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第21話

.21 「おはよう、目が覚めたかい?」  薄っすらと目を開ければ、半裸で本を読んでいたユーグが覗き込んできていた。  頭が回らずにぼうっとその顔を見つめる。素晴らしい造形美はいつ見ても飽きない。相変わらず綺麗な顔しているなぁ……なんてどうでもいいことが巡る。 「ふふ、寝ぼけている姿も可愛いね」  ページを捲っていた指が本から離れこちらへと向かってくる。優しく額を撫でるようにして前髪を上げられ、露になった額へ軽くキスを落とされた。 「ん……」  親が子にするような軽いスキンシップの触れ合い。だと言うのに、ぴくっと反応した体は、甘い痺れを含んでいる。その感覚は簡単に昨晩の事を思い出させ、蘇ってきた記憶に一気に覚醒した。 「ッ?!」  濃厚な性の記憶がいとも簡単に羞恥心を引き出す。告白の後に、貪り合うような性行為をし、未だに後を引いている体が恥ずかしい。  いても立ってもいられずに、弾かれるように起き上がろうとして、力を入れた腕はぐにゃりと曲がって体は再びベッドの中へと引き戻された。 「?!」 「大丈夫かい? 昨晩は手加減ができなくてね……かなり消耗しているだろう」  体が言うことを聞かない。唖然としている俺の隣で、ユーグは呑気に苦笑いを浮かべながら水差しへと手をのばしていた。  結われていない髪が、さらりと肩から前の方へと流れ落ち、白い背中が露になる。そこにはおびただしい数の引っ搔き傷が浮かんでいて、それもまた昨晩の出来事を思い出させる。あれを付けたのは、紛れもなく自分だろう。 「ほら、飲みなさい」 「……り、と」  掠れて音の出ない声は、ありがとうとはしっかりと発音されていなかったが、相手へはきちんと伝わったみたいだ。  差し出されたコップを両手で慎重に受け取る。ゆっくり力を入れると何とか持てそうだ。程よく冷えている水を口に含めば、思っていた以上に喉が渇いていた。全て綺麗に飲み干したタイミングでおかわりを聞かれ、首を振る。両手で抱えていたコップを、ひょいとユーグが片手で取り上げると自分用に水を注ぎ直して一気に煽る。上下に動く喉ぼとけにすら色気を感じ、頭がピンクに染まり切っている自分が恥ずかしくて目を逸らした。 「ふふ……こんなに気分が良い日もないな」 「……どうした?」  掠れながらも先ほどよりは出るようになった声は、今度はきちんと音となって相手へと伝わってくれたようだ。言った通り機嫌良く掌の中でコップを回していたユーグはこちらへ目をやるとはにかむ。  手を伸ばされ顎下へと回された指で軽く顔を上げられる。こちらを見ろと視線だけで圧を掛けられ、渋々と逸らしていた目を戻せば、予想よりも間近にユーグの顔があった。驚く俺の顔をまじまじと見つめた後に、身を引き満足気に頷いている。俺の顔に何かついていたのか……相手の行動の意図が読み取れなくて戸惑う。 「幸せすぎて腑抜けてしまいそうだ。最初は気付かなかったが、十分の魔力が溜まっているようだね」 「え……」 「愛し合う2人で行うと効率が上がるみたいだよ。さすがにそれは知らなかった」 「それって、還れるってことか……?」 「そうだね。今すぐにでも扉を繋げることは可能だが……どうする?」 「……妹に、挨拶したいかな」 「そうか……彼女はあと2日ほどで出てくるだろうから、それまでは変わらず共にいよう」 「……うん」  別に今更妹との別れを惜しむような気持は全くない。前に話したし、どうしてもと言うわけではなかった。少しでもユーグと一緒に居たい、そんな思いから出たただの口実。きっと、それは相手も分かっているだろう。  特に指摘することもなく、受け入れてくれたことが嬉しかった。