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第22話 紙切れ1枚
結局、それからしばらくエリスからの連絡は無く、また買収騒ぎにも進展は無いようだった。勇気達には、会社の上のほうで何が起こっているのかもわからない。それ故に、社内はずっとピリピリしていて、部長は毎日浮気がバレたみたいに「どうしようどうしよう」とマイナス思考をしてうなだれていた。
いつもと変わらない男の代表が要で、本当に会社に何のこだわりも無いらしく落ち着き払っていた。「ここを辞めても働き口なんていくらでも有るしね」と言っていたから、本当に社の運命も自分の先行きもどうでもいいらしい。それに比べれば、確かにエリスの言う通り、勇気はまだマシなのかもしれない、と少し思ったりもした。
ところが、数日後の要はどんよりとした顔で昼食も進まない様子だった。あまりに露骨に凹んでいるので、これは構って欲しいの合図だなと感じた勇気はしばらく気付かないふりをしていた。しかし、これまた露骨に大きな溜息を何回も吐かれ、遂に根負けして「何かあったんですか?」と声をかけた。
「よく聞いてくれたね、勇気君! いや、実はね……彼女に叱られちゃって……」
彼女、というのは、要の彼氏の事だ。どっちが男役とか女役とかは知らないが、とにかく、要も男性と、しかも社内の人間と付き合っている。二人は恋人としてそれなりに上手くいっていたようだが。
「いい加減、歳も歳なんだから、仕事に責任持ちなさいってさ」
近頃の騒ぎを高みの見物のような態度で見ていたからだろう。こっ酷く叱られて、反論したら、もう寝ないと言われてたいそう落ち込んでいるとのこと。あの子とセックスできなくなったら俺、死んじゃうかも……、と呟きながらトンカツをかじっているので、言いたいだけだろう、と勇気は判断した。
「その……彼女さんは、この仕事にやりがいが有るんです?」
「そりゃそうさ、なんせ一番の、………………あ、いや、……うん、そうね、管理職だから……」
「えっ、上司の方なんです?」
上司と付き合うとかすごいな。勇気が素直にそう思って聞いたのだが、要は目を逸らして「ああー、まあ、そう……」と歯切れの悪い返事をしている。
それで流石の勇気もピンときた。要の上司といえば、彼の所属している部署で一番のやり手だが、とにかく部下に厳しく鬼と呼ばれ、配属された新人達はみんな泣いて逃げ出したと言われている男だ。残念ながら勇気は名前を覚えていない。そんな人の下で上手く立ち回っている要は、それだけで社内で一目置かれていたものだが。
「……なるほど、惚れた弱みってやつで……?」
「あ、ああー、違う、違うよ、勇気君。君が何を想像してるかは大体わかる、でもね、彼女は仕事にはとてもストイックな人だよ、たとえ俺でも手を抜かない厳しい人さ、結構辛辣だし……」
「じゃあ……、要さんは実力で評価されている、と」
「ま、そういう事になるけどね。あとは、柳の木になってキツイ言葉は聞き流してるだけ。ふふ、夜になると素直で可愛い子だしね……」
そこまで言って、要はデレデレとした顔をした後で、またしょぼくれた顔でトンカツをかじった。忙しい男だと思う。
「ああ……でもあの可愛い夜の姿が見納めだと思うと……。ねぇ、勇気君、どうしたら仕事に責任感なんて持てると思う? 俺ね、生まれてこの方セックスにしか興味無くて……」
「し、知りませんよ、そんな……。それなら、もういっそ彼女さんとそういうことするために、責任持って仕事したらいいんじゃないですか」
投げやりに冗談を言ったつもりだったが、要は「なるほど!」と納得してしまった。ますます悪い方にいっている気もしたが、勇気はとりあえずそのまま放置する事にした。
仕事に責任感を持つ。勇気はふと、副社長の件を思い出した。何の根拠も無く、社長の友達だからといって大出世する。そんなのは、無責任だと思う。それに、副社長なんて事になれば、現場の仕事なんてしないだろう。よく知らないが、きっと経営とか、営業とかが主な仕事になるに違いない。
それはそれで大切なことかもしれないが、勇気はその仕事より、現場でああでもないこうでもないと頭を捻りながらでも、システムを組んだりしたい。
そう考えたところで、勇気ははたと気付いた。
目標も無く、やりたい事も無く、なんとなく人の役に立ちたくてこの会社に入った筈だ。なのに、いつの間にかやりたい事は見つかっていたのだった。それに気付いていなかっただけで。
やっぱり、エルにも、クレイジーなパパンにも、はっきり言わなければならない。
