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しんしんと
ドアを開けた先に、うるうるの目に蛍光灯の光を映す小さな生き物がいた。
「わん」
「……は?」
十畳はくだらないリビングダイニングのど真ん中は、いつもであれば動線をとるためにものがない。それなのに今日に限っては、首と頭に赤と緑のリボンをつけた犬がケージの中でちょこんと座っている。
なんの確認のためか、冬也は意味も無くドアを振り返った。電気をつけていないので薄暗いが、もう二年は見慣れた廊下だ。それから室内に視線を戻す。やはり馴染んだ内装で、薄茶色の木材でできた家具が計算し尽くされた位置にある。
足を踏み入れると空気が暖かいが、家主はここにはいないらしい。冬也の来訪に気付いたのであればすぐに出てくるだろう。
白い塗り壁風の壁に設えられたコートかけに上着をかけた。傘も持たずに駅から歩いてきたせいで、溶けた雪の水分が重たい気がする。
「わん」
白と薄い灰色の体毛がふわふわと揺れる。犬の淡い色彩に合わせてリボンの彩度をあえて落としたのか、見た目もぴったりで、まるでぬいぐるみのようだ。
手のひらで掴めそうなちいさい頭、まるっこいシルエット、短い足、ちょこんとしたしっぽ。
「どこからどう見てもポメラニアン……だよな?」
「わん」
ポメラニアンは白いケージにふくふくの足をかけて、しゃがんだ冬也にアピールする。だっこを要求しているのだろうか。ペットの飼育経験がない冬也にはハードルが高い。
「落としたら死にそう……」
だがポメラニアンは冬也の気も知らず、ケージにかじりつく。前足をぱたつかせる様は文句なしに可愛らしかったが、だからこそだっこは無理だと思う。
二人して見つめ合っているうちに、寝室に続くドアが開いて明るい声がした。
「冬也、いらっしゃい」
「おじゃましてます。で、この犬何?」
「クリスマスプレゼント。俺への」
「え、自分の? ……犬が欲しいって言ってたっけ?」
信次はにこにこ笑いながら冬也の傍らにあぐらをかいて座り込んだ。体格の良い彼はそれだけで存在感がある。
「そうそ。可愛い恋人と並べて癒やされたくて」
「――置物みたいに言うなよな」
「ああ、ごめん。そういうつもりじゃないから」
「……いや、こっちがごめん」
冬也は頭を振った。相手に悪意がないのはわかっている。ただいつもなら気にしない言葉に食いつきたくなる程に最近は忙しかったのだ。
信次の顔を見られない気まずさを誤魔化すように、指をケージの隙間に入れて肉球をつつくとポメラニアンは体を上下させてむずがった。生き物らしい仕草にほっと息が漏れる。
「可愛いな」
「だっこしてみる?」
明らかに及び腰な冬也を気にする様子もなく、信次は天井部分から手をさし入れてポメラニアンを抱き上げた。
おろおろしていると、床に下ろされたポメラニアンがしゃがみ込んでいた冬也の太ももに前足を押しつける。見上げられるとそれだけで胸がときめいた。
「可愛いとしか言えない。可愛い」
「だっこしてほしいってさ」
「……そう思ってくれるのは嬉しいけど、落としそう」
「俺が構えてるよ。尻のとこ持ってあげてね」
信次はポメラニアンの足の付け根を掴むと、冬也の胸元へ押しつけた。おっかなびっくり受け取り、軽さと手触りに驚く。毛はふわふわでシャンプーの甘いにおいがした。
「……暖かい」
ポメラニアンは赤ん坊が新しいおもちゃをみつけた時のようにきらきらした瞳で、ピンク色の舌をぺろりと出す。その仕草に心臓がきゅんと締まった。
「店で一番人懐っこい子をって言ったんだ。五軒くらい回ってこの子に決めた。可愛いよね」
「うん、すっごく」
「ご飯準備してくるね。その子と居てあげて。ついでに名前考えて」
「名前!? ちょっと信次さん!?」
はははと笑いながらカシミアを纏った三十路すぎの背中がキッチンに消える。浮き出た肩甲骨が笑いに合わせてちょっと揺れた。
