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第1話

 今年も残すところ一ヶ月と少し。寒いわけだ、と空を仰ぐ。冴え冴えとした、青白い月夜に星が揺れる。綺麗。そう、とても綺麗な夜だというのに、何故、俺はこんなことをしているのだろう。歩を進めるたびにがしゃがしゃと騒がしい、手に下げたビニール袋。ひとり酒をする為に大量の酒瓶をぶら下げて持って帰るのは、虚しくて馬鹿みたいだ。  こんなにも、綺麗な夜。月が自分の内の奥の奥まで照らして、醜い部分まで暴いていくようで、異物として取り残されたようで。堪らず、目線を地に落とした。目を背けてもなお、月は望まぬスポットライトを当ててくる。こぼれた溜息の白さは、まるで口から魂が抜けていったかのように思えてならなかった。  *  道化役者の気分で辿り着いたアパートの自室に灯りなどないのは当たり前で、きっと、部屋の中は外よりもシンと寒いのだろう。ポケットを探り取り出した鍵もひやりとして、冷えた指の先は上手く鍵穴を捉えられない。  もどかしさ。情けなさ。遣る瀬なさ。目頭が痛い。どうして―― 「寒いのかい?」 指先に添えられたのは、モスグリーンのミトン。ミトンのくせにそれは器用に動いて、ドアはあっさりと解錠される。 「おかえり、ツバキ」 ――どうして、どうして。 「お前はヒーローか何かかよ……バカ」  コテンと首を傾げるミトンのヒーロー。どうして、なんて、もう、どうでもよくなった。 「……ただいま、ユメ」 ヒーローこと自称ねこさんは、挨拶を返すと眼を細めてわらったのだった。  *  部屋へ入るなり、勝手知ったるなんとやらで、ねこさん――ユメはするりと暖かくもない炬燵に潜り込んだ。コートを脱ぐ気も、ミトンを外す気もないらしく、体を丸めて目を閉じている。習慣化しつつあるこの状態に少々頭痛を覚えるが、自分も暖をとるべく炬燵のスイッチを入れた。ユメに続く前に、キッチンスペースで酒を注ぐグラスを用意する。そこへ冷凍庫から出した氷を適当に放り、一瞬だけ迷って、今夜はロックで飲もうと決めた。  グラスはひとつ。ユメが転がる方を見遣って、そして考えて、コンロ下の戸棚から缶詰を取る。かつおと書かれた缶詰には、白くて長い毛足の猫の写真。見紛うことなく猫缶と呼ばれるそれを、ユメは好んで食べる。他の、人間の普通である料理の類に対しては拒食気味で、俺は仕方なくユメの偏食を容認していた。 「お前、また痩せただろ」  缶詰の封を切り、茶碗へと中身を移していく。先ほどまじまじと見たユメの顔は、以前よりシャープになったよう思えてならず、問い掛けた声の硬さに自身戸惑うほどだった。心配の二文字を、必死で頭の隅へ追いやる。 「少し、忙しかったんだ」  ひとまず先に、ユメの陣取る前へ茶碗を置く。賢しい猫は、それだけ言うと緩慢に起き上がり、くあと伸びをしてから碗と向き合った。スプーンを押し付け、食器が立てるかつかつという音を確認してから、ほんの少し氷の溶けたグラスへウィスキーを注ぐ。とくとくと流れる琥珀色と、氷が混ざり合って生まれる、何とも言えないあのゆらぎ。ゆらゆら、ゆらゆら、一緒に揺れる気持ちごと液体を飲み干す。痺れて熱くなる咽喉から、非現実感が体を満たしていく。 「大丈夫」  かつん、とスプーンが碗を叩く音。目の前の光景を遠くに眺めながら、琥珀色をグラスへとまた流し、ゆらめきに視線を移して再び飲み干す。咽喉が痺れて、器官が熱くなって、胃が煮えるようで、目頭が灼けるようで、体は火照っていくのに、何故だか感じるのは寒気のような何かで、溜息が出る。魂が、抜けていくように。 「そばにいるよ」  猫缶食べながら真面目くさるなよ、なんて憎まれ口を叩くつもりだった。けれど、痺れた咽喉は詰まって、くつと震えたきりで、離せないでいるグラスにぽつりと涙が落ちた。その雫まで飲み干せるほどには、まだ俺は彼をしらない。  * 「ご馳走様」  ぼやける視界の隅に、食器を持って立ち上がるユメの姿が映る。几帳面にも、自分で使った食器は自分で洗うユメのこの部分は、あまり猫らしくはないと思ったものだった。流し台から聞こえる、流水音。今は自分ひとりきりではないのだ、などと感じる、他の誰かの生活音。それに、耳を澄ます。スポンジが碗を擦る音。僅かに泡が立てる、ぐしゅりとくぐもった音。また暫くの流水音に続いて、水切りかごへと食器を置いたのだろう、かしゃんと音がした。流水音が止む。ユメの静かな足音は、どうやら洗面所へと向かったようだった。 「……イチゴ味、か」  食事を終えたユメは、食器を洗ったあとすぐに歯を磨く。ミントの刺激が苦手だとかで、子ども用の、イチゴ味の歯磨き粉をねだられた時は、正直少々面食らった。しかし、自称ねこさんがこんなにも規則正しいのに、俺といったら。  * 「飲み過ぎはいけないよ、ツバキ」  はっとする。考えにハマってしまうのは俺の悪い癖で、いつの間にか戻ってきたユメにグラスを取り上げられたと気付くのに数秒を要した。