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最後はこんな恋もいい

 先日のニュースで、今年の冬は暖冬と言っていたが、それでもやはり夜になると気温はグッと落ち込むものだ。  温かい部屋の中ならまだしも、上着なしでは廊下に出ることすら躊躇われる。  それほどに、北国の冬は寒さが厳しい。  壁に掛かっている時計が、二十時半を告げる。 ――そろそろ猛が帰ってくるころだな。  慎一郎は手元の本をパタンと閉じて老眼鏡と共にテーブルに置くと、台所へ向かった。  やかんに水を入れ、火に掛ける。炎の上がる音をBGMに、戸棚にしまってある四合瓶を取り出して徳利に移す。  この寒空の下、拍子木を打ち鳴らしながら町内を廻る猛を労おうと、彼の好きな燗酒を用意することにしたのだ。  やかんの水が沸騰したら火を止めて、その中に徳利をソッと入れる。  火を掛けたままだと中の酒まで沸騰してアルコールが飛んでしまう。  だから必ず、火を消してから徳利を入れるんだ――下戸の慎一郎にそう教えてくれたのは猛だった。  彼は酒が好きで、特に日本酒には目がない。これも正月用にと取り寄せた、少しばかり値の張るものだ。  寒さに震えて帰ってくる猛はきっと、何よりも喜んでくれるだろう。  湯の中に入れて三分ほど経ったころ、ガラガラと玄関の戸が開く音が聞こえた。 「帰ったぞー」  急いで徳利の滴を布巾で拭うと、慎一郎は玄関へと向かった。 「お帰り。お疲れさま」  短く「おう」と答えながら長靴を脱ぐ猛。  よほど寒かったのだろ。鼻や頬を真っ赤に染めて「しっかし|寒《さみ》ぃな」としきりにぼやく。  そんな彼のコートを受け取って「燗つけておいたよ」と言うと、猛は嬉しそうにニヤリと笑った。  小さな子どもが見たらきっと泣き出してしまうであろう、凶悪な笑顔。  しかし慎一郎はそんな悪い顔が、何よりも好きだった。 **********  二人が初めて出会って約四十年の歳月が流れた。  そのころ猛は任侠の世界に生きる男で若頭と呼ばれており、慎一郎は公立中学校の教員をしていた。  住む世界が違い、本来なら決して交わることのないはずの二人。それが巡り会い、余生を共に過ごすまでになったのは、一体どんな因果であろう……慎一郎は今でも時折り考えることがある。  離れようと思ったことは、何度もあった。  当時猛には妻子がいたし、自分は反社会的組織の人間と関わってはいけない立場だったのだ。  けれど互いに惹かれ合う心を消すことなど、到底できなかった。  何度も激しく求め合い、愛の深さを確かめ合った。それと同じ数だけの諍いも起こし、枕を涙で濡らした夜は一度や二度ではない。  互いの立場から、二人の関係を隠匿し続けて数十年が過ぎ。  猛は慎一郎に約束していたとおり、息子が跡目を継ぐと同時に妻とは離婚。  慎一郎が定年を迎えると同時に、攫うようにしてこの町に連れて来た。  二人のことを誰も知らない、北国の小さな町に。  老いてしわくちゃになってから始めた“新婚生活”は、家庭を持ったことのない慎一郎にとっては非情に面映ゆいものだった。  老境に入り、まさか縁もゆかりもない土地で新生活を送ることになるとは思わなかったし、絶対に添い遂げることはないと思っていた猛との毎日は戸惑いの連続で……それと同じくらいの幸福を感じていた。  猛は近所の人との交流も盛んで、町内会の役員を打診されたときも、嫌がる素振りを見せなかった。 『俺らも年だし、いつ何があってもおかしくねぇからな。普段から隣近所と繋がりを作っておいた方が、後々役に立つかもしれねぇ』  そう言って猛は、町内のドブさらいや祭りの実行委員、果ては真冬の夜回りまで、なんでもこなす。  かつての部下が見たら、さぞ驚くことだろう。  冬場の夜回りは毎年行われており。年によってメンバーが変わる。