やっぱり水泳部顧問をやっていただけのことはある。途中で郁登さんが消えたと思ったら、沖のほうまで遠泳に出ていたらしい。しかもラッシュガードを着たまま。邪魔だし、余計な浮力がついて泳ぎ難かったと笑って、そうさせた恋人を海に連れ出して、また笑っていた。 　ひとしきり遊んだ。ちょうど三時頃、まだ日はこれっぽっちも傾いていないけれど、波が少しずつ高くなってきたあたりで俺たちは海を上がることにした。 　プレオープン、本格的な営業直前の施設はどれもこれも綺麗だ。たぶん、ここは普通に宿泊するとしたらけっこう高いランクの旅館だと思う。入った瞬間のフロントの雰囲気だけでも充分わかる。 「あ、部屋は全部露天風呂付きだから、俺たちはこっちで、慶登君たちはそっちね」 「はい」 「郁登は弟さんと会うの久しぶりだから、まだ話したりないんじゃない？　食事は七時にしたから、それまでもしよかったら」 「あー、いいよ。食事の時に時間あるし」 「そう？」 　柔らかい対応の人だな。首を傾げて、せっかくなのにと再度郁登さんを確かめるように覗き込んだ。 「そしたら、僕らも部屋でゆっくりします。七時ですよね？」 「じゃあ、食事の時間になったら、ここで待ち合わせようか。下のレストランで一席で用意してもらってるから、そこでたくさん話したらいい」 「はい！　ありがとうございます！」 　慶登と二人で頭を下げると、郁登さんと健人さんが隣の部屋へと向かった。親類ってこともあって、最上クラスの部屋を用意してくれたらしい。 「それじゃあ、僕らも行きましょう！」 「あぁ」 　部屋は……。 「う、わぁぁ……」 　ちょっとすごすぎだ。これ、ただの教職員の給料じゃ手が出せなさそう。広々とした寝室にはローベッド。一泊するだけじゃ必要なさそうな広間からは露天風呂にそのままいくことができる。そして、その露天風呂のところからは湯船の水面と繋がっているように見える海岸。夕方で、陽が沈みかけている空が湯船に反射していて、そこから湯気も立ち込めていて、じっと見つめてしまうほど綺麗だった。 「すごいですよ！　保さんっ」 「……ホントだ」 「やたー！　オーシャンびゅぅぅ！」 「たしかに」 　思わず、その言い方に笑ってしまう。最初パンフレットを見た時から、それが慶登の中では大事な宿選びの条件の一つみたいだったから。 「綺麗ですねぇ……」 　遠く、向こうで寄せては引く波の様子に見入っている。その瞳に沈みかけの夕陽の色が映り込んでいた。青と黄色とオレンジとが引き伸ばされて少し滲んで混ざり合った綺麗な色。 「……」 　慶登のほうが綺麗だ、なんて言ったら、さすがに天然な慶登も笑うだろうか。でも、本当に――。 「保さん……」 「……」 　抱きつかれると、慶登から海の匂いがした。 　強い日差しに照らされてたからか、それとも別の理由があるのか、慶登の耳が赤く染まってる。 「あの……」 　はしゃいだせい、かな。抱きついてくる慶登の身体が熱い。 「あ、あの、キスを……ン」 　抱き締めながら、首を傾げて唇に触れた。 「ン、ふっ……ぁ」 　舌も、ってねだるように慶登が唇を開いて、抱きつく腕に力を込める。愛らしい欲しがりな慶登はたまらなくて、我慢、できそうにない。このまま……さ。 「…………」 「……保、さん？」 　押し倒したいんだけど、さ。 「ちょっとお土産屋に行ってみようか」 「え、あ、あのっ」 「明日、そしたら選ぶ時間省ける分、どこか帰りに寄れるかもよ？」 「あの、保さんっ！」 　すごく、すごーく押し倒したいんだけど。 「んー？」 「あのっ！　しないんですか？」 　押し倒したいんだって。 　だからさ。 「僕、したいです！」 　ホントさ。 「せっくす！」 　我慢をしている俺を突付かないでよ。 「保さんとえっちなことしたいです！」 　そんな鼻の穴を大きくさせて、可笑しいのに可愛い顔で、超真っ直ぐに誘わないで。言われるがまま、欲したままに押し倒したくなるからさ。 「明日、帰ったら、ね。ほら、お兄さんたち隣の部屋にいるし」 「…………えぇぇぇぇぇぇっ」 　声、大きいよ。慶登。 「一応、ね」 　家族旅行でもあるわけじゃん。向こう、お兄さんだって、さっき話したそうにしてたじゃん。しかも隣の部屋なんだし。 「なっ」 　やんわりと断った俺への、絶句の顔の迫力がすごいよ。慶登。 「明日、たくさんしよう」 「…………」 　そんな恨みがましい顔しないでよ。恨みがましい顔すらなんでそうなに可愛んだろうね。 「何？　なんで、お前、ブスったれてんの」 「いいでしょ。郁兄に関係ないでしょ」 「めっちゃむくれてるし」 「いいでしょ！　そうだよ！　郁兄は関係ないんだから、そんなの気にしなくていいのにっ」 　眉を上げて、郁登さんが、ふぅと慶登へ溜め息混じりの吐息を零した。