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第5話

 人間、気を付けなければならないのは、自分が人を好きになった場合ではない。反対に自分が誰かから好意を向けられた場合である。好意を向けられると、自分も相手のことが好きになったような気がしてくる。  慎重になった方がいい。俺とて、最上への気持ちには確証が持てない。  俺は最上に散々振り回されて、挙句の果てにただ流されているだけかもしれない。あいつはただ面白がっているだけなのかもしれない。  ついでにもう一つ付け加えるとすれば、あまりにナチュラルな流れ過ぎてツッコむのを忘れていたけど、最上は男だし俺も男だ。  慎重になった方がいい、のに、なぜ俺は、あいつのことを探して歩き回っているのだ。  放課後迎えに来るのは大抵最上の方だったが、今日の俺は謎の思いつきで、自分の方から最上を迎えに行こうと思い立ったのだ。  しかし2年1組の教室に最上の姿はなかった。  それから、入れ違いになったかと思って2組に戻ってみたり、先に行ったかと思って(その可能性は低いが)学校を出て少し歩いては戻って来たり、結局のところただ落ち着かなく歩き回っている。  何、やってるんだろうな、俺。  別にそんな必要もないのに気まぐれであいつに会おうとした時に限って、それが叶わない。なんかこれが、俺の持ってなさ、中途半端さのように思えて、笑えた。こんなの、なんか、執着みたいで可笑しい。  最上を見つけたのは渡り廊下だった。物理実験室やら調理室やらに続くこの場所にはこの時間、人がいることは滅多にない。  最上は一人ではなかった。  あの女子はえっと……3組の池田さん?だっけ……。もちろん俺は話したことはないが、友達の少ない俺でも知っている人気のある人だ。大して興味もなかったが、なるほど確かに美人の部類であることは間違いない。  あ。これって。  見てはいけない。聞いてはいけない。  分かっているのに、足が動かない。  二人からは俺の姿は見えていないだろう。息を殺し、身動きを取らないようにしていると、聞いちゃダメだと思うのに耳に意識が集中してしまう。  今、最上、どんな顔して池田さんの話、聞いてるのかなあ。笑い声が聞こえた気がする。  俺はやっぱりバカだ。大バカ者だ。完全なる自滅。  何これ苦しい。右手でワイシャツの胸を押さえた。痛い。 「私ずっと好きだったの、最上くんのこと」 痛い。い、たい。  池田さんのその言葉が聞こえた瞬間、金縛りが解けたようになって、俺は半ば膝から崩れ落ちるようにその場から逃げ出した。  ああ今絶対物音させてしまったな。盗み聞きしていたなんて知ったら、最上は俺のこと軽蔑するかな。  最上と池田さんがこちらを振り向いたのかを確かめる勇気は、俺にはなかった。  数日の後、俺は自分のベッドの上に転がっていた。  投げ出された右手の指は、全部気休めの包帯でぐるぐる巻きにされていた。  あれから指がこれまでにないほど悪化し、とても部屋から出られる状態ではなかった。  久しぶりにスマホを開くと、ノートの写真やらを送ってくれたクラスメイトたちからのLINEに混じって、最上からのものも一通だけあった。  返す気にもなれなかったから、またそのままスマホの画面を伏せた。  俺が何日も学校や予備校を休んでいるからって、最上にはきっと何ということもない。最上の俺への気持ちだって、何ら確証はない。池田さんみたいなかわいい女子に告白されておいて、男の俺に拘る理由などそれこそどこにもない。俺にしろ最上にしろ、元から恋愛対象が男というわけではないし。  やっぱり俺は、誰かの一番にはなれない。  何より俺は一度だって、最上の口からその言葉を聞いたことはない――。  再び枕に顔を埋めようとしたその時。玄関のインターホンが鳴った。  こんな状態で人になんて会えない。居留守使おうか。  でも身体の中の何処かが、出ろって叫んでいた。  身体、起こせる。歩ける。俺はドアを開けた。  予感がしてたんだ。玄関を開けた先にいるのは―― 「来るなら、LINEくらい入れたら」 「ごめん、でもほんとに家に入れてもらえるとも思わなかったから」 そう言う割に、最上が提げている袋の中は菓子やら薬らしきものやらでいっぱいだ。ちょいちょい、訳わかんねえものも入ってるっぽいけど。 「とりあえず入れば」 「お、おう」 最上は靴を脱いで上がってきた。その時俺の右手が目に入ったのだろう、小さく息をのむ音が聞こえた。 「こっち」 それが聞こえなかった振りをして、自分の部屋に最上を入れた。  俺たちはとりあえず向かい合って座っていたが、こういう感じで合ってるんだろうか。考えてみれば、学校の友達が家に来たこととかも今までほとんどなかった。  俺は、なんか沈黙に耐え切れなくなって、二人の間に置かれたレジ袋の中身を覗き込む。 「……なんだろ、こういうお菓子とか、まだ理解が及ぶものはいいんだけど、この謎の葉っぱみたいなやつとか物珍しいお茶とかは何なわけ」 「いや、なんだろうその、ネットとかで色々調べて、その、指に、効きそうな、やつ……」 「なんだそれ絶対そんな情報てきとーだろ!」 「……やっぱそうかな」 俺が堪え切れなくなって吹き出すと、最上もつられて笑い出した。それから俺たちは二人でゲラゲラと笑っていた。笑っていた、のに。  あれ、俺なんで今、涙出てきて―― 「ふたつ、ぎ……?」 「……だよ」 「え、なんて?」 