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真昼の月

昭和の初期、街の士官学校から離れて建つその寄宿舎は山の中腹にあった。 士官学校を卒業して間もない、まだ年若い軍人ーーー所謂軍人の卵が寝泊りし、広い校庭や、立地を活かして訓練を行い、そしてやがて来る筈の召集を待つ場所であった。 早朝、夏などは日によっては霧が立ち込めるような山道をそう速くは無い速度で駆ける訓練があり、その途中に矢鱈大きく頑強で、そして閉ざされた施設がある事は知っていた。冬場は当然のように深く降り積もる雪をものともせずに聳え立つ固い門のすぐ側を青年達は走る。 嫌でも目に付く建物の存在は知ってはいたが、他の団員がそうであるように修もまたそれが何の施設であるかは興味は無かった。知ろうと思ったのは、ふと建物から降りている視線を感じたことだけがきっかけだった。よくよく観察していると、その視線の主である歳若い青年が毎日窓の中から自分達を眺めている事に気が付いた。 (...今日も) その青年の視線に気付いている人間は自分の他に居るだろうか。否、いないのかもしれない。何しろ余所見は怒鳴られる。自分ーーー修もまた、ちらりと視線を向けてはまた前方を見据える注意を払うようにしていた。足を踏み出すごとに弾む白い息を眺めるようにしてひたすら前方へと走る。 だが、 (...あ) 横目で掠めた視線が、確かに重なった。 三階の、左から2つ目の窓の向こう。修の視力は寄宿舎の中でも良い方だ。今、間違いなく目が合った。閉ざしたままの硝子の向こう、青年は、はっきりと笑っていた。 (来てどうするんだ) 折角の休日に、あまりに考え無しだった。 硬い門扉の前、着込んだ外套に更にぐるぐるとマフラーを巻き、ぴんと糊を貼ったズボンを身に付けた大柄の仏頂面が立っていたら不審だろうか。髪だけは坊主だから、軍人だと思って貰えるだろうか。 ここに来た所であの青年が居るとは限らないのに。 施設は、療養所であった。なんの療養所かは定かでは無いが、寄宿舎の管理人に聞くと簡単に教えてくれた。恐らくは結核だろう、だから近付かない方が良い。 だが、目が合った。そうするともう、あの青年が気になって仕方が無くなってしまったのだ。 時折吹く冷たい風に肩を竦める。身動ぎする度に、長靴の下で雪が鳴いた。門の中にある建物の中は暖かくて過ごしやすく設えられているのだろうか。無意識に羨望の眼差しが浮いた。 「御見舞?」 にわかに声を掛けられ、修の肩が跳ねた。 やましい事は何も無いのに、それでも建物に向けていた視線をそろそろと声の方に向けると、その青年は居た。 この人だ。 すぐに解った。窓の向こうに佇んでいた人。怖いと思う程に色の白い人。今は門の向こうに立っている。それは直感に近いかもしれないが、この人だと思った。 「...あ」 「誰かの御見舞?軍人、さん?」 細い。 自分と同じく外套を羽織ってはいるが、何も巻かない首元や袖なから覗く手首の、そして厚手のコートで包み込む胴回りのなんと細い事だろう。顔も、自分の様な厳つい輪郭とは程遠い、ほっそりとした細面で、髪は黒く耳にかかる。ーーー綺麗だと、思った。 涼やかな目元で自分を見上げる瞳が、綺麗だと思って、動揺した。 「あの、...目が」 「目?」 吹く風に消えそうな声だった。少し高い、でもよく通る。 「目が、合った、ので」 「ーーー...、ああ」 しどろもどろになる自分が情けないと思った。全く順を追ってはいないし、質問の答えにもなっていない。それでも幸い、青年はぱちりと目を瞬かせた後に、そっと笑った。 「軍人さん」 「そうです」 「いつもあそこを走っている」 ちらりと視線を舗装された道に向けてはまた修に戻す。 「合ったねぇ。昨日」 「...はい」 青年が浮かべた小さな笑みは、修の頭から足元までを撫でた後に、不意に新しい玩具を与えられた子供のような笑顔に変わった。 「じゃあ...俺に、御見舞?」 「......多分」 その割には手ぶらだ。御見舞と言うからには何か手土産がいるだろう。修は空いた両手をぎゅっと握り締める。その様子には気付かず、青年は浅く頷いたが、その時門の向こうから女の声が聞こえた。 「城崎さん!