慶登はただいま絶賛むくれ中だ。俺が、断ったことに拗ねている。けど、やっぱさ。お兄さんのいるところで、たとえ部屋は別々でも隣でしょ？　壁一枚隔てた向こうで、じゃ気になるし、それにちょっとさ。さすがに罪悪感が。郁登さんが弟である慶登を大事にしているのはすごくよくわかるし。だから、ここではちょっと気が引けるというか、ね。 「我儘」 「我儘じゃないよ！　我儘したのは保さんのほうだもん」 「いやぁ、どう見たって我儘なのは慶登でしょ。いつも色々してもらってるんだろ。あのコンタクトみたいに」 「そんなことありませんー、僕だって色々してます！　料理だって洗濯だって。っていうか一人暮らししてたんだからできるしっ」 　言い切った慶登に郁登さんが少し驚いていた。 「へぇ、慶登が料理すんの？」 「するよー。僕だってそりゃするよ。この前、豚汁作った！」 「ちゃんとやってるんだ」 「もちろん。ぁ、でも、保さんのほうが料理は上手だよ。保さんはすごいんだよ。雪かきだって上手だし」 「雪かき？　え？　なんで急に雪かき？」 「えへへ。あとね、他にも上手なものがいっぱいあってね」 　家族に見せる顔をしてる。 　なんか、慶登が敬語を使ってないっていうのが新鮮だなぁと、つい耳を傾けていたら、本格的な惚気話になってきて急にこそばゆくて、少し笑ってしまった。 　けっこう慶登、飲んでたかな。 「ほわぁ、あー、おっとっとっと」 「大丈夫？」 　豪勢な夕食を終えて、先にふわふわと千鳥足で歩いていた慶登が転びそうになったところを、咄嗟に健人さんが支えてくれた。 　優雅に微笑まれて、慶登が慌ててる。 「慶登、酔っ払ってんね」 「あ、郁登さん」 「……楽しそう」 　郁登さんが優しい顔をして、酔っ払いの弟を眺めてる。 「慶登と付き合うの、大変じゃない？　真っ直ぐすぎてさ」 「……」 「真っ直ぐで泣き虫で、めんどくさいでしょ」 「……」 「どんな人を慶登は選ぶんだろうって思ったんだ。あと、どんな人が慶登を選んでくれるんだろうって思った」 　俺は、この人にどんなふうに見えてるんだろう。 「でも……大変、なとこも楽しいです」 「そう？」 「めんどくさいとこも可愛いし」 「あは」 「大事にしたいって思ってます」 　慶登が転ばないよう手助けをしてくれた健人さんに深くお辞儀をしたら、その拍子に眼鏡がずるりと滑り落ちて、酔っ払って赤くなった鼻先に留まった。ふにゃりと笑って、再び、千鳥足で転びそうになって、そこをまた健人さんに助けられて。いくつか何か話して、また笑っていた。 「俺、慶登に付き合ってる人がいるって聞いてびっくりしたんだ。男の人なんだって言われてさ」 　そりゃ、そうだろう。自分の弟がいきなり同性と付き合ってるって言えば、誰だって家族はびっくりするはずだ。 「そんで、あぁ、よかったって思った」 「……え？」 「相手も男性ってことを真っ直ぐ、電話越しだったけど、はっきりしっかりした声で言えるような好きな人ができたんだって。あいつ、コンプレックスいっぱいあるでしょ？」 　できないことがたくさんあるとしょげたりもして、でもいつも頑張ってた。身長が低くて手が届かない水槽の掃除だって、目一杯背伸びをして、そのまま自分ごと水槽に落っこちてしまいそうなくらい、いつだって一生懸命で。 「気にすんなって言われても、本人は気になるでしょ？　でも、はっきりと言ってた。けど、やっぱりちょっとだけ心配でさ。顔見たくて。見たら、もっと安心した」 「……」 「兄として、是非、弟を宜しくお願いします。なんか、食事の前、膨れっ面だったけど、そういうとこも含めて、弟のこと」 「好きです」 　その言葉一つさえ言うのを怖がっていた俺だけれど。 「慶登が好きです」 　今は、慶登を大事にできるだけの強さは持ちたいと思ってる。 「保さぁー、んっうわぁ、おととと」 　俺のところへふわふわよろよろと歩いてくる慶登のほうへ、一度、郁登さんに会釈をしてから、駆け寄って、その細い手首を掴んだ。さらうように歩き出すと、少し呂律の怪し慶登も「おやすみなさい」と二人に手を振った。転びそうになる慶登を腕で支えて、そのまま、また会釈をしてからエレベーターへ。 「あの、どうかしましたか？　お腹痛いですか？」 「……部屋、戻ろう」 「あわわ、お腹っ痛いんですね？　食べ過ぎましたか？」 「違うよ」 　お腹は痛いくない。罪悪感みたいなもので痛かった胸も痛くない。 「そんで、しよう」 「……」 「セックス」 「！　やた！　はい！」 　だってさ。 　――兄として、是非、弟を宜しくお願いします。なんか、食事の前、膨れっ面だったけど、そういうとこも含めて。 　なんか、慶登のことへの愛しさが溢れてたまらなかったから。