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サフランの君へ

 夏に辛いものとか熱いものを食べたくなるのってどうしてなんだろう。そんなことを思いながら、冷房の効いた店に足を踏み入れる。  黒い靴をはいているせいで、光を吸収した足の甲が熱い気がする。背中に貼りついたシャツが不愉快だ。そんな営業の大変さを味わいながら、通された二人掛けのテーブル席に座った。 「カレーはサフランライスじゃないと好きじゃないんだよな」  日本で一番知られているカレーチェーンにて。高遠さんはちゃっかりと白ごはん大盛りを注文したのに、いつも変わらない低い声で突然そんなことを言った。  肘から手のひらにかけて、ちょうど腕まくりした部分が日に焼けている。俺は日焼けしにくいたちなのでそうでもないけど、高遠さんはけっこう黒い。顔もそこそこ焼けているけれど、いかにも体育会系だけど爽やかって顔立ちだから暑苦しさはあまり感じなかった。 「サフランライスって、あの黄色いのですよね? くさくないですか?」 「子ども舌だな、あの良さがわからないなんて」 「そっちはおじさんっぽいです、においきついものが好きって」 「お前はな、ほんっと生意気」  ふううっと大きなため息をつかれたけれど、俺からしたらそう感じたんだから仕方がない。思ったことを言っただけで生意気なんて言われたら、俺は何も話せなくなってしまう。 「素直って言って下さい、素直って」 「あーはいはい。そういうのも若者らしくていいんじゃないの。ただし俺の前くらいにしとけよ」 「はあ」  会話の切れ目で、二の腕がたくましいおばちゃんの店員がカレーを持ってきた。ごはん大盛りの野菜カレーと、同じく大盛りのカツカレー。このおばちゃん店員なら一人でこれいけそうだな、なんてつい妄想をしたくなる。プロレスラーみたい。  野菜カレーを受け取った高遠さんは、俺の目の前の皿に乗った揚げ物を見て「見てて胃が重たい」と嫌そうな顔をした。 「舌はあれみたいですけど、四十いってないじゃないですか。それだいじょぶなんですか?」 「社会人二年目と一緒にすんなよ、俺は体はホントにおっさんだよ」  言いながらひょいっと水の中にスプーンを沈めた。なにしてんだ、あれ。まあどうでもいいから聞かないけど。  高遠さんはそのままカレーをひと口ぱくついた。それから唸って、 「はー、サフランライスくいてー」 「またっすか。なんでそんなに好きなんですか?」 「ん? んー……」  カツをスプーンで無理やりちぎりながら食べていく。次の営業先に行くまで時間はあるから急ぐこともないんだけど、高遠さんの食べるペースが早いからつい引きずられた。  高遠さんは俺の質問に考えているのか、ちょっと遠い目になった。それでも口と手は素早く動いているんだから、なんか、サラリーマンって感じがする。心と体が一致していなさそうなかんじ。俺もいつかこんなふうになってしまうんだろうか? 「別れた彼女との思い出とかっすか?」  カツを半分ほど食べた所でそう聞いてみると、残りの白い山が早くも三分の一くらいになっていた高遠さんが一瞬だけ口の動きを止めた。 「……ま、そんなとこだな」 「え、当たりっすか? 高遠さん、独身貫くって言ってましたよね? 付き合ったことあったんですか!?」 「あるに決まってんだろ。昔はそりゃもうお盛んだったぜ俺は」  ちょっと顔を作っていうもんだから、俺は思わず体を引く。 「うわあ、おっさんぽい」 「うるせえ、早く食え」  言いながら、高遠さんは福神漬の皿を取り上げてごはんの上に散らした。福神漬は茶色というか赤というか、不思議な色をしている。俺はにおいがだめで食べれない。  それに加えて、小振りのらっきょうを皿に一つ。ブレスケアとかしないとだめなんじゃないの、あれ。 「……そいつ、大学の時の同期でな。サークルが一緒だったんだよ」 「美人っすか?」 「ん、まあ。綺麗な顔してたかな」  思い出すことにエネルギーがいっているのか、高遠さんのスプーン運びがゆっくりになった。福神漬がたっぷり乗ったごはんが口の中に消えてゆく。  高遠さんは考え込むようにテーブルの隅のほうに視線がふらついていて、今まで見たことがない表情だった。