勇気は改めてそう思った。
「勇気君〜、お客さんだよ〜」
と、受付の社員が呼んでいるのが聞こえた。勇気は驚いて、「はい!」と大きな声で返事をし、昼食を片付けようとした。要が「俺がやっとくよ」とトンカツを貪りながら言ってくれたので、「お願いします、すいません!」といって、応接室に飛んでいく。
とはいえ、一体誰が来たというのか。昼休みに来るなんて困った客だが、平社員の勇気に来客など普通ならありえない。まさか、クレイジーなパパンが直々に来たのでは……。そう思いながら、「お待たせしました」と応接室に入る。
ソファには、見知らぬ日本人の青年がゆったりと腰掛けていた。ブランドもののすらっとしたスーツを着て、脚を組んでいる。パーマでもかけているのか、ゆるくウェーブした髪を前わけにしていたが、髪が黒いし、キープするためにワックスでも使ってるのか若干湿っぽく見えたので、勇気の第一印象はワカメだった。端正な顔立ちに、何故だか勇気を品定めするような視線、左の涙ほくろ。勇気はそれだけで、なんとなく、この男が性格が悪そうに思えた。
「君が、井之上勇気君?」
透き通る声は、少しだけ敵対心を感じさせる。何故そうなのかわからないまま、「あ、はい、私、井之上勇気と申します」と慌てて名刺を差し出すと、彼は足を組んだまま片手でそれを受け取り、「ふぅん」とつまらなそうに胸ポケットにしまった。
「……ええと、……あの、……御用件は……?」
勇気はどうもこの青年に好かれていない事だけはよくわかったので、早く帰りたい気持ちになった。すると、彼は一つ溜息を吐いて、スーツの内ポケットから名刺を取り出し、左手で差し出してきた。恐る恐る受け取って、それを見る。
「……株式会社マキノ商事、牧野透夜 ……まきの?!」
勇気が驚いて彼ーー透夜を見る。彼は、目を細めて勇気に言った。
「初めまして。僕はエリス君の従兄弟の、牧野透夜です。エリス君の、初めての友達、井之上勇気君」
「……あ、……は、……初めまして……えと……あーと……」
言葉にいちいちトゲが生えているような気がして、勇気は困った。何をしに来たのか、なんでこんなに敵意を向けられているのかわからないでいると、透夜が呟いた。
「失礼ですが、君の経歴を調べさせてもらいましたよ。ああ、僕、色々仕事をしていて、まあ今は主に通訳兼秘書みたいなことをしてるんですけど。地方の平凡な義務教育を受けて、平凡な大学を卒業……成績も平凡そのもの、まさに凡人。しかも中学生の頃には少々わんぱくだったようですね?」
「あ、う……」
流石に勇気も彼が何を言おうとしているのかわかってきた。つまり、エリスと吊り合わないと言いたいのだろう。エリスはエリートの天才だ。そんな彼が、余りに平凡ないち日本人でしかない勇気にうつつを抜かしているのが、気に入らないのかもしれない。
「それに、御両親も大した仕事はされていないようで。嘆かわしい事ですね、平均的な日本人そのもの、といったところですか。マイホームなんて持ってよかったんですかねぇ、御父君の年齢で役職も無いようでは……」
流れでそんな事を言われて、勇気は何故だか頭がカッとなるような感覚を覚えた。一瞬、子供の頃から見てきた母の寂しそうな顔や、時々しか見なかった父の背中が脳裏をよぎる。今や歳をとった両親の、長い人生を否定されたような気がして、勇気ははっきりと不愉快な気持ちになった。
「……私が社会人として優れていないことと、父の事は関係ありません」
それ以上、父親の事を悪く言うな。暗にそう言ったつもりだ。そして、その事に勇気自身が驚いた。
父親を悪く言われて怒ったのだ。意外だった。父のことはあまりよく思っていなかったはずだ。それでも、こんな言い方をされて怒る自分がいる。それは、何故なのか。
その疑問を解消する暇も、透夜は与えてくれなかった。
「……ああ、すいません、話が逸れてしまいましたね。そう、大切なのは貴方自身の話です」
透夜は苦笑して、「端的に言いましょう」とスーツから一枚の紙切れを出して言った。
「お金目的で近付いたなら、幾らでも差し上げますし。この会社の副社長でも、地位も差し上げましょう。エリス君と、縁を切ってもらえませんか?」
勇気は残念ながらその紙が俗に言われる小切手であることもわからなかったし、そこに書いてある金額の桁が多過ぎていくらの値段が書いてあるのかもわからなかった。けれど、この男に酷く侮辱されていることだけは、よくわかった。
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