もう...とうに戻る時間ですよ!」 「...ああ、時間切れだ」 近付いてくる白衣の女につまらなそうな顔をして少し長い前髪を掻き上げる。その仕草が様になっていたからか、修は何故かどぎまぎした。 その動揺を知ること無く青年はまた修を見上げる。 「また来てよ。軍人さん。良かったら今度は中に入っておいで。ねぇ、体は丈夫?」 「はい」 一応、軍人、なので。 「じゃあ、あっちの門から入っておいで。ここは開かないことになってるから」 腕を伸ばし、少し先にある小さな門を指さす。そちらへと目を向ける間にも白衣の女の距離は縮まっている。 「じゃあ、またね。軍人さん」 呼び戻しの女が完全に背後に立たれる前に青年は踵を返した。 せっつかれるその背が建物の中に消える頃、修は自分の名を伝え損ねたことに気が付いた。 ーーーーー 先日青年に教えて貰った小さな門には呼び鈴が付いていた。どうやら出入りの人間用の門らしい。今日も下がる気温の中、冷たい指でブザーを鳴らすと、けたたましい音を聞き付けたけた係の人間らしき男がやって来る。小さな中年の男は、上背のある修の姿を見て眉を寄せた。 「御見舞かい」 門番の中年は、門番らしい硬い声で修に尋ねる。深々と腰を折ってから頷くと、誰の、と聞かれた。修はこの5日間何度も胸の中で反芻した名を初めて口にする。 「城崎、さんの」 「...へえ」 前回聞き齧った名を告げると門番は珍しそうに目を瞬かせ、修を入れてくれた。3階の奥から2つ目の部屋だ。親切にもそう教えてくれたから、修はまた丁寧に頭を下げた。 「やあ」 建物の中はやはり適温だった。マフラーを解きつつ硬い廊下を歩む修に物珍しげな視線が密やかに注がれる。さして気に留めることなく辿り着いた酷く殺風景な部屋にいるその人は、先日外で見た時よりも更に小さく細く見えた。窓のすぐ下に寝台が置かれ、その横に小さなテーブルがある。上にあるグラスには水が入っていて、盆の上に薬らしい小さな包があった。 壁が四角く切り取られ、上から長い布が下げられただけの入口からのっそりと顔を出した大柄な男に気付いた城崎は、かつてからの知り合いにそうする様に寝台の上から気軽に声を掛けた。靴音が止まった時には背を向けていたから、寝台の上に座る形で窓の外を眺めていたのだろう。いつもそうしているのかもしれない。部屋の隅には小さなストーブが置かれ、それが空気を乾燥させているようだった。 「入っておいでよ。軍人さん」 手招きされるままに歩み寄ると、硬い床と硬い靴底がぶつかり音を立てた。何を話そう、等とは考えていなかった修は、眉を下げて手にした包みを差し出す。 「何?お土産?」 「......カステラは、お好きですか」 20歳を過ぎたと言うのに随分甘い親から送られてきたそれを手を付けずに持参した。城崎はきょとりと軽く目を見開いた後に柔らかく笑う。 「ありがとう。なんだか悪いね。俺が呼んだのに」 「いえ」 会話が、途切れた。それでもその時間は僅かで、城崎は部屋の隅にある丸椅子を持ってきて座りなよ、と言ってくれたから修はその大きな体躯をそう頑丈では無い椅子に落ち着かせる。 「...いつもね、見てるんだ。ここから」 言葉を探す修に構わず、城崎は口を開く。 「朝は軍人さん達が走ってる。昼は此処の職員が一服しに来ている。夜は流石に狐か何かしないない。でも飽きない」 話相手が欲しかったのだろうか。修がそう思う程に、城崎は言葉を紡ぎ続ける。 「今は冬だから雪ばっかりだね。でも眩しくて綺麗だ。秋の紅葉も綺緑だったけど…、冬が終わったら春が来る。春もね、綺麗なんだよ。軍人さんは、此処に来てどれ位?」 「今年の、春からですから。もうすぐ1年近くになります」 「軍人さん、幾つ?年、」 修の返答を聞いているのかいないのか、饒舌な城崎は違う問いを投げる。修は虚を突かれて目を瞬かせるも、すぐに答える。 「22です。今年、23になります」 「俺より5つ下か。どうして軍人になったの?」 「...どうして」 何気ない問いかけだったが、考え込んでしまった自分を見て城崎は楽しげに笑みを深める。 「今は皆そうらしいね。丈夫な男子は軍人になる」 「はい」 「俺は無理だな。此処に居なくても無理だ」 どういう意味だろうか。