同じように嬉しそうに笑うユーグに、同じ気持ちなのかと安心もした。だけど、きっとこの人は俺を元の世界へと送り届けることをやめることは絶対にしないだろう。  だからこそ、俺もそれを受け入れなきゃいけない。俺たちを縛る悪魔の契約は、絶対だから。  さすがに昨晩は頑張りすぎたせいか、1日中ベッドの住人と化してしまったが、翌日には早々と抜け出すことに成功した。未だに腰は痛むが、動けないってほどじゃない。  明日には美咲も祈り間から出てきて、この生活と別れを告げなければいけないと分かっているからこそ、できるだけいつも通りに過ごしたかった。    腕まくりをして、早々に朝食の準備を始める。食パンを焼いている間に、卵を割り、半熟のスクランブルエッグを作っていると、隣の部屋から物音が聞こえた。そろそろユーグが起き出す時間だ。予想通り扉が開き、キッチンへと入ってきたユーグは、いつもなら挨拶をしながら通り抜けていくんだが……どういうわけか、足音は俺の真後ろへと迫ってきていた。 「おはよう」 「おはよ。どうした?」  背中と肩に重みを感じたと思えば、耳元に眠たげな声がする。俺の肩へ顔を乗せたユーグが、後ろから抱きしめてきている体勢に、驚きつつも平然を装い返した。 「いなかった」 「は……?」 「起きたら隣にいなかった」 「いや……大体そうだろ?」 「いないと寂しいというのを、初めて知った」 「ンン゛ッ」  不貞腐れながの呟きに言葉が詰まる。  こんなに素直なユーグがあっていいんだろうか。気持ち悪さすら感じるけど、同じぐらい嬉しさが込み上げてきてしまう。適当に答えながら乗りかかっている頭を乱暴に撫でてやると、のそっと起き上がり研究室へと消えていく。  甘ったるいユーグなんて、殺傷能力が高すぎる。未だ静まらない心臓を抑え呼吸を整えようとも、ほのかにユーグの香りが残っているようで、恥ずかしさが蘇っていく。  こんなの幻臭に決まっている! 俺が意識しすぎているせいだ! 気持ちを強く持ち、肺の中をいったん空にしてから息を吸い込めば、今度は紛れもない焦げ臭さを嗅ぎ取った。 「?!」  慌てて振り返れば、パンを焼いていたフライパンから煙が上がっていた。  黒焦げになってしまったパンを朝食として出したら、終始ご満悦なユーグがペロリと平らげた。あれは確実に、キッチンでの出来事に動揺して焦がしたのを完全に理解している顔で……結局、誤魔化そうとした俺の苦労は徒労に終わった。  今日、日中帯をここで過ごすのも最後となる。  と言っても、特にやることもなく、いつも通り掃除をし終われば後はだらだらとソファーで過ごす。積み重なっている本は、借りてきた物たちだ。読み手がいなくなるのなら、片付けた方が良いのかもしれない。だけど、そうするとより一層最後と言う感覚が増してきてしまう。もっと一緒に居たいと思うからこそ、片付けることができずにいた。 「そのままにしておいてくれ」  どうすべきか、ぼんやりと本の山を眺めていた俺の後ろから、ユーグの声が飛んでくる。振り返ると、書き物をしていた手を止め、頬杖をついた彼と目があった。 「勝手に心読むの、プライバシーの侵害だぞ」 「ふふ。物思いに耽っていたから、どうしたのかと気になってしまってね」 「……片付けなかったら、ずっとここにあるんじゃないの?」 「そうだなぁ。しばらくはここにいることになるかもしれない」 「司書さん、また泣くぞ」  ユーグが自ら片付けに行くなんて考えられない。指摘すれば、その通りだと本人は胸を張るマイペースな主に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。 「まあ、そんな悲観するものじゃないさ。