「……なんでそんな優しいんだよ……なんでこんな、期待してしまうようなことすんだよっ!」 「え、は?期待……?」 「……最上、たまにでいいから、俺のことなんて優先じゃなくていいから、俺のそばに、いてよ……二番目でもいいからさ、離れて行かないで……」 俺はなんて最低な頼みをしているのだ。こんなのとんだクズ野郎だ。そう思っているのに、涙はちっとも止まらない。 「ちょっと待てって二ツ木!お前ほんと何言ってんの?」 「だって、池田さんは……?」 「池田さん?……ああ、あの時渡り廊下にいたの、お前だったのか。あの人とは、何もないよ。丁重にお断りしました。ってか、覗き見なんて趣味悪いことしておきながら、なんで最後まで聞いてねーんだよ」 「っで、でもっ、俺まだ一度も、お前の口から、ちゃんと聞いてないっ」 最上は見たこともないほど目を丸く見開くと、続いて顔を真っ赤にして俯いた。  学園の王子様をこんな百面相状態にしてしまいもはや申し訳ない。王子様が最後に見せた顔は――  しょうがないなあ、とでも言いたげな微笑み。  あ、その顔、すげえかっこいい、かも。  ぼんやりし始めた頭に、声が降ってきた。 「二ツ木。俺お前のこと好きだよ」 「……ん。俺も最上のこと好き。大好き」 最上はいつまでも泣き止まない俺の頭を自分の胸に引き寄せ、あの長く形の良い指を俺の髪に通した。    それから俺は死んだように眠り続けた。三日三晩、ほとんど目を覚まさなかった。  やっと包帯が外せるまでになって、というか、精神的に色々取り戻して、という方が大きい気がするが、俺はまた制服に袖を通した。  誰かにとっての一番になれることなんて、ないと思っていた。  そこそこに好かれ、それなりに愛される人生。それで構わないと思い込んできた。  でも、それは自分で自分の心を騙していただけだと気が付いた。  だって俺は知ってしまったから。  一番好きな人の一番でいられることの幸せを。  ここまで来るのに何年も、何年もかかってしまったけれど、俺は今、幼きあの日の自分に教えてやりたい。17の夏、自分の身に起こる出来事を――。  俺の髪に触れた最上の指。誰かにあんなに大切に触られたこと、今までにあったかなあ……。  右手を広げ、顔の前に翳す。身体が覚えている最上の指に自分の指を重ね合わせて、俺の中に静かな欲求が生まれていることに気付いた。  俺も、最上に触れたい。この指で。  夏期講習の帰り、夏休みの、いつまでも昼間が続きそうな夕方。 「じゃあまた」 俺の家の前まで来て、いつものように最上が帰って行こうとする。  太陽すら、沈むんだか沈まないんだかうだうだしているんだ。これくらいの我儘、許されるだろう。 「あ、あの」 「何」 「ちょっとでいいから、その、うち寄ってかない?」 最上はまた一瞬、あの時の丸い目をした。  なんだよ、かわいいな。  テーブルの上の麦茶を透過する日光。窓から差し込む夕方の強い光が、部屋の中に輝きと影の対比を作り出していた。俺は部屋の照明を点けるのも、エアコンを入れるのも忘れていたことに気付いたが、もう構わなかった。 「……最上」 最上の身体の上にも、光と影が落ちていた。俺は右手の人差し指で、最上の唇に触れた。 「キスしろ。この、指に」 「は……だって、そっち、右手……」 「いい」 最上、分かってないの?左手ですればいいことを、敢えて右手でやるということが、俺の気持ちってことなんだよ。 「ん……んう……」 人差し指に落ちてきたキスには、思わず痛みに顔を歪めた。 「大丈夫、なのか……?」 「だから、いいってば」 俺の答えを聞くと最上はたっぷり時間をかけて、右手の全部の指に口づけた。  熱いよ。指全部。頭ん中も。 「はい最上、あーん」 俺は空いていた左手で最上の顎をもって口を開けさせた。  こんなこと、今まで通り普通に穏やかな生活を送っていたら、絶対できないことだった。学園の王子様にこんなことをさ。俺今多分、意地悪な顔してるんじゃないかな。  俺が開けさせた最上の口の中に、右手の人差し指を入れる。 「舐めてよ。俺の指」 奴は案外素直だった。熱い舌に撫でられ、唾液が指に絡む。 「あっつ。お前の口ん中」 「ん……俺、は……お前のそういう顔、は……はじめて、みた」 吐息の隙間から、最上が言ってきて、奥底に潜んでいた俺のS心に火が付いて。奴の口の中で、指を動かす。上顎をなぞり、歯列をなぞり、歯茎をなぞり。  何これ、なんか形勢逆転?俺はずっと見てみたかったんだよ、余裕の塊のようなお前の、その余裕のない顔を。あー、俺、その顔好きだわ。 「い……いたく、ない、の……んんう」 「は……はは、痛いよ、痛いけど、いい」 言いながら彼の首に抱きついたのは照れ隠し。やっぱり余裕がないのは俺の方だ。まだまだこいつには敵わないんだろうな、俺は。  最上と一緒に、生徒会長副会長をやる。悪くない残りの高校生活の過ごし方だ。それで卒業したら、最上と同じ大学に行けたらいい。抱くとか抱かれるとか、正直そんな覚悟はまだできてないけど。いつまでこんな厄介者の指を抱えていなければならないのか分からないけれど、俺はこの指で、もっと最上のいろんなところに触って、よくしてあげたいって、割と本気で思ってるから。俺はとりあえず、もうしばらくは、こいつと一緒にいたいって思うのは、おこがましいのかなあ。でも今は、目の前のお前のことで頭がいっぱいだから、お前のことだけ、考えさせてくれよ。

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