確かにこの細身では、自分がいるあの寄宿舎や、軍隊では浮くだろう。 「...ねえ軍人さん」 「はい」 「俺はこれでもそこそこ良い家に生まれてね」 不意に視線を窓の外に向ける。遠い場所を見ているか、城崎自ら持ち出した話題を口にする表情を見られまいとでもするように。 「でも妾腹だから、跡目にはなれなかった。おまけにこの結核だ」 「......」 「随分体良く家から出されてしまったんだよね。もう此処での暮らしは長い」 こんな話題に気の利いた言葉を返す事が出来るようなら、修は話題に困ったりしない。少しの間の後、ふ、と息を吐き出してから城崎は再び修を見遣った。 「だからね、話相手が欲しいんだよ。医者や看護婦は飽きた」 「...なら、また、来ます」 低く、呟くような声音は、反射的に出た様であった。笑う事が苦手なその年下の男の言葉に城崎はまた驚いてぱちぱちと目を瞬かせた後で、破顔した。 「うん。...軍人さん、名前を教えてよ」 「佐伯、修です」 「...修。また来て」 確認する様に名前を唄い、城崎は頷いた。修もまた同じように頷いた後に、意を決した様に城崎の目を見る。 「城崎、さん」 「ああ、彰だよ。下の名前は彰」 下の名前は。そう聞こうとした修は、また困った様に眉を垂れた。 ーーーーー どうせ端から休日はする事が無かったのだ。 年が明けたその日から修は休日にはその療養所に訪れ彰に会った。ある時は病室で、ある時は建物の隅の廊下のベンチで、外の風に当たりたいと言えば玄関の先で、彰の話を聞いた。彰は生来のものなのか、それとも処世術であるのか、常に饒舌で話は上手く、修が退屈するようなことは1度も無かった。 母親は優しかった事。父親と呼ぶ人は認知はしてくれて家には入れてくれたが、優しかった母は家には入れなかったこと。その家は明治の御一新まではそこそこの幕臣で、明治に入って運良く華族にはなれたが父親の実子はあまり才覚が無い事。自分は学校には通ったが帝王学は身に付けさせられなかったこと。 そうした色々は、これまで誰に話す事も無かったが、急に人に、それも自分の今までの人生の中で関わりの無かった人間であれば話しても良いかと思ったこと。 そんな話を彰は明るい声音で話すものだから、修はいちいち返す言葉に悩んだ。それでも、それはいつしか聞いて貰いたいだけで、さして返答は求めていないものだという事に気が付いた。 何不自由無く、素直に実直に育て上げられ、元より従順な気質の修に、その役割は合っている。いつしかそう感じるようになった。 ーーーただ、あまりに彰が明るいものだから、一度だけ聞いた事がある。 「...家を」 「うん?」 「家を、継ぎたかったのですか?彰さんは」 その時だけ、普段明るい顔しか見せた事の無い彰の表情が微かに翳った事を修は見逃さなかった。 「...どうだろう、ね」 「...すみません」 謝ったのは、明確な答えが返らなかったからだと思った。 少しの沈黙の後に彰は、窓の外の木の枝に柔らかく積もった雪を眺めながら、少し寂しげに笑ってみせた。 「俺にもきっと、才覚は無かったよ」 「......」 「それにさ、」 不意に指先を伸ばす。それが何処に伸びるのか何気なく目で追った修は、その小さな体温が自分の手の甲に触れた事に思わず瞠目した。 「此処に来なかったら、修には会えなかった」 「...はい」 「...修みたいに丈夫だったらとは、思うよ」 節くれだつ手の甲を指先で撫で、目を細める。その指の細さは、生来のものではないだろう。 「そうしたら、こんな所からじゃなくて、修と一緒にあの門の外の道を歩けたのかもしれない」 甲を滑った指が、修の指に絡む。導かれるようにその細い手を取って柔らかく握ると、今度は彰が目を見開いた後に、やはり寂しげに目を伏せ、笑った。 「ねぇ、あそこからずっと見てたけど」 視線が向かなくても解る。彰は窓の縁を見ているのだと思う。 「俺に気付いたのは修だけだ」 「......」 「気付いて、此処に来てくれた。...こんなに嬉しい事はない」 いつもの通り、どこか浮世離れした澄んだ声音と眼差しだった。 もしかして、この人は本当はもうこの世の人間ではないのかもしれない。そんなとんでもない事を思ってしまった所為なのか、修は、それ以上手に力を込める事が出来ない。 