良い結果になるに決まっている」 「本当かなぁ」 「もちろんだとも」  遊ぶように手元でペンを回しながら話していたユーグは、この話を打ち切るようにペンを置いた。椅子を引くと、静かに俺の方へと歩み寄り、ソファーの前へと膝を付けてしゃがみこんだ。  いつもなら隣へと座るはずだ。わざわざ俺の前へと跪く必要はない。だからこそ、何かあるんだろう。居住まいを正して向き合うと、一瞬だけ緩めた目元が真剣な物へと変わった。 「マコトには、手の内を明かそうと思う。ここから先の話は他言無用でお願いしたい」 「分かった」  絶対に自信の手の内を明かすことなどないと思ったのだが、どういった心境の変化だろうか。驚くべき発言に、誠実に頷けば、ユーグは礼を述べながら軽く頭を下げた。 「異なる世界を行き来するなんてことをしているせいで、歪みが発生する可能性が極めて高いんだ」 「歪み? それって、元の世界とはまた違った平行世界的な意味合いか?」 「いや、それとはまた違う。正真正銘マコトが元からいた世界へ繋げられる。その世界で、変化が起きている場合があるんだ。普段なら気に留めることもないが、今回は、本来いるべきはずの妹がいないからな……」 「美咲関係でおかしくなってるってことか」 「その通り。扉の先は、君にとって耐えがたい状況になっているかもしれない」  耐えがたい状況、と言われてもパッと思いつかなかった。  元々が最悪な状況だったから、それよりも悪い状況なんてあるんだろうか。そんなことよりも、ユーグと離ればなれになる方が耐えがたいと言ってもいい気がする。  そんな考えが顔へと現れていたのか、優しくユーグに頬を撫でられた。 「君を還したくは無いし、一瞬でも手元から離れてしまうことが狂おしいよ……」 「ユーグ……」 「しかし、契約を違えることは出来ない」 「……大丈夫、分かってるから」  そっと頬を撫でている手へ自身の手を重ねる。辛そうに顔を歪めるユーグを慰めるように頬をすり寄せると、尚更ユーグの眉間に皺が寄った。  ゆっくり離れていく手は、重ねていた手を握り下へと引かれる。跪いているユーグの体勢もあり、お姫様へ誓うような、プロポーズでもされるかのようだった。 「私は、本心から君を愛し、共にありたいと思っている。それだけは忘れないでくれ」  しっかりと俺の目を見つめ告げると、壊れ物の扱うような繊細さで俺の手の甲へとキスを落とす。  プロポーズみたいだ、なんて思っていたせいで、本気で求婚されているように思えて、一気に恥ずかしさと嬉しさが込み上げる。 「はい……!」  膨れ上がる感情で目の前が滲み、必死に泣かないように食いしばりながらなんとか一言だけ、答えることができた。  俺の様子に嬉しそうに微笑むと、立ちあがって思いきり抱き締められる。このぬくもりも、明日で最後だ。メソメソするな、笑え。  滲み出てきた涙を擦り付けるように、ユーグの腹へと顔を拭いた。 ◆  昼過ぎに祈りの儀から出てきてすぐの美咲へと面会を求めることをイストへと送り、30分程度で、夜にならと返答が返ってきた。  本当は数日後にして欲しいと言っていた所を、イストが掛け合ってくれたそうだ。至急とだけ言ったユーグの言葉の意味を、しっかりと汲み取ったのだろう。  体へは十分魔力が溜まっているので、もう注入する必要はない。だからもう一緒に過ごす必要もなかったが、ユーグとは夜までずっと一緒に過ごした。  還る前に一緒にゆっくり風呂に入り、支度を整える。  ここに来た時身に付けていたシャツと下着の上から、慣れ親しんだローブも着こむ。これを脱いでしまったら、ユーグとの関りが無くなってしまいそうで嫌だった。  聖女との面会間際、そろそろ部屋を出なければいけないギリギリまで粘ってから、そっとドアノブへ手を掛ける。