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 緊張が走る。  ガヤガヤとうるさかった食堂内の喧騒が、僕の耳には少しも入らなくなった。  心臓の鼓動だけがやかましくて、眼鏡を上げるフリをしながら必死で動悸と戦う。  そんな僕に、突然七海さんが話し掛けてきた。 「………食べないの」 「……………っっ」 「無視?」 「ち、違っ……」  七海さんは、あの日と同じ魅惑の瞳で僕を見た。  咄嗟に視線を逸らしたけれど、僕の狼狽は七海さんには嫌というほど伝わっていると思う。  ごめんなさい七海さん、二人きりになったから無理に話し掛けてくれてるんだよね。  細やかな気が利く七海さんの優しさを、僕はもう知ってる。  大丈夫、僕は居ないと思っていい、大丈夫だから、無理して話し掛けなくていいよ。  僕はドキドキしながら割り箸を割って、一度止まる。  食欲なんて皆無だったけれど、また七海さんに気を遣わせたらいけないと思い、初めて食べる冷やしうどんに手を付けた。 「それ冷やしうどんだろ。 その温泉たまご割って、刻み海苔かけて食べるんだよ」 「……温泉たまご? 刻み海苔…?」 「そう、これ割ってー、……海苔をー、パラパラって…」 「あ……ありがとうございます」  そのままの状態で手を付けようとした僕の隣から腕が伸びてきて、七海さんが手早く写真の通りの冷やしうどんにしてくれた。  作業中、七海さんの体が時折僕に触れて、その度にごめんなさいって心の中で謝った。  この食堂へ来たのも片手で足りるほどで、表で見たメニューのほとんどを僕は食べた事がない。  無知な僕をどう捉えたのか、七海さんはジッと見詰めてくる。  今はその視線が、……ツラい。 「………どういたしまして」 「………………」  手を合わせて、七海さんが仕上げてくれたうどんを食べてみると驚くほど美味しかった。  罪悪感でいっぱいな胸中を今だけは封印して、七海さんの優しさを存分に堪能してみる。  三分の一を食べた辺りで、七海さんに袖口をクイと引っ張られた。  腕がぶつかってしまったのかと七海さんの方を見ると、ゴソゴソとポケットを探って小銭を差し出してきた。 「……あのさ……返そうと思って」 「……何を……?」 「これだよ。 こないだいっぱいくれただろ。 こんなに貰えないから」 「あ……いや、いいんです。 …これは七海さんにあげたので…」 「いや貰えないって」 「いいんです。 これで買えるだけ飲み物いっぱい飲んでください」 「……持ったままだと俺がスッキリしないんだけど」 「じゃあどなたかに奢ってあげてください。 ……七海さんが無理して使う事はないです」 「…………分かった」  頑として僕が受け取らなかったから、七海さんは渋々とポケットにそれを戻した。  あの時のほんの数秒の出来事を覚えていてくれた事が、嬉しかった。  返そうとしていた、という事はこの一ヶ月の間、七海さんの心のどこかに僕が居た…?なんてポジティブに考えてしまいそうになって、急いで打ち消す。  そうだ、七海さんはそういう子だった。  見た目に反して真面目で、純粋で、優しい人。  ───そんな七海さんを、僕は無理やり………。 「やっぱこの時間に来るのはダメだな! 受け取るだけで何時間かかるんだって話だよ!」  暗闇に堕ちていきそうだったところに、山本さんが両手にトレイを持って怒り心頭で戻ってきた。  占部さんも続いて戻ってきたけれど、不満そうに顔が歪んでいる。  学生でごった返した食堂は、空腹でイライラした生徒も多いらしい。  お礼を言いながら立ち上がった七海さんが、山本さんからトレイを受け取った。 …オムライスだ。 「山本、いつからそんな気が短くなったんだよ」 「今日だな、今日。 占部も水取りに行くだけで何回人と接触したよ?」 「十人は居たな」 「血の気が多いって嫌だな」 「まったくだ」  二人が戻ってきてくれた事で、このテーブルのなんとも言えない重たい空気が消し飛んだ。  微かに笑顔を見せる七海さんもホッとしているように見えて、それを横目に見た僕は多過ぎるうどんを急いで平らげた。  占部さんが持ってきてくれた水も一気に飲み干して、トレイと鞄を持って立ち上がる。 「これ、あそこに返したらいいの?」 「和彦もう食ったのか? そうだけど、また戻ってくんなら鞄は置いとけよ」 「ちょっと調べものしなきゃいけないから、先に行くよ。 ごめんね」 「えっ…おい、和彦…!」  占部さんの呼び止めに、僕は振り返らなかった。  きっと、七海さんも僕の背中を見ている。  ……居られないよ。  謝罪も意味を成さないほど、僕は最低な事をしたんだから。  僕は密やかに七海さんを想い、苦しんだらいい。  それほどの悪行をしてしまったんだから。  僕が居たら七海さんはお昼ごはんを美味しく食べられない。  居ない方がいい、僕なんか。  ……会社のために生きていくって誓ったでしょ、佐倉和彦。  七海さんと目が合うかもしれない事が分かっていて、振り向く事なんか出来るはずがなかった。

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