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プロローグ
いつからだろう、花の匂いが気にならなくなったのは。
失われかけた視界が再び光を得た時、煌夜 の見る世界はそれまでと大きく変わっていた。原因不明の高熱に侵された2002年3月1日――もう十六年も前のことだが、煌夜は確かにあの夜、朦朧とした意識の中で何者かの声を聞いた。
「世界は、新たな色を得る」。
はっきりとは分からないが、そんなことを言っていた。だけど四〇度を超える高熱の中でそれを聞いた煌夜に考える余裕などなく、結局、その時は夢ということにしておいたのだ。
僅かに残った冬の冷たさも温かな陽射しに覆われて、庭に薄桃色の桜が咲いた頃、ようやく煌夜はベッドから起き上がれるまでになっていた。久し振りに見る自分の部屋、ベランダから見える景色、何もかもが以前と変わらずそこにあった。
煌夜は軽くなった体に外の空気をあてようと、まだ両親が眠っている午前六時、ベランダへ続くガラス戸を開けて裸足のまま外へ一歩踏み出した。美しい春の朝。見下ろせば庭には桜が咲いている。
何気ない日常に戻って来られた。そう思った煌夜はもう一度桜の木を見下ろし、胸いっぱいに花の香りを吸い込んだ。
そして気付いた。
何気ない日常に加わっていた「新たな色」に。
桜の木の下、見知らぬ女が蹲ってこちらを見上げていたことに――。
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