開こうとした所で、上から手を覆うようにして掴まれた。何事かと後ろを振り向くと、高いユーグの背が折れて目いっぱいに彼の顔が広がった。 「ユー、」  上を向き目を閉じるのとほぼ同じタイミングで唇が奪われる。  噛みつくように食まれ、薄く開けば肉厚な舌が滑り込んできた。全てを奪い取るような口づけに、行くなと言う気持ちが痛い程伝わってきて、応えるように舌を絡める。 「ふ、ぅん……ッ」  相手の頭を抱え込むように両手を這わせ、髪の毛を指の間に滑り込ませる。音を立ててユーグの舌を吸い上げたら、一気に魔力を流し込まれた。ずくんと腰の奥が熱くなって、膝が折れる。それを見越したように股の下へ足が滑り込んで支えられ、扉へと押し付けられた。  負けじとユーグの太ももへ腰を擦りつけ煽ってやると、簡単に興奮した相手が俺の腰を掻き抱き引き寄せる。緩く足の付け根を動かす動きは、中を緩く掻き混ぜている時を連想させた。 「んあッ」  思わず感じて声が上がり、飛び出た舌をすかさずユーグが食み軽く歯を立てられる。腰へと走る電流のような快感に、胸元へとしな垂れかかった所で、やっと唇を解放された。 「は……ッ、はぁ……」  肩で息をしながらなんとか呼吸を整えようとしている俺を見て、ユーグが喉の奥で笑いを噛み殺した。 (このまま抱き潰してしまいたい)  とんでもなく甘ったるく、淀んだ声が聞こえたような気がした。  その言葉には完全に同意だ。今すぐベッドへと戻りたい……が、そういうわけにもいかないんだ。  縋りたくなる所をぐっと堪え、ユーグの胸元を軽く押して顔を上げる。 「だーめ。いかないと」 「ッ! そう、だな……」  無理に笑おうとしたんだろう、不自然に歪んだ顔をしたユーグは、俺から距離を離していく。  爪先立ちだった足がゆっくり地面を踏みしめ、力を籠める。少しだけ膝が笑ってはいるが、何とか歩けそうだ。足の調子を確かめていた俺を見て、ユーグがしゅんとしていた。 「すまない……」 「大丈夫。最後にキスできて良かった」  ニっと口角を上げて悪戯っぽく笑って見せれば、息を吐いたユーグも似たような笑顔を浮かべてくれた。自分勝手の塊なような人が、俺に合わせてくれたのがひどく嬉しかった。  部屋の外へ出れば、恐ろしいぐらいいつも通りだった。  傍若無人な宮廷魔術師と、それに振り回される従者の取り合わせ。それでも、俺に合わせた歩幅や、気遣わしげな視線と言った、俺第一みたいな仕草が随所に現れているのを知っているのは、俺だけで十分だ。  ゆったりとした歩調で、予定より10分ほど遅刻して聖女の部屋へとたどり着いた。今度はきちんとアポを取っていたこともあり、護衛の騎士たちはすんなりと扉を開けてくれた。  内扉をノックしたらすぐに返答があり、中へと入れば、きちんと椅子に座った美咲が待ち構えていた。  今日まで魔石を吐き続けていただろうイストも、傍に控えるように立っていた。顔色に変わりはなく、いつも通り柔和な笑みを浮かべている。 「いらっしゃい。座ったら? 紅茶で良ければ入れるけど」  信じられない妹の発言に驚いた。それはユーグも同じだったようで、2人で驚きながら美咲を見つめていたようだ。  その反応に、美咲は少しだけ身を捩じらす。何よ、と小さく言われ、慌てて首を振った。 「いや、なんでも。すぐに終わるからこのままでいいか?」 「まあ、そっちがいいなら……」 「俺、日本に還ることにしたんだ」 「そう……いつ還るの?」 「この後」 「え、」  粗方話の検討を付けていたようで、還ること自体には驚かなかったが、今すぐとは思っていなかったようだ。なんとも言えない顔で見つめてくる美咲は、ぐっと唇を噛みしめ、俯いた。  4人もいると言うのに、部屋はシンと静まり返っている。  