見守ってくれる存在がいなくなったせいでとたんに恐ろしくなったが、腕の中の犬は暴れ出すそぶりもないので、なんとか気を落ち着かせる。
「名前かあ」
冬也の顎を犬の頭に乗った緑色のリボンが掠めた。犬が顔を上げてこちらを見ようとしてくるからだ。そこで初めて冬也は犬に白目があったことを知る。
「うあ、だめだ。理論の名前がちらつく」
「わん」
「……あー、あと理論の提唱者の名前が」
今年のクリスマスは金曜日だ。勤め人であれば休みになることもあるのだろうが、冬也は違った。先程まで年明けすぐに提出を控える博士論文と戦っていたのだった。
論文は見直しの段階に近づきつつあるが、なんせその量が膨大で、審査会に通すことを考えても一切気が抜けない。本当であればここでのんびりしている時間も惜しいくらいだが、少しくらい休まないとやっていられないのだ。
「でもやっぱ来ないほうがよかったかな……」
余裕がない今、先程のように信次のことを困らせてしまいそうだ。
信次は冬也の五歳年上だ。彼は経営のコンサルテーションを業務とする人材派遣会社に勤務している。時期幹部候補で、経済誌にも名が乗るようなこの道では知られた人物だ。
学会では内容の充実さとプレゼンテーション能力から人だかりを作る。加えて、学生野球で鍛えた逞しい肉体に男らしい精悍な顔立ちを備えているので、メディアの出演も望まれているそうだ。
冬也は未だに、どうして信次が自分を恋人に選んだのか不思議に思う。大学院の修士の時、教授のお供として聴講した学会が出会いの場だ。以来、食事や遊び、学会に誘われていつの間にか関係ができていった。
普段は見せないようにしているが、冬也は気むずかしい部分がある。信次はそんな地雷をステップを踏むように軽快に避けて、心に入ってきたのだった。それは彼がやってきた器用なコンサルテーションに似たやり方だったが、それにしては随分と時間がかかったし、何よりロマンチックだった。
ビジネスでは効率主義で、アメリカ系の経済理論を基礎に博打のような思い切りの良いアプローチをするくせに、出会ってから三年後、告白として一輪挿しのバラを照れながら渡す。
彼はずるい。自分よりもはるかに大人びた人間のいじらしさを見て、好きにならないはずなかった。付き合うことになった夜は嬉しさのあまり寝付けず、涙がとまらなかったのは口が裂けても言えない秘密だ。
「わん!」
ふいに意識が現実に戻ってきた。ポメラニアンがじたばた暴れだし、フローリングの上を軽い音を立てながら走っていく。
「あっ、ちょっと!」
追いかけていった先のキッチンで、信次がオーブンからホーロー鍋を取り出していた。ふわりと香るのはローズマリーだろう。実家のクリスマスの料理でも使われていたので覚えている。
「来ちゃったの? こら、このままだと踏むぞ」
「さっき突然逃げ出して……ほら、おいで!」
つるりと足を滑らせて横倒しになった隙を狙って素早く抱えると、信次はにんまりと表情を緩ませた。
「慣れたみたいでよかった。あ、そいつ男の子だから」
「わかった、オスっぽい名前を考える」
「決まるまで冬也って呼ぼうかな? 冬也は可愛くてふわふわで目がキラキラで引き込まれそうだね」
「もう!」
冬也はポメラニアンを抱えたまま信次の肩にタックルを仕掛けた。力はさほど入れていないのに、彼は「いてて」と言いながらドレッシングを振りかける手を揺らす。
顔が赤いのを見られたくなくて、そのまま頭を背中に押しつける。信次はくすぐったそうに笑った。
「それか信次って呼んでもいいよ? いっぱい褒めてほしいなあ」
「こいつ、信次さんみたいに硬くないよ」
「ふむ。鍛えが足りないんだな。……犬って筋トレできんのかな?」
「ムキムキのポメラニアンとか見たくない」
「俺もちょっとやだな」
そんな他愛もない会話にくすくす笑う。
