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第54話 宝物
「はわー!」
朝が来た。
「わっ、はわわわ、はっ……ぁ、本当に? 本当ですか? 時計……壊れてる? 鳴った?」
鳴ったよ。
「鳴ったの? 壊れてますか?」
誰に訊いてるの? 時計?
「実はすごい時間がズレてるんじゃ」
いえいえ、先生、現実逃避しないように。ちゃあんとその時間のまんまだよ。只今の時刻は七時十分。
それをすごい目を細めて、険しい表情で見てるんだろう。たぶん枕元にある目覚まし時計を両手でガシッと掴みながら。
「って、そんなわけないじゃあああああん!」
ないない。ちゃんと現実を見てください。先生。
「た、たたたた、保さん! 保さん、たもっ」
「っぷ」
そこが限界だった。もうこれ以上は無理。
「保さん! 起きてるんですか? っていうか、起きてください! もう七時十分です! そして、笑ってる場合じゃないんですってばあああああ!」
「だーいじょうぶ。朝飯、サンドイッチ作ったよ。そんで散歩は行ってある」
「ほへ?」
「遅刻だー! って騒ぐ慶登を見たかっただけ」
「んなっ」
だって、春休み中に引っ越しだったでしょ? だから、朝はけっこういつものんびりだったからさ。今日から新学期。昨日は始業式前日ってことで学校には行ったけど、少し時間が遅かったこともあって、スマイルが起こしちゃって、寝坊ドッキリは遂行できなかった。
「おはよ、慶登」
「!」
朝の挨拶とキスに目を丸くしてる。
すごい寝癖。
慶登の猫っ毛は柔らかいからすぐに元に戻るんだけど、起き抜けはハンパじゃないんだ。芸術は爆発だ状態に四方八方に髪の毛が飛び跳ねてる。もう無重力状態の超能力者みたいだ。
「ワオン!」
そしてベッド脇にやってきたお散歩も終えて上機嫌なスマイルの元気な朝の挨拶が加わった。
「えー、四月になりました」
校長のながぁぁい話を聞きながら、体育館の窓の向こうを見上げた。
今年は桜が長持ちした。満開の時期は過ぎたけど、体育館の下部分の小さな窓から見える外の地面は桜の花びらがびっしり敷き詰められていた。上の窓にはまだいくらか花を残した桜の木と青い空が見える。
「皆さんはもうご存知ですが、この三月から、わが校に新しい友だちが加わりました。今日は特別に体育館に同行しています」
カチャカチャと小さく可愛い足音が響いた。爪が体育館の床に触れて鳴る音。連れているのは、慶登だ。
「おはようございます。今日から始業式です。えっと、三月に皆さんと一緒に名前を決めました。可愛くて素敵な名前をたくさん考えてもらえて、とても感激でした。その中で一番多かった名前をつけました」
名前は、スマイル。
――触ったら、嬉しくて笑顔になったから。あと、犬もずっと笑ってるみたいに見えたから。
「スマイル、と、皆で笑顔溢れる新学期にしていきましょう」
全校生徒、全職員の並ぶ中、一つも吠えることなく良い子にしていられたスマイルがまた軽やかな音を立てて壇上を後にする。
慶登は少し緊張してた。朝の寝坊どっきりで少しばかりは緊張がほぐれたようだったけど、それでもずっと心臓が穴という穴から出てきちゃいそうなんだって言ってた。穴という穴からって。
(お疲れ様)
(緊張しました)
頬が赤いから心臓バックバクだっただろう。ひっそりと目配せすると、肩の力を抜いて、一つ大きく息を吐いていた。
「えー、それでは新しい友だちの紹介も終わりました。今日から新学期です」
――まだまだですね! 頑張りましょう!
君に会えたのは大雪の日だった。一面真っ白で、誰もいなかった。キンと冷えた空気は冴えていて、雪かきしてると少しすがすがしかったっけ。
――あのパンツは秘密のパンツですよね! そして僕の秘密、見ましたよね!
純朴先生って内心呼んでた人に脅された時はびっくりしたっけ。
――や、ですっ、な、で、キス、するんですか。
ピンポンダッシュするし。
――先生が僕のものに、なるなら。
案外大胆で。
――ふぇらちお!
すごいこと叫ぶし。
――保さんのこと、僕に、ください。
ナチュラルですごいプロポーズレベルのことを言うような慶登とだとさ、季節がめまぐるしくて、キラキラしてて。
「新しい季節、新しい気持ちで、頑張りましょう」
久しぶりに、四月のこの柔らかい日差しが冷えた体育館に降り注ぐ、春の一日を清清しい気持ちで迎えてるって、思った。
「二年生ですよー」
「そうですね」
「なんか! ランドセルがカラフルでした! みーんな黄色だったのに」
「たしかに」
「明日から頑張らなくちゃ! ね! スマイル!」
スマイルの元気な声が夕暮れ時の通学路に響き渡る。
散歩しながらの帰宅。スマイルは久しぶりにたくさんの子どもと追いかけっこができて楽しそうだった。それでも散歩はしたいらしく、慶登がリードを手に取った瞬間尻尾をブンブン振っていた。
「今日の夕飯はどうしましょうね」
「しょうが焼きにしようか」
「はい! 是非! 僕は」
「蜂蜜入りの」
「甘くて」
「生姜多めで」
「ぴりってするのがいいです」
慶登の大好物が夕飯のメニューに決定して、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「僕、保さんの作るご飯大好きなんです」
「俺は慶登の作るシチュー好きだよ」
「えへへ」
慶登に教わったことはたくさんあるけれど。
「また仁科先生に新メニューを教わったので、ご馳走します!」
スマイルを連れた帰り道、ふと、目が合う。
朝、主である慶登を起こさないように、静かに、静かにスマイルと外へ出て、朝日の中、すやすや眠る君の寝顔を想像して顔が綻ぶ。向かい合わせでする食事に、帰り道に、朝のおはように、笑顔になる。
「ほわぁ! ス、スマイルっ」
急に走り出して、リードに引っ張られるように慶登が駆け出した瞬間、同じシャンプーの香りがする。
「保さーん! 鍵! あったー! 僕が失くしちゃった鍵、スマイルが見つけてくれたー!」
遠くから大きな声で俺を呼んだ君とずっと一緒にいたいって、何気ない瞬間に願う、こんな愛しい恋を君が俺に教えてくれた。
「見て見て! ほら!」
「へぇ、すごい、あったんだ」
「すごーい! スマイル」
「ワオン!」
「これ、僕の宝物にします!」
「それ? なんで?」
だって、これ失くさなかったら、保さんのこと脅せなかったですもん! そんな物騒なことを満面の笑みで言われたら、笑っちゃうじゃん。
「さ! 生姜焼き!」
君に会えたのは大雪の日だった。一面真っ白だった。今、季節は変わって、俺たちは、一面桜色をした帰り道を一緒に歩いてる。
「お腹空きましたね」
一つの家に、一緒に帰っていく。
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