しばらくして、深く息を吐いた美咲が顔を上げると、ゆっくりと椅子から立ち上がり、俺の元へと歩みってきた。 「今まで、ありがとうございました」  きちんと目を見つめてそう告げると、深く頭を下げる。俺に対して最敬礼をする姿は、ある種美咲にとってのけじめなのだろう。  だからこそ、今後、聖女としてやっていけそうだと安心した。頭を上げた美咲へ微笑むと、手を差し出す。 「頑張ってくださいね、聖女様」 「……言われなくてもそのつもり!」  いつも通り生意気な返しと共に、ひったくるように手を握り返された。  数回ぶんぶんと上下に振った後手が離される。別れを告げて美咲へと背を向けると、無表情でやり取りを見守っていたユーグと目があった。  満足した、大丈夫。頷いて告げたら、彼は少しだけ口元を緩めると扉へと向かって歩き出した。一緒になって部屋を出て、扉を閉める間際に振り返り中を見る。 「あ、我儘言ってイストさん困らせんなよ!」 「うっさいわよ!」  食い気味での返しに思わず笑ってしまう。そんな俺を見て、美咲も笑っていた。  会話もなく、2人で向かった先は召喚された時にいた離れた所にある部屋だった。  地下へと続く螺旋階段を降りて召喚の間と呼ばれる部屋へと入る。刺すほどに冷たい空気で満たされている場所は、薄っすらと蝋燭の炎で照らされている。  地面には赤で書かれた魔法陣。掠れ気味のそれは、鉄臭く、ああ、人間の血を使っているのか、となぜだかわかってしまった。なぜわかるのか、別にそれを不思議に思うこともなく、ゆっくりと魔法陣の上を歩いて真ん中を目指す。  くるりと振り返れば、こちらを見つめるグラデーションが綺麗な瞳と目があった。 「今までありがとう。こんな俺を拾ってくれて、感謝してる」 「ああ……」 「それから、大好きだよ」 「ああ。私もだ」  甘く微笑んだ姿に、涙を堪えた。鼻の奥にツンとした痛みが走る。  両手を俺の方へと向けたユーグは、始めると宣言をしてから、何語か分からない言葉で呪文の詠唱を始めた。魔法を使う姿は度々目にしてきたが、こうやって仰々しいのは初めてだ。  ユーグの声に反応するように魔法陣が光だし、風が巻き起こる。最後のフレーズ直前まで唱え終わったのか、一旦ユーグが言葉を切る。 (マコト) 「え……?」 (迎えに行くから、待っていなさい) 「何、言って……」 (返事は?) 「あ……、はい」 (いい子だ)  口角を上げ、悪人面で笑った後に、ユーグが最後の呪文を唱えれば、服をはためかせる風が強くなり目の前を遮るように光が増した。来た時同様に、目の前が真っ白になり、耐え切れず目を瞑れば……シンと急に静けさが訪れた。  はっと目を開ければ、目の前には久しぶりに見る冷蔵庫。ぐるりと見まわし、自宅のキッチンに立っていることを、脳が認識していく。  シンクに手を付き、肺の中を空にするように息を吐き出していく。  還ってきた。還ってきてしまった。 「ひ……、ぅ……!」  下を向けば、ぼろぼろと目から涙が零れ落ちていく。  喘ぐような呼吸と共に、染みついたユーグの香りが纏わりついてくるのが恨めしい。こんなことなら、あっちの服なんて着てこなきゃ良かった。  バカバカしい。好きだ、愛してるって言っていた割に、こんなにも簡単に還ってくるだなんて。  愛しい人の香りに包まれているせいで、夢じゃないって現実が言ってくるのがつらい。 「お兄ちゃん?」  声を殺してひたすら泣いていたせいで、注意力が散漫だった。  いきなり真横から声をかけられて、驚いて顔を上げる。その先には、見たこともない女の子が立っていた。成人には至っていなそうで、美咲と同じぐらいのように見える。  明るい茶髪を緩く結い上げ、妹の部屋着を着た少女は不安げな表情でこちらを見上げていた。 