冬也はまるでコートに乗っていた雪のように疲れが溶けていくのを感じた。じわりと身にしみこんで、温もりを心に増やしていく。それに似ている。
その後、信次にテーブルセッティングを頼まれて、ケージの中にポメラニアンを戻す。手を洗ってから準備を手伝い、皿を運んだ。
ディナーは卵が彩りのグリーンサラダに幾種類かのチーズと生ハム、メインはチキンの香草焼きだ。温めたバゲットを添えてある。
薄いシャンパングラスを合わせると涼やかな音が鳴る。クリスマスのベルとは言わないが、これが二人にはちょうどいいのだろう。
ホーロー鍋から取り皿に取り分けたチキンにかぶりつく。焼き加減が絶妙で、ホーロー調理ならではの身のふっくらさと香ばしさがたまらない。
「美味しい! 俺、チキンの香草焼き好きなんだ」
「覚えてたよ。オリーブの実とローズマリー入れるんだろ?」
信次はゆるりと目を細める。日向ぼっこ中の猫を可愛がる時に似た眼差しはびっくりするくらい温かい。口ごもった冬也の照れを分かっているのだろう、彼は穏やかに声を上げた。
「もう少し暖かくなったら沢山散歩に行こうな。犬も連れてさ」
……信次は知っているのだろう。大学に入って以来一人暮らしの冬也が、ずっと何かを飼いたがっていたこと。信次の海外出張の時に一人になるのが嫌なこと。大きな学会の度に失敗しないかという恐怖で押しつぶされそうになること。
彼は寂しがり屋で不安を抱えやすい冬也を大切にしてくれているのだ。
テーブルに置いた冬也の手に、前触れなく信次が同じものを乗せた。大きな手のひらから温もりが伝わる。一度力をこめて離れていったそれを、名残惜しくも冬也の目が追いかけた。
そんな表情をばっちり見られていたらしく、信次はベッドでするような少し意地の悪い顔つきになった。
「そんな顔するなよ。ちょっと興奮しちゃうだろ」
「……やらしーんだ」
「冬也限定でね」
そのとき、「わん!」と犬が鳴いた。構ってと言っているのだろうか。二人して顔を見合わせる。
「もしかして子どもの教育に悪いかな、この会話」
「確かに子どもだけど、あの子も経済学者にするつもり?」
「ふ、世界初の犬になりそうじゃない?」
悪戯っぽく片目を瞑った信次がグラスを傾ける。やけにきざったらしい素振りだが、これが素なのだった。だからそういう意味でも出張は不安なんだと内心でごちる。
「そうだ。あいつの名前決めたよ」
「何て言うの?」
「雪。ちょっと女っぽいかな?」
「今の季節にちょうどいいね。いいんじゃないの」
信次の視線は自身の座る位置からちょうど斜めにあるケージに投げかけられていた。雪が網の隙間に顔を突っ込んでいるが、鼻がかろうじて外に出るだけだろう。
「――でさ、ずっと聞きたかったんだけど、あの頭と首の飾り何? クリスマスっぽくしてんの?」
「せっかくだからイルミネーションの代わりに光らせようと思ったんだけど、眩しそうだからやめた」
「信次さんのクリスマス感って独特だなあ」
冬也は頬を緩ませながら、暖かな食卓を味わうように深呼吸する。
今日みたいな大切な日があれば、きっと明日も頑張れる。クリスマスはそういう日なのだろう。
「わん!」
外に出たい雪が飛びはねすぎて、ころんと腹を見せて転がった。足が短くてなかなか起き上がれないようで、ぱたぱたと空中を犬かきしている。二人してその仕草に吹き出した。
「可愛いなあ、あいつ。やっぱ見てるだけで和む」
「確かに和むけど本人は大変そうだね。信次さん、出してもいい?」
「いいよ。踏まないようにしないと」
――そんなことしそうになったら転んででも避けるくせに。
それは言わずに雪を抱きしめた。小さな熱に頬を添えると、雪が小指の先くらいしかない舌で冬也の肌を舐める。
「癒やされる……二人とも可愛い……」
信次が感極まったような声音でそう言ったので、冬也はタックルをきめに信次の元へ歩き出したのだった。
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