今年は四十代から五十代が中心で、猛は最高齢らしい。  この年になると、少し冷えただけで関節が痛む日もある。そんな中、毎日夜回りするのは辛かろうと、たまには自分が変わろうと慎一郎はたびたび申し出たのだが、毎度 『俺は若いころから鍛え方が違うんだよ。夜風に当たっただけで風邪ひいちまうお前とはワケが違うんだよ』  そう言って慎一郎の髪を無骨な手でグシャグシャと撫でて、『話は終いだ』と打ち切るのだ。  こういうときの猛は、自分が何を言っても聞き入れてはくれない。それを長年の経験上理解している慎一郎は、せめて帰って来たときにはすぐ一息付けるよう、部屋を温めて湯の準備をして燗をつけて待つようになった。  温かいリビングに足を踏み入れるとまっすぐ炬燵に向かい、背を丸めながら「うーーーっ」と幸せそうな声を漏らす猛。  かつて二人の地元で鬼の大親分と呼ばれ、恐れられていたとは思えない姿に、慎一郎はクスリと笑う。 「……なんだよ」 「いや、猫みたいでいいなって思って」 「猫、好きなのか?」 「うん。子どものころから一度は飼ってみたいと思う程度には好きだよ」 「んなこと今までいっぺんも聞いたことねぇぞ」 「俺はずっとアパート暮らしで、猫なんて飼えなかったからね」  欲しいと口に出したら、願いが募ってしまう。だから本当に欲しいものは、言葉にしない。慎一郎は昔からそう決めていた。  だから猛とのことだって、欲しいと口にしたことは一度たりともなかったのに。 『俺が欲しいなら欲しいって言えよ。お前になら、俺の全部をくれてやる』  猛のその一言が、慎一郎の決意を粉々にした。  掴まれた手首から伝わってくる激しい熱。それはやがて慎一郎の心を覆っていた壁を呆気なく焼き尽くしていった。  無残な焼け跡に残ったのは、ただひたすら愛おしいと言う気持ち。  その想いを無視するなんてことは、もうできなくて……慎一郎は猛の胸に縋ったのだ。 『本当に、望んでも?』 『当たり前だ。そんかわり一生離してやれねぇがな』  あれから数十年。あの言葉のとおり、猛はずっと慎一郎を離さなかったし、慎一郎ももう二度と離れようとはしなかった。  そして、今がある。 「猫でも飼うか?」  炬燵に差し入れた手を摩りながら、猛がポツリと呟いた。 「いや、飼わないよ」 「でも好きなんだろ?」 「僕らいつお迎えが来てもおかしくないんだ。そんな老人が猫なんか飼えないよ。突然ポックリ逝っちゃったら、残された猫が可哀想だ」 「……まぁ、それも|違《ちげ》ぇねぇ」 「それより僕には」  君がいるから充分だ……耳許で囁くと、噛み付くようなキスが降って来た。 「相変わらず、煽るのが|上手《うめ》ぇヤツだ」 「煽ってなんか」 「いや、充分ヤラれた」  猛は慎一郎の手を炬燵に入れると、己の下半身へと導いた。そこは幾分立ち上がり、たしかな硬さが感じられた。 「……本当に?」 「冗談で勃つかって」 「お酒、冷めちゃうよ」 「じゃあ飲んだらすぐ、な」  ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた猛。  ズルい男だ……そう思いつつも、結局は拒めない慎一郎なのだ。 **********  若いころは会うたびに互いを求め合い、激しく愛し合う時期もあった。  けれどもうお互い七十を過ぎて、体を繋げることは正直少ない。  けれど月に一度は必ず、互いの温もりを確かめ合うように肌を重ねるのが常となっていた。  夜のしじまに、ヌチヌチと小さな水音が響く。  横向きに寝そべった状態で猛に貫かれている慎一郎の口から、はぁっ……と熱い息が漏れる。そんな彼の慎一郎の陰茎をは、猛の手にスッポリと収められ、やわやわと揉まれている。  手の中のささやかな陰茎は、どんな刺激を受けても大きくならない。けれどその柔い感触を楽しむように、猛は揉み続けていた。  