体温は、確かに此処にあるのに。 「...春はまだだね」 少し疲れた。彰はそう言いながら手を解き、解いた言い訳 のように自分のシャツの襟をかき合わせた。 ーーーーー 改めて髪を整えた頭が寒い。 未だ深く積もった雪は溶ける気配がない。朝からしんしんと降り続く雪は、一向に止む気配が無く、せっかくあの管理人がかいたらしい遊歩道の上も、昼頃にはまた真っ白に染まってしまっていた。その上を修が長靴で走る度に、悲鳴の様に新雪が鳴いた。真新しい軍服の襟が首筋に擦れる。鍛え上げていたはずの体から漏れる息が、切れていた。 いつもの曜日の、いつもの時間に部屋に訪れた修の出で立ちに彰は瞠目した後、ーーーまた、あの寂しそうな顔で笑った。 「いらっしゃい。修」 「...辞令が、出ました。大陸に行きます」 一息で言わなければと思ったのは、途中で必ず言葉がら詰まる予感がしたからだ。慣れない真軍服に身を包んだ修は、今日も変わらず寝台に座る彰に、酷く真面目な声音で伝えた。 「...いつ?」 「...5日後に」 視線を合わせる事なく頷いた彰は、布団の上に置いた手元をじっと見ている。まるであの冬のある日に重なった感触を思い出そうとしているように見える。あの日から、年末に初めて会ったあの日から数えても、彰は随分と痩せた。近頃は自分が訪れても起き上がる事は少なく、大人しく寝てたよと嘯く姿が多くなっている。 今日起き上がっていたのは、たまたまなのか、そんな事を頭の隅で考えながら、彰は珍しく言葉を探しているようだった。 「......今日が、最後の休みです」 言葉が。 「もう、...此処には来られない」 「ーーーっ、駄目だ...!」 詰まった言葉が、吐き出され、乾燥した、がらんどうの様な病室に反響した。 この人が、これ程の大声を出したのは初めてだった。自分の発した声に驚いた様に目を見開いたのも一瞬で、彰はすぐに激しく咳き込み始める。 「彰さん」 その咳に弾かれ、修は起き上がる体を両腕で抱き込んだ。硬い軍服と、柔らかいシャツが触れ合う。喀血は無かった。それでも彰は修の腕の中で身を捩る。 「離れろ。伝染る」 「伝染りません。俺には、伝染りません」 何の根拠も無いそれに言い聞かせられながら修は薄い胸板を上下させながら、彰の腕をきつく掴んだ。弱々しく、それでもきつく掴み、修の目を見据える。 「駄目だ。許さない。お前はまた此処に来る」 澄んだ目の。 生きていく内にひた隠して沈めてきた自尊心の欠片が覗く口調だった。自分がこんな風に日陰で生きていく事は間違っている。自分の思う事は叶うと信じて疑わない。 ーーー灯火が、不意に燃え盛る様だ。そう思った。 「約束しろ」 「彰さん」 「また此処に来ると約束しろ。修」 片手は腕を。もう一方の手は胸倉を。 掴んで2度と、離すまいとするとでもいう様に、その五指が白くなっている。 声が、微かに揺れた。 「約束するなら、俺は必ずきっと、生きながらえる。...俺も、約束する。だから」 また咳き込んだ。廊下から足音が聞こえる。医師か看護婦かもしれない。修はその力に負けぬよう、それでも自分の最も大切な物を抱き締める力で、彰をかき抱き広く厚い胸に収めた。 「約束します」 「......うん」 「また、此処に来ます」 自分の思わない事は、叶わない筈は無い。 震え出しそうな声を堪えたのは、彰の声が明らかに先に震えていたからだ。 「必ず、帰ってきます」 「うん...、」 入口の前で足音が止まった。掴んだ指を互いに離したのは、同時だった。 ーーーーー 山の中腹にはもう深く雪が積もっている。 長靴で雪を踏み、片腕の無い一人の軍人が静かに佇む療養所を見上げた。もう幾度の冬が巡っただろう。自分はかつて、何度こうしてあの窓を見上げただろう。 3階の左から2つ目の窓にはカーテンが掛かっている。 ほんの数分前に息が上がったままに会った門番は、途方に暮れたように微笑んで教えてくれた。 無縁仏は、あっちだよ―――。 「―――、さん」 もう2度と口にする事の無い名を最後に声にした。 雪原に反射する陽光の眩しさに、涙が滲んだ。 (了)

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