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悲しくなる前に

 たしかに分かっていたはずだった。  けれどこれまで生きてきて、こんなに空が広く青く見えたことはなかったのだ。 『迎えにきて。それでそのまま、俺の家で飲もう。』  その日、駅まで車で迎えにいくと、先輩は遠慮なく助手席に滑り込んできた。  悪いなわざわざ、と言いながら先輩は勝手に椅子の位置を変え、さっきコンビニで買ったであろう缶チューハイを飲んでいた。  ずうずうしいなぁと思いながらも、先輩の家に向かう。  ハンドルに置いた指先が震えていたのは、嬉しかったから。  運転しながら時計に目をやると、ちょうど0が三つならんだ。  先輩の誕生日が昨日になった。  先輩が持っている紙袋には、一輪の花と水色の紙で包装された箱が入っている。  形の整った自筆のメッセージカード付きで。 「キスとか、してみる?」  部屋で先輩は突然、そんな事を言った。  その表情は何もかも見透かしているぞ、と言わんばかりに余裕だった。  俺は考えるよりも先に「はい」と返事をした。  甘く蕩けて、何度も夢に見た瞬間。この一年ずっと。  俺の身体を荒々しくは扱わない先輩が、憎いと思った。  もっと酷くして、どうか嫌いにさせてください。 「あ……っ、……、」 「ここ? 痛くねぇ?」 「ん、だ、いじょぶ……です」  実は結構痛かったけど我慢した。  たしかに分かっていたのだ。  俺はこの人に近づいてはならない。  先輩の指の形、味、匂い、この奥の痛みを知らなかった体には二度と戻れない。  あぁ、けれど、この人の為ならばきっと俺はなんだって出来る。  今まで先輩に何か特別なことをされた訳では無いのに、ここまで思えてしまう自分が不思議だった。  俺たちのこんな関係はその日からずるずると続いた。  先輩を乗せてドライブ。お出かけ。ご飯。先輩の部屋でエッチ。  このままずっと黙っていれば、先輩に見放されることは無い。  けれど、先輩のことは大好きなのに、先輩といる自分のことはどんどん嫌いになっていく。  あぁ、それも不思議。  変わりたいようで、結局変わらない自分がいる。  変わらないのならば、先輩が俺の中に入る度に少しずつ体を抉られていって、この「俺」を表現している形が無くなってしまえばいいのに。 「おまえ、まだ先輩の愛人やってんの」と友人に呆れてため息を吐かれても気にしないようにしていたし、何より"疲れた”とは絶対口にしなかった。  口にすると負けな気がしたから。   俺は、別にいい。このままで全然大丈夫。  大丈夫。  大丈夫……。  ……。 「疲れた」  そう口にしたのは、俺が大学内で告白されたと何気なく先輩に言った日の夜、自宅で。  聞いた先輩は、驚くほど不機嫌になった。  そして「まさか付き合うわけないよな」とこっちを睨んできた。    彷徨っていた俺の心が、戻ってきた。  本当はずっとそうやって叫んでいたのに。  天秤に掛けた二人の想いはあまりにも違い過ぎたのに。   「疲れた……っ」  先輩と体を重ねるようになって、一年。 「疲れた……っ、疲れたよ……っ」  俺は何度もそう口にした。  今まで言わなかった分、飽きるまで言ってやろうと思っていたけど、飽きが来ることなんてなく。  俺はずっと、こうやって泣き崩れたかったのだ。  強く装っていないと、すぐにくずおれてしまうと分かっていたから。  自分で自分を抱きしめてあげた。この行為は好きな人にされてこなかったことだ。  不毛な恋愛をしていた時間は最高に無駄だったとすぐに悪態を吐けなかった理由は単なる強がりなのか、まだ分からなかった。  三年後、社会人になった俺にちゃんとした恋人ができた。 「浮気、すんなよ」  家を出る時、彼はいつもみたいにそう言って笑ってキスをする。  飲み会とかの度に口すっぱく言ってくる心配性の恋人は、大学生の頃に呆れてため息を吐かれた、かつての親友。  先輩に恋したのは無駄だったかのアンサーはまだ不鮮明だけど、この先もイエスは出ないと思う。  ただ分かることは一つ。  いま俺は、目の前のこの人のことも、この人の瞳に映っている俺自身のことも大好きだ。        fin*  

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