慎一郎が勃起しなくなったのは数年前のこと。どんなに扱いても舐めしゃぶられても、完全に勃つことはなかった。  ショックを受ける慎一郎に猛は 『チンポが勃たねぇくらい、どうってことねぇよ。俺がちゃんと気持ちよくしてやるから』  と事もなげに言い放ち、ガハハと笑った。  そう言う問題じゃないんだけど……そう呆れはしたものの、これまでも後ろだけの刺激で達することのできた慎一郎は結局、陰茎が起立しなくてもなんの問題もなかった。 ――勃起しなくなったのが猛だったら、えらい騒ぎになったんだろうな。  それを考えただけで、おかしさが込み上げる。 「何考えてんだよ」  笑いを噛み殺す慎一郎の頭上に、猛の声が落ちてくる。その声は心なしか不機嫌に感じる。 「大したことじゃない」 「ヤってる最中に考え事なんかするんじゃねぇよ」 「ごめん」 「それとも考え事もできねぇくらい。激しくしてやろうか?」 「そんなことして大丈夫?」 「何がだよ」 「だって」  ここしばらくは、スローセックスばかりだった二人。年を重ねて体力も落ち、激しい行為ができなくなったのだとばかり思っていただけに、「激しくする」と言われて驚きが隠せなかったのだ。 「猛の体力がなくなったんだとばかり思ってたけど」 「馬鹿にすんな。俺はそんなに衰えちゃいねぇ。今だって充分激しくできるぞ。それをお前に合わせて、ゆっくりしてやってんだろうが」 「やめて。してる最中に心臓麻痺で腹上死なんてされたら困る」 「誰が心臓麻痺なんてするかよ!」  ズン、と奥を穿たれて、「うっ……」と声が漏れた。  先ほどよりも速度を増した律動に、慎一郎の息がとたんに荒くなる。  ゆっくりだったとは言え、先ほどからずっと刺激され続けていたのだ。我慢できるわけがない。 「あっ、激しっ、イきそ……」 「イッちまえ」  そう言う猛も歯を食いしばっている。慎一郎が感じるほどに、卑肉が吐精を促そうと蠕動を繰り返しながら陰茎を締めつける。  その淫らな動きに、達してしまいそうなほどの快感を得ていたのだ。 「あっ、猛っ……んっ、あ、イくっ!」  体を大きく震わせて、慎一郎は絶頂を迎えた。  刹那、後孔に力が篭り、猛の陰茎を食いちぎらんばかりにギリリと締め上げる。 「ぐっ……!」  過度の刺激に耐えかねた猛が、小さな呻きと共に吐精する。  薄い膜越しに感じる、小さな痙攣のような動き。  背後で聞こえる荒い息遣いと激しい鼓動。  熱く火照った体としっとり汗ばんだ肌。  その全てが言いようもないほど嬉しくて……。  慎一郎は猛の腕の中で、その幸福を噛みしめたのだった。 ********** 「その、なんだ……今度猫カフェとか言うやつに行ってみるか?」  翌日の朝食時、猛がポツリと呟いた。 「え、なんで?」 「お前が昨日、猫好きだって言ったんじゃねぇか。飼ってやることはできねぇが、たまに遊ぶくらいならよ」  モソモソと歯切れ悪く言う猛。  彼のこういう態度は、照れているときのものだ。  猫カフェを訪れる自分を想像して、内心身悶えているのだろう。 「一緒に行ってくれる?」 「……おう」  仏頂面で諾と答える姿も堪らなく、かわいらしい。 ――もっともそんなこと言ったら、また猛がヘソを曲げるから、絶対に言わないけれど。  だからこの気持ちは、胸の奥にしまっておくことにした。  静かに流れる平穏な時間。  若いころならば退屈したかもしれないような、平穏でなんの変化もない日常。  けれど、多分……今の自分たちには、それがいい。  こんな穏やかな時間を過ごせる今が、何よりも愛おしかった。  きっと二人はこれからも、こんな日々を過ごしていくのだろう。  死が二人を分かつまで。  共に寄り添いながら。  いつまでも。  ずっと。  ずっと。

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