目の前には、考えを読ませないといつも感じるユメの顔。 「……ユメ、顔が近い」  距離を取ろうと後ずされば、ぐらり上体が傾いで床へと倒れ込んでしまった。酔っている所為だけではない。ユメが、こちらへと体重を掛けて俺のことを組み敷いたのだ。甘い匂いを鼻が捉えたと思えば、唇が塞がれる。とろりとした舌が口内をなぞり、ウィスキーの苦味が、安っぽいイチゴ味に侵されていく。されるがままでいたのが気に入らないのか、ユメの舌が俺の舌を絡め取り、しつこいくらいに舐めあげて、くちづけは段々と深くなっていく。貪るようなそれから開放されたかと思えば、どちらのものともつかない混ざり合った唾液が、つぅと糸を引いた。 「餌は貰ったけれど、ミルクはまだ貰っていないよ」  コテンと首を傾げてみせるユメ。言わんとすることは、分かりすぎるほどわかる。酒気で火照った顔が更に熱くなる感覚を無視して、のろりとソファベッドを指し示すと、ユメは満足そうにわらってみせた。  * 「ん……っ、ぁ、あっ」  湿った音に混ざる、自身の嬌声。ベッドへと移動した途端、服はすべて剥ぎ取られていた。俺の下腹部に顔を埋めるユメは、自ら服を脱ぎ捨て床へと放り、顎を上下させている。さらりとした髪が腿に触るくすぐったさと、背筋が震えるような快楽の波。ミルクを欲する時のユメは、こちらのことはお構いなしに絶頂へと追い立ててくる。何度か重ねただけの身体は、既に弱い部分を知り尽くされていた。 「ゆ、め。も、少し……ゆっくり」  顔を上げたユメは、代わりとばかりにそこへ手を沿えてゆるゆるとした愛撫を続ける。途切れることのない快感に、息はすっかり上がっていた。 「ツバキは、最後にセックスしたの、いつ?」  掛かる呼気にぞくりとする。もどかしいのか、ユメは手を動かす合間にも舌を出し、時折ぺろりと勃ち上がった俺のものを舐める。最後。最後にした、セックスは。 「前に、お前としたきり、だからっ」  いつだったかは忘れた。ただ、相手はユメだった。微かな笑い声の後、恍惚としたような声音で、ユメは囁く。 「嬉しいよ……ツバキ」  何がだ、と訊き返す暇もなく、ユメは性急な愛撫を再開する。先ほどとは違う、もっと熱っぽく、もっと執拗に、再び絶頂へと追い立てる。唇で。舌で。指先で。脚ががくがくするような、頭の中が真っ白になるような、甘い責め苦。 「ひ、ぁ……ユメ、そろそろっ」 「いいよ。頂戴」 刹那の確認を交わして間もなく、びくりと身体が跳ね吐き出されるスペルマを、ユメは口で受け止める。ひくひくと絞り出そうとするよう動くそこは、吸い上げる唇によって望むままにされた。  息つく間も与えられず、やんわりとした動きではあるが四つん這いになるよう促され震える膝を立てる。菊門にぬるりとした熱が触れ、焦らすようにそこを擦る。ユメの手がベッドサイドを探るのを気配だけで感じ、熱に冷たさが絡みついた。 「んん……っ」  焦らす熱が触れるのはそのままに、冷たい滑りを帯びた指先が潜り込んでくる。くちゅくちゅと耳を塞ぎたくなるような音を響かせ、一本、二本と増えるそれにかき回すようにして慣らされていく。 「……ふぁっ」  ゆっくりと引き抜かれた指に息が漏れる。滑るそこへ入ってくるユメの質量に、背筋が弓なりに反った。確かめるようゆるゆると動かされれば、焦れったさが募っていく。 「ゆ、め」 「なんだい?」 ふふ、と笑い混じりに問われ、沸騰してしまうかのような羞恥が頭の中を染める。 「なんだい、ツバキ」 「焦らす、な」  やっとの思いで告げた瞬間に腰を引き寄せられ、猛りが奥を突いた。 「っぁああ……ッ」  自分のものではないような、一段高い声が上がる。ぎりぎりまで抜かれ、また奥まで入り込むストローク。段々と感覚が狭まり、肌がぶつかり合う乾いた音が響く。自身の嬌声。ユメの、喘ぎ声混ざりの荒い息遣い。 「ふふ、かわいい、ね。ツバキ。美味しい?」  美味しいか、と問われるのは何度目だったか。この猫は快感を美味と置き換えているのだとわかったのは、ごくごく最近のことで。犯している側のくせに、まるで自分が犯されているかのように上げる喘ぎが、何故か嬉しくて。欲情が増していくのが、止められなくて。 「おい、しい……っ、ゆめ、もっ、と」 「んっ、もっと……? もっと、……ぁっ、もっと、僕がほしい?」  もう言葉にならない。言葉にならない気持ちを、こくこくと首肯で伝える。すると、腰を掴み支えていたユメの腕が片方、また俺の下腹部に伸びた。先走りの滴るそこを、再び愛撫される。前から、後ろから。暴力のように襲い来る快感に、ただ揺さぶられて声を上げる。  真っ白になってしまう。確かなのは、猫の姿勢であいされているということ。それが何だか切なくて、涙が溢れてしまうということ。 (擦り寄ってくる猫をいとおしむ気持ち。ただ果たして、猫はどちらのほう?)

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