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第30話
「バンビちゃんは今日この後仕事か。送ってやれなくて悪いが…」
一人で帰れるか?という聞き方が子供に対するもののようだったので、ムッとして「一人で帰れますから!」と、わき腹にパンチを入れる真似をした。
久世は「そうだなバンビちゃんは大人だからな」と笑っている。
どうして、腹が立っているはずなのに、この時間が終わってほしくないと思うのか。
久世のオフィスの入るビルが見えてきて、言葉を探した万里は、突然建物の間から飛び出してきた影に思考を中断された。
「久世!貴様よくも……!」
罵声に驚いて、相手を注視する。
五十絡みの男性だ。平日昼間だというのに、アルコールの臭いがする。
スーツは着ているが、ワイシャツなどは薄汚れ、伸びかけたボサボサの髪と無精髭からしても、男が仕事中ではないことは明らかだった。
久世が万里をかばうようにして前に出る。
「勝又さん。今日はどういったご用件でしょうか」
「黙れ!お前のせいで何もかも失った!金も!会社も!兄も……っ」
強く相手の胸倉を掴んで吼える男とは正反対に、久世は冷静そのものだった。
「恒夫さんのことは、伺いました。勝又商事に関わった人間として、お悔やみを申し上げます。それとは別に『お前のせいで』と仰いましたが、会社は経営者の私物ではない。何度もご説明したのにご理解いただけなかったことを、とても残念に思っています」
男の目は血走り、今にも久世に暴力をふるいそうで、事情は分からないが通報するべきかとスマホに手をやる。
万里の動きを察したのか、久世は大丈夫だというように片手を上げてそれを制した。
「……全てを失ったと言うが、あなたにはその身も、恒夫さん以外のご家族も残っていらっしゃる。ご自身の力で一から何かを始めたいということであれば、我々にお手伝いできることもあるかと思いますが」
ご用がそれだけでしたら失礼します、と、一方的に言って、男の手を胸元から外す。
歩き出した久世に視線で促され、万里もそれに続いた。
男は追ってはこない。ただ……、
「このっ……人殺し……!」
背後から投げつけられた言葉が、鼓膜に刺さった。
鼓動が五月蠅い。
気まずい空気のまま久世と別れて、『SILENT BLUE』の入るビルが近付いてきてもまだ、男の声が頭から離れなかった。
久世は、一言もあの男とのやり取りについて、弁明をしなかった。
会話から察するに、久世が勝又商事という会社に何かをしたことで、あの男の兄が亡くなったということだ。
会社とか経営とか言っていたので、久世の仕事だという会社の買収に関わることなのだろう。
世界全体にとって利益になることしかしないと言っていたのだから、何か少しくらいフォローすればいいのに。
そこまで考えて、久世を信じたいのだという自分の気持ちに気づいてしまった。
万里は久世に、言い訳をしてほしかったのだ。
あれはあの男の逆恨みだと。自分は正しいことをしている…と、安心させて欲しかった。
父の行動次第で、神導と久世が味方ではなくなる可能性があることを、わかっていたはずなのに。
『人殺し……!』
あれは、おとずれるかもしれない未来の自分の姿ではないか。
久世の『会社は経営者の私物ではない』という冷徹な眼差しが、まるで自分と父に向けられたもののようで。
(認めたくはないが)久世と離れがたく思う自分と、自分の置かれた立場との間に板挟みになった万里は、どうしたらいいかわからなくなってしまった。
そんな気持ちを抱えたまま歩いていると、今の住処であるビルのエントランスの車寄せに、黒いセダンが止まっていて、そのそばに桜峰の姿が見えた。
いつもと変わらぬ綺麗な立ち姿を見て少しほっとしたが、すぐに一緒にいる人物を見て、ぎょっとする。
やや襟足の長い髪を後ろに流し、目つきは鋭く。逞しい肉体にダークスーツを纏い、ワイシャツはやけに光沢のあるワインレッド。
明らかにアレである。
あの、ジンギとかオトシマエとかいうアレに、桜峰が。
桜峰が……ヤクザに絡まれている……!
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