「お兄ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」 「え……誰……?」  涙は一瞬で止まり、思わず本音が口から漏れた。  一歩寄ってきた少女にあわせ、一歩後ろへと下がる。 「何言ってるのよ……妹の顔も忘れちゃった?」 「は……? 美咲……?」 「そうです。可愛い妹の美咲ちゃんの顔忘れるなんて、ひどいよ~」 「え、いや……」  理解が追い付かない。俺の知っている美咲は、こんな明るい髪色じゃない。真っ黒ないかにも優等生って身なりなくせに、生意気で、すぐにつかっかてくるやつだったはずだ。 「お兄ちゃん大丈夫そ?」 「ま、まあ……」 「なんか泣いてたみたいだけど……まあいっか。それよりどうしたの、その格好」 「あ……その……」 「明日早いんじゃなかったっけ?」 「どうしたの? まだ起きていたの?」 「あ、ママ!」  見ず知らずの女の子に親し気に声をかけられ、答えあぐねている所で、更に知らない女性が部屋の入口から顔を覗かせた。  ママと呼ばれた女性は、見覚えのあるパジャマを着ている。 「明かりが点いていたからどしたのかと思ったのよ。慎も明日のバイトの時間早いんでしょう? 変な服着てないで、早く寝なさい?」 「え、っと……」 「コスプレみたいよね~、でも似合ってるのがちょっと悔しい」 「確かに。意外と執事喫茶とか、いけそうよね?」 「えぇ、ママそんなの知ってたの~?」  親し気に笑いあう二人に、一気に鳥肌が立つ。  誰だよ、こいつら……?! 「お、おやすみ!」  その場に居たくなくて、やっとの事で絞り出した声でそう告げて部屋を飛び出す。慣れ親しんだ体は、無意識のうちに自分の部屋へと向かっていき、扉を閉めた。扉へと額を擦り付け、そのまま力なく床へと座り込む。訳が分からない。  家族が、別人になっていた。美咲のせいで歪みが生じると言っていたが、まさか、これがその歪みってやつなのか?  一気にいろんな物を詰め込まれたせいで頭がパンクしそうだ。  目を閉じて何とか落ち着こうとしている俺の頬を、ふわりと風が撫でる。ひどく落ち着く香りは、ユーグのそれで、思わず目を開けた。  服からはこんなに香らなかったはずだ。一体何が原因なのか……力なく振り返った先には、窓枠にユーグが足を汲み座っていた。 「ユーグ?!」 「やあ、マコト。その様子だと、さっきぶりかな?」 「べ、別人なんだ……妹も、母親も、別人なんだよ……!」  相手の言葉を聞くよりも先に、立ちあがって縋りつく。両腕を掴んで訴えれば、ユーグはそうだろうと素っ気なく頷いた。 「歪みで聖女の周辺は大きく変わってしまった。でも、温かい家族だっただろう?」 「あんなの……!」  こんな家庭を夢見た日も確かにあった。  どうしてうちだけこんなに厳しいのか。どうしてうちだけ普通じゃないのか。  だけど今更理想の家族像を与えられても、作り物のようで気持ちが悪い。  あんな人達と家族としてやっていくだなんて、この先絶対に無理だと言い切れる。 「言っただろ? 扉の先は、君にとって耐えがたい状況になっているかもしれない、と」  確かにそうだ、ユーグの言う通りだ。以前に聞いた言葉を再び繰り返されて、何も言えなかった。  ユーグを掴んでいた手を離し、下を向く。ぺたりと床に座り込んだ俺の前で、バサっと何かを広げる音と共に、大きな影がかかる。  ぼんやりとした頭で見上げれば、黒く大きな羽を広げたユーグが居た。 「さて、契約は完了した」 「けい、やく……」 「ああ。これで私と君との間を縛るものはない」  そう言えば、俺はこの悪魔と契約をしていたんだった。  この世界へ還るために、体へ魔力を溜めこむ、そういった契約だった。 「迎えに来たよ」 「え……?」 