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兄と旅行編 3 びゅぅぅ
ほわほわマシュマロみたいなほっぺたの慶登に兄がいるっていうのは、前に少しだけ聞いたことがある。
郁登っていう、兄がいて、高校の教諭をしている。
でも、その時は「ふーん」っていう感じ。
同性だからね。
兄さん、僕はこの人とお付き合いしているんです、なんて紹介されることはないだろうし、今までの自分にはそんなことなかったし、だから、遠いことというかさ。
会うことはないと思ってた。
ただ、慶登は慶登だった。正直で真っ直ぐな。
引っ越しをすることになりました。
なんで?
犬を飼うことになりまして。
先生の仕事をしながら犬を? なんでまた。大変じゃん。
大丈夫です。二人暮しなので。
二人暮らし?
誰と?
お付き合いしている方と。
お付き合いしている方と?
はい。そうです。
そんな会話を引っ越しの少し前にしたらしい。そして、先ほど、その話をした兄から、最近調子はどうだ? 海沿いの旅館に一緒に旅行しないか? と、言われたらしい。
そんなことってありますでしょうか。
「おおお……なんかすごいとこですよ! お風呂がお部屋についてるんだそうです。オーシャンびゅううう!」
ないでしょ! なんか色々あるでしょ? ほらさ。
「ね、慶登」
「びゅうぅ、はいっ!」
オーシャンびゅうぅに大興奮だった慶登が口を「う」の形にしたまま顔を上げ、元気に返事をして、シャンプーしたてでほわほわに仕上がっている髪をふわりと揺らした。
風呂上りプラス諦めかけていた海旅行に行けることになった嬉しさで、いつも以上に饒舌に兄のことを話す、そのマシュマロほっぺたがピンク色に染まってる。でもさ……。
「ね、付き合ってるの男って言ったんだよね?」
「はい! もちろん! 同じ小学校の教諭をしているって。大須賀保さんっていう方で、五つ年上の方ですって。あ、兄も教師をしてるんです。高校の」
「前にそれ聞いた」
「えへへ」
えへへ、ではなくて。
お付き合いをしている人がいる。その人は同性で年上だ。という報告からしばらくしての「旅行に一緒にいかないか? その交際している人も含めて」っていうのはさ、つまり……見定める気満々というか。
「あの……保さん?」
慶登は真っ直ぐだから、隠すことはないだろう。真っ直ぐだから、ぶつかることだってあるかもしれない。柔らかく優しいけれど、芯が強く真っ直ぐだからこそ。
「あの」
だから、好きになった。
「言っちゃ、ダメ、だったでしょうか。その……でも、僕はっ」
普通は、どうだろうね。そうオープンにはしないことかもしれない。それは男女であってもさ、彼女がいますって言いふらして回る人がいないのと同じように。でも、普通だから、なんだ。
――彼は素晴らしい人ですよ。素晴らしい人で、尊敬していますし、大好きです。
慶登は普通に、家族へ好きな人がいると、交際している人がいると伝えただけ。
「旅行、楽しみだ」
少し怖い。否定されるのは怖い。
でも、この人の柔らかく、けれど真っ直ぐなところを好きになったから。
「……はいっ」
俺も、真っ直ぐ、この人のことを好きだと言うことにしている。
「海、僕も楽しみです! 兄は体育の先生なんですよ。泳ぐのも上手で。体育大出身で運動神経抜群なんです!」
「え?」
ほわほわマシュマロな慶登の兄だから、ほわほわマシュマロ、とまではいかなくても、柔らかいマフィンくらいな感じかなって思ってたんだけど。
「僕は運動神経あまりないので、よくヒーローごっことかをすると突付かれまくりの、最後は巴投げされてましたよぅ」
「えぇっ?」
「僕は将来柔道家になるんだと確信してました!」
ほわほわマシュマロどころか、全てが四角でできた、もちろん眉毛も四角でできあがった、ゴリゴリの体育会系なのかもしれないと……。
「あははははっ」
オーシャンびゅぅぅにはしゃぐ慶登を見ながら、少しだけ、見定めどころか巴投げをされた時の受身の練習をしておいたほうがいいのかもしれないと、一抹どころじゃない不安が胸によぎった。
「お疲れ様です! 大野先生」
「あ、林原先生、なんか最近、元気っすねぇ」
「はいっ!」
半袖のワイシャツから伸びる真っ白で華奢な二の腕に力を込めて、小さな力こぶ、いや、ほぼない力こぶを大野先生に見せ付けている。
そして、ちょうど帰りの挨拶を終えて、生徒が全員教室を出たことを確認し、職員室へと戻って来た俺を見つけて、そのワイシャツから伸びる白い腕をブンブンと元気よく振っていた。
「あ、大須賀先生、お疲れ様っす」
「お疲れ様です」
「あ、さっき、仁科先生から伝言頼まれて、今日の会議は明日に変更してくださいって。夏休みの前のお便り、今日中に仕上げたいらしくて」
「了解です」
その「夏休み」っていう単語に慶登が周囲に花を撒き散らす勢いで表情を輝かせた。けっこう鈍感な大野先生でも気がつくくらいにおおはしゃぎだ。
あと、二週間もすれば、海旅行が待っている。
「保先生ももう終わりですか?」
「あー」
「あ、まだ、でしたか? ごめんなさい」
「いや。そうじゃないんですけど。今日はちょっとまだ仕事が少しあるので、先に」
仕事が一緒に上がれないことはまぁよくあることで、今日は夏休み前ということもあって、普段よりも皆仕事終わりが遅かった。
「そしたら、僕、お散歩してきますね!」
「お願いします」
慶登は俺と大野先生にぺこりと頭を下げて、職員室脇にいるスマイルのところへと駆けていった。
「めっちゃ楽しそうですね。旅行行くから」
「スマイルのこと、ありがとうございます」
「いえいえ」
旅行の間、預かってくれないかと頼んだら、快く引き受けてくれた。運動不足にならないで済むって笑って。
ここは、大野先生と仁科先生にはカミングアウトしたような、してないような。はっきりと宣言したわけではないけれど、やんわりと見守られてる。いくら学校に迷い込んだ犬の保護を俺と慶登の二人が率先して進めたからといって、その犬を引き取って二人と一匹での暮らしは普通しないだろう。けれど、この二人は俺たちが暮らしていることを知っていて、周囲には公言せず、そっとしてくれている。
「今日は、一緒に帰らないんすか」
「ちょっと寄りたいところがあって。あ、そうだ。大野先生って柔道とかやったことあります?」
確か、この人も体育が一番教えるの得意って言ってた。
「ありますよー。大須賀先生やらなそう。柔道とか」
「あー、あまり。あの、受身ってどうやってやります?」
「へ? 受身っすか?」
「えぇ」
不思議そうな顔をされてしまった。そりゃ、そうか。急に受身の取り方なんて訊かれたら。
「たとえば、巴投げをされた時とか」
コツとかあれば知っておきたいなぁって思ってさ。ほら、あと二週間したら、投げ飛ばされるかもしれない。
「はぁ、巴投げ……?」
「えぇ、巴投げ」
俺は、真っ直ぐ、あの人が好きだと、あの人の兄に伝えるだろうから。だから、投げ飛ばされる覚悟をしておかないといけないんだ。
何がなんだか、わけがわからないときょとん顔をする大野先生に笑って、是非伝授をと頼んだら、廊下をぐんぐん暑くなってきた日中の太陽の熱をまだ残している風が、廊下をふわりと流れていった。
夏が、慶登と過ごす初めての夏休みが、もうすぐそこに来ていた。
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