俺の失敗を怒る時とも、飲み会で沢山飲んではしゃいでいる時とも、朝のちょっと眠そうな時とも違う顔。思えば高遠さんは笑っている顔が多いけど、案外冷たい顔立ちなんじゃないだろうか。 「高遠さんもイケメンだし、そのサークルって学校で有名だったんじゃないですか?」 「イケメンって、お前に言われると変な感じだなあ」  と、けらけら笑う。いつもの顔だ。けど、なんていうか、なんでそう思ったのかはわからないけど、今の高遠さんは心ここにあらずって感じだった。 「園芸サークルに入ってたんだよ、俺」 「すっげえ意外っす」 「そのサークルに入ったのは学校のミスに選ばれた先輩がいるからって理由だったよ。学外ボランティアもやってたから就職に有利っぽいってのもあったけど。しょーもねえよな」 「大学生なんてそんなもんじゃないっすか? 美人とお近づきになりたいのは当然だし、就活のためにサークル選ぶのもありでしょ」 「……お前、アホなのに時々ふつーのこと言うよなあ」 「言っときますけど俺は喧嘩できませんよ。口も体も高遠さんには負けますよ」 「ああ、それは疑ってない」  高遠さんは俺を見て目を細くして、うんうんと頷いた。前、俺が転んで印刷したばかりの書類をぶちまけたのを見ていた時と同じ目だ。  なんか俺、ばかにされてんなって思う。言わないけどちょっといらっとした。 「……で。そのサフランライスがなんなんすか?」  そう尋ねると、ちょっと休憩とでも言うように、高遠さんは食べかけのまま皿にスプーンを置いた。それから水のグラスを持つ。汗をかいてて、触ると手が濡れそうだ。実際、高遠さんの小指の下から、テーブルに滴が伝った。 「お前さ、クロッカスって花わかる?」 「名前くらいは聞いたことあります」 「クロッカスってサフランの仲間なんだよ。早咲きなのがクロッカスで、秋に咲いたのがスパイスとかに使われるサフラン。知ってた?」 「知らないっす。で?」 「……付き合ってた奴はクロッカスが好きで。そのこと教えてもらってから、サフランライスがある店ばっか探して、よく連れてってたんだよな」 「サフランライスってカレー以外になんかありましたっけ」 「パエリアとか、ピラフとかだな。ま、たいていはお前も知ってたみたいにカレーが多いよ」 「へえ。で?」 「……ほんっと生意気だな、お前は」 「今、俺なんか言いました?」 「いいけどさ、もう」  グラスが空になっていて、俺は位置的に自分のほうに近かったピッチャーを持ち上げた。高遠さんは「さんきゅ」と俺が注ぐ水をじっと見ていた。 「就職して、職場が近いから一緒に住んでたんだ。そいつ、家のベランダでクロッカスだけ育ててたんだよ。虫キライとか言いながら、水やりだけは楽しそうにしててさ。土が水を吸う音がする、とかよく言ってた」 「……音? しますっけ?」 「だよな、俺もわかんなかった。その度によく怒られてたんだけど」  そう言う声音も目元も柔らかかった。高遠さんはほんとにその人のことが好きだったんだろうなって思った。同僚のおばちゃんとかが見たら悶えそうな顔だ。 「その時にあいつが歌ってた鼻歌、まだ覚えてんだよなあ……」  独り言みたいな、昼時のうるさい店の中では消えてしまいそうな声だった。窓際に座ったせいで高遠さんの左手に光がかかる。指輪は当然ながらない。 「なんで別れちゃったんすか?」 「……」  返事をせずに、高遠さんは残ったカレーをかきこんで、俺が入れた水を飲みほした。呑みこむのと同じリズムで男らしく喉が動く。 「トイレいってくる。俺が戻ってくるまでに食ってなかったらここはお前が払えよ」 「え! うんこしてきてください、うんこ!」 「声がでかいよ馬鹿」  立ちあがり際に頭をぐりぐりと押さえつけられた。でかい手のひらが、冷えたグラスを持っていたせいで濡れていた。「冷たッ」と悲鳴を上げると、子どもみたいに笑う声が頭上でする。  ――いらっしゃいませ、何名様でいらっしゃいますか。  ――ご注文を繰り返します。  ――昨日のドラマがさ。  ――あ、ごはん少なめで。  人の声がそこかしこから聞こえるその店の中、冷房の稼働音も響くそこで、ちょっと切ない低い囁きの鼻唄が耳に届いた気がした。

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