「帰ろうか、あの部屋へ」 「かえる……」 「ああ。それとも、君は私を捨てて、こんな世界を選ぶとでも言うのか?」  顔を寄せて問いかけられて考える。  ユーグを捨てて、ここに残る? そこにどんな幸せがあるって言うんだ?  俺が幸せを感じられるのは、唯一、この人の腕の中じゃなかったか?  大好きで、ずっと一緒に居たいと思ったのは、ユーグだったのでは? 「ふふ……強烈な告白、嬉しいね」 「また心読んだ……」 「おっと、これは失礼。私もいつになく必死でね」  苦笑いを浮かべたユーグが、羽を羽ばたかせる。部屋の中の物が舞い上がることを気にも留めず、彼はゆっくりと俺の前へと降りると目線を合わせるように膝をついた。  まるでいつも通り。さっき別れたばかりの相手を目の前にして、動揺していた心が落ち着いていく。  言葉通り、不安そうな表情を浮かべていた彼を見ていたらなんだかおかしくなってきて、小さく笑いを漏らしながらユーグの手を取ると、両手で握り込む。 「……ユーグは、俺が必要?」 「ああ」 「迷惑じゃない?」 「最初からそう言っている」 「本当に、俺のこと好き?」 「悪魔は嘘がつけない性質でね、真実しか口にしないよ」  肩をすくめる姿がおかしくて笑ってしまう。  俺の姿に、ユーグも落ち着いて話ができる状態だと判断したようで、低く掠れた声で名前を呼ばれた。 「答えを聞かせてくれないか? 今は心は覗かない。君の言葉で教えて欲しい」 「俺の隣は、ユーグだけだよ」 「ありがとう……!」  握り込んでいた俺の手へを額を付けて噛みしめように呟いたその声は感極まり、少しだけ涙ぐんでいた。  その姿が嬉しくて、温かい気持ちで見つめていたら、今度は手を解いて立ちあがる。 「我が名はユーグリッド。我が真名に誓って、マコトを生涯愛すと誓おう」  張りのある声で真名を告げると、恭しくお辞儀をされる。まるでプロポーズな言葉に、恥ずかしくなって誤魔化すように口を開いた。 「生涯って……ユーグみたく、俺は長命じゃないんだぞ」 「ああ、それについては問題ないさ」 「は?」 「君の中へたっぷりと私の魔力を注ぎ込み、今や君は半悪魔化している」 「え……?」 「我が眷属となるのも時間の問題だ。さあ、私たちの部屋へ帰るぞ」  座っていた俺を慣れた手つきで軽々しく横抱きをしたユーグは、羽を軽く震わせて一気に外へと飛び出した。  夜の空へと舞い上がる非現実的なシチュエーションの中、更に追加された非現実的な内容に頭が再び混乱する。 「半悪魔化? 眷属? ぜんっぜん、そんな話し聞いてないんだが……?!」 「肌は質が良くなり、色も白くなっただろう?」 「ああ」 「髪も伸びる速度が早くなった」 「そうだな」 「気づいてないようだが、瞳の色も魔力を秘めて変わってきていたよ?」  私とお揃いにね、と言った語尾には♪でも飛びそうな機嫌の良さだ。  こいつ、契約を持ちかけた時からそうするつもりだったんだろう?! (ふふ、マコトにしては察しが良いね。一目見た時から、異例な君を手に入れたいとは思っていたが、ここまでハマったのは私も予想外だよ) 「ああ、そうですか!」 (私の心まで読むことができるようになるだなんて、) 「私との相性が最高なんだろうねぇ」  言われてやっと気づいた。  こちらへ還される前に交わした会話は、確かにユーグの口は動いていなかったはずだ。最後の最後にネタばらしをされ、カッ頭へ血が昇っていく。 「この野郎ぉ……! 責任とってもらうかんな?!」 「あっはっは、もちろん! 任せてくれ。自分の魔力を分け与えてまで引き込んだんだ、一生手放すわけないじゃないか」

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