から、玲司は寒川玲司と名乗りなさい』 『……どうして?』 『あなたが、今日から私の子供になるからよ』 『ぼくにはおかあさんいるよ?』 『薔子(しょうこ)様!』  意味が分からなくて首を傾げる子供の言葉を遮るように、固い声音の男性の声がかぶさってくる。 『貴方達の言い分も分かるわよ。でもね、この子は母を亡くし、身寄りがどこにもないの。それなら、玲司も寒川の血を引いているんだし、総一朗の弟にすればいいんじゃない?』 『ですが……』 『総一朗が継ぐまでとはいえども、私が現寒川の当主よ。もし、私をねじ伏せれる者が居るのなら連れてらっしゃいな』  子供の目の前で、彼女は年上だろう男性を言葉で言い負かし、子供へと向き直す。 『だから、今日から貴方は寒川玲司よ。分かった? すぐに私をお母さんだって思わなくてもいいの。ただ、私達と家族になりましょう』 『かぞく……?』 『そう、家族。貴方に何かあれば、私や総一朗達が貴方を助けてくれる。逆に、私達が困った事があれば、貴方が助けてね?』 『うん。わからないけどわかった』 『うふふ。今はそれでいいの。でも、憶えていてね』  コクリと子供──玲司が頷くと、彼女は薔薇の花が開くように笑っていた。  彼らは玲司を傷つける事はないだろう。そう雰囲気から感じ取っていたものの、周囲の玲司に向ける視線は色んな感情を孕んでいて、少なくとも全ての人間が歓迎していないのだと悟ったのだった。  早く、一日も早く大人になって、座り心地の悪いこの場所から離れたい。そして、母のいる場所へと行かなくては。  その意味をちゃんと理解していた玲司は、ぎこちない笑みを浮かべながらも、心は違う方向へと歩き出していたのだった。 +  夏は避暑に訪れる人間が多いが、冬は雪に覆われるせいで過疎化した繁華街の一角にある小さなバーの扉がカランとカウベルの音色共に開かれる。  外はまた雪が降っているのだろうか。細身の体が入ってくると同時に、肌に刺さるような冷気が忍び込んでくる。 「いらっしゃいませ」  若いバーテンダーの声が、肩に乗った雪を払う仕草を見せる客へと投げられる。緩やかに巻かれた栗色の髪をふわりと靡かせ、グロスで濡れた唇を笑みの形にした艶やかな客は、バーテンダーへと、マスカラとアイライナーで縁どられた大きな瞳を細めて口を開く。  ベータにしては容貌が整っており、店内の男性客達の注目を集めている。 「ランキュヌというカクテルをひとつ」 「……ご準備に少々お時間がかかりますが、よろしいでしょうか」 「ええ。構わないわ」 「数はどれほど」 「そうね……これくらいは欲しいわ」  艶やかな容姿の客は、綺麗に磨かれた爪を見せるように片手を広げて見せる。 「五、ですか。お値段はそれなりになりますが、問題ありませんか?」 「大丈夫よ。もし不安なら、先に手付けでも出しましょうか」  バーテンダーの言葉にベータの艶やかな女は、クラッチバッグからシンプルな茶封筒を取り出し、彼に見せつけるように振ってみせる。見た目とは違う下品な女と評価したバーテンダーは、小さく嘆息して女をカウンター席へと促す。  何も知らない客もいるというのに、と内心はイラつきながらもバーテンダーは女の前におしぼりを出し、注文のあったバーテンダーオリジナルカクテルを作るため準備に手を動かす。  ランキュヌはアペロールというイタリア産のリキュールをシャンパンで割ってオレンジを添えたカクテルだ。  赤い液体の中で弾ける炭酸が、店のライティングでキラキラと光り、女性客には比較的好まれる。しかし、このカクテルはメニューには掲載されおらず、ある意味暗喩として利用されていた。  ランキュヌとはフランス語で「恨み」を意味する。  つまりは、害したい相手を雇いたい、といった時に使われるオーダーである。  バーテンダーは女がどこでその情報を知ったか知らないが、面倒な人間が来てしまったな、と再び小さなため息が零れていた。

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