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その壱 叶わぬ逢瀬

 どこかの世界のとある国。  自然で溢れたその国は、長年治める者がおらず、戦乱の中人々は不安と恐怖に苦しめられてきた。  しかし、長きに渡り続いた争いは、一人の大名によって平和へと導かれた。    その大名の名前を、北条尊治と言う。          北条尊治の成した功績は確かに素晴らしい物だった。  それは疑うべき事ではなく、北条尊治自身も武勇に優れ、教養もあり、姿かたちも美しいという、女人どころか敵将でさえも見惚れてしまうと言われるほどの優れた男だ。    人格も申し分なく、大戦乱の世を治めながらも、これからの時代は手を血に染めた事のない清き者が作り上げていくべきであるとして、自身の亡き兄夫婦の子を跡取りとし、その子が大人になった暁には、その地位を譲ると宣言している。    少々、男遊びが激しかった事が強いて言うならば悪癖と言えるだろうが、現在はたった一人の男を愛する、他には見向きもしない一途な男である。    そう、ここまでであれば決して問題のある男ではないのだ。      ――しかし。       「いけませぬ! 殿!」  年の暮れ、件の北条尊治を必死になって止めているのは、北条尊治の家臣である真田重正だ。  長身の尊治よりも更にがっしりとした体躯の重正だったが、尊治は体格差など全く意に介した様子もなく、重正の巨体を振り払った。 「ええい! 離さんか、重正!」 「離しませぬ!!」  しかし、重正は諦めずに主の腰にしがみつくと、その身体ごと抑えようとする。  城勤めの家臣たちは、その様子を恐る恐る遠目から見守っているだけだったが、一同の表情は明らかに重正を応援しているように見受けられるものだった。  それもそのはず。普段は尊治が子供のころからの忠臣であり、決して尊治に無礼など働かない重正が、ここまで必死になるのには理由があり、家臣たちはその事を良く理解しているからである。 「殿! その身体で城を出るのは無理だと言っているのです。いくら頑丈な貴方様と言えど、その高熱で馬などに乗れるわけがない事くらいわかるでしょう!?」  尊治は、重正の言葉に顔を顰めた。  その顔色は、普段と比べるとまるで土の様にくすんだ色をしており、尊治の現在の病状を表していた。    これが、重正が尊治を止める理由である。    普段、病などにかからない程に頑丈な尊治も、此処の所の殆ど寝ずに政務を行っていた事から体調を崩し、立っている事すらままならない状態になったのは三日前の事だった。  三日間で、何とか意識も無事回復し、少しの時間であれば起き上がることが出来るようにはなっていたが、日常生活を送れるほどには回復もしていない上、まだかなりの熱があるのである。    当然、馬に乗って遠出など出来る筈もない。   「……煩い!煩い!煩い!」    尊治は、普段の落ち着きようが嘘のように癇癪を起したかのごとく叫んだ。 「貴様が勝手に私の都合を決めるな! あいつと久しぶりに会えるのを、私がどれだけ楽しみにしていたか分かるだろう!」 「そんな事を言っていられるような軽症ではありませぬ!」    尊治がたった一人溺愛する恋人である、里中雪之丞は、恋人であると同時に尊治の家臣でもある男だ。  嫋やかな外見ながら、槍の使い手として知られる雪之丞は、現在この城より離れて遠方にて辣腕を奮っていて、所謂遠距離間での恋愛関係となっている。  任期は五年であり、現在は三年目の終わりだったが、尊治もそうおいそれと城を開けられるはずもなく、それは雪之丞も同じだったため、二人は中々会う事が出来ない状態が続いていた。    しかし、それでも。  毎年、年明け前から数日間の間だけは、いつも都合をつけては共に過ごすのが二人の習慣だったし、一度たりとも違えたことのない約束だったのだ。    勿論、今年もその筈だった。    だが、今年は飢饉や小さな小競り合いなどの対応に追われ、近年で一番忙しい年だった。  尊治もその対応に追われ忙しい日々を過ごしていたが、どうしても雪之丞と過ごしたかった事もあって無理をしてしまったのだろう。  不眠不休でなければ間に合わなかった事もあり、尊治は倒れてしまったのである。   「お気持ちは分かりますが、ただの熱で貴方が倒れる筈もない。相当身体に負担がかかっていた筈です!」 「絶対に私は行く!」 「駄目です!」    名誉のために言うならば、普段の尊治は、このような浅慮な発言はしない男だ。  どっしりと構えた色男、それが周囲からの尊治の評価である。  しかし、今の尊治にはそのような威厳は皆無であり、まるで幼子の様に重正を振り払おうとしているのだから、明らかに重症だろう。    それでも、雪之丞が関係していなければ、このような言動はしなかったのだろうが、普段から尊治が雪之丞へ向ける想いの強さを知っている重正からすれば、こうなってしまっても致し方ないとは思っていた。    尊治が雪之丞に幼い頃に一目ぼれして一途に口説き続けたものの、誤解から避けられ続け拗らせた思春期を経て、三十歳間近になってやっと実った初恋に対する尊治の執着は恐ろしい位に強い。    名のある大名として知られていた尊治も、雪之丞の前ではただの男となり、雪之丞が絡めばどのような事にも本気を出すような子供の様な面を見せる。  まさに今の状況は、幼い頃まだ我儘な暴君だった尊治を知る重正にとっては、少し懐かしくも思える状態ではあるが、いかんせん自身とそれほど変わらぬ背丈の屈強な男にされても、正味気味が悪いだけである。    幼少時代もこうやって振り回された事を思い出して、重正は苦笑いを浮かべた。    長い初恋が実ったのに、すぐに離れ離れになるしかなかった恋人たちに同情はするが、このままでは間違いなく涅槃行きである。  平和にはなりつつはあるが、まだ小競り合いはある情勢、山には山賊もまだ居るのだから、まさか殿様を活かせるわけには行かない。   「雪之丞の所に私は行くぞ!!」    周りの家臣たちは、二人の様子をただ見守るだけだ。  子供のころからの家臣であり、なおかつ悪友の様な関係でもある重正と違い、彼らはあくまでただの一家臣に過ぎないのだから、おいそれと手は出せない。  正常な状態の尊治が、このような事で家臣を罰することはあり得ない話だが、今の状態の尊治であれば何を言われるかは分からないのだから、恋情と病というものは恐ろしいものである。    しかし、此処で行かせるわけには行かない。    そもそも万が一、無事にたどり着いたとしても、雪之丞に病をうつしてしまえば、頑丈な尊治はともかく、雪之丞の方が間違いなく重症になってしまうに違いない。    それにも思い至れないのだから、この病は相当重いと重正は判断した。    だからこそ、時に、人は鬼にならねばならない事もある。   「御免」    重正は、己のその太い腕で尊治の首を締め上げるという力技を持って、この騒動を一先ず治める事に成功した。  

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