58 / 200
3
戸締まりを確認して(もちろん抱っこのまま)、クーラーのスイッチを切って玄関の戸に手を掛けようとした時だった。
それまで大人しく部屋の中を指差すだけだった七海さんが、ボソッと呟いた。
「…ほんとに人間不信なのか…?」
「え?」
僕に言ったわけじゃなく、独り言だったみたいだけどしっかり聞こえてしまった。
どこからそんな情報を仕入れたのかは分からないけれど、大方の予想はつく。
七海さんは山本さん伝いに占部さんとも顔見知りになったみたいだから、きっと僕についての何かを聞いたんだ。
「い、いや、…なんでも…」
「若干ですよ、若干」
「……て事はほんとに? ……なんで?」
「それはあまり話したくないです。 七海さんが自分の気持ちに気付いたら、その時にお話します」
「自分の気持ちって何だよ! ムカつくって言ってるだろ!」
「…………………」
おとなしいかと思えば途端に小さな牙を剥く、純粋な七海さんが可愛くてしょうがない。
恋を知らない七海さんに、さらりと卑怯な交換条件を出した事に内心申し訳無さを覚えた。
───それにしても、僕が人間不信だなんて大袈裟な。
ちょっと他人が苦手で距離置いちゃうってだけなのに。
学生時代の頃の事は思い出したくない。
愛想笑いと嘘とお世辞だらけで、僕自身を少しも見てくれようとしなかった同級生達の事なんて。
占部さんと噂の確認をするというミッションがあったのは確かだけど、七海さんにはほぼ自発的に話し掛けてしまったから、僕が人間不信だなんてとても信じられないんだろうな。
僕を見詰めてくる七海さんが、それを聞いてどう思ったのか少しだけ気になった。
でも…僕がそうなってしまった原因を話してみたくても、恵まれてるが故の贅沢な悩みだと思われてしまいそうで躊躇した。
七海さんにも、僕にも、人それぞれ悩みはある。
それは自分にとっては大事でも、他人にはそれほど響かないどうでもいい事だったりするから…誰よりも僕を理解してほしい七海さんに「なんだ、そんな事?」と軽くあしらわれたら立ち直れる自信がない。
僕が口を噤んだ事で、七海さんはその意思を感じ取ってくれたみたいだった。
プンプンしていた尖った唇から、小さな溜め息が漏れる。
「……とりあえず今は教えてくんないって事な」
「ごめんなさい。 話したくないというより、話す勇気がないんです。 七海さんとやっとこうしてお話出来ているのに、また…」
「分かったってば。 言いたくないなら言わなくていい」
それより早く下ろして、と言う七海さんが僕にはとても格好良く見えた。
僕の躊躇いをあっさりと許容してくれて嬉しい。
きっと七海さんは、交換条件の意味さえ分かっていない。
この一ヶ月で溜まった、僕にぶつけたかった怒りがたっぷりと心に秘められているはずなのに、対峙した僕には嬉しい言葉しか言ってくれない。
もっと罵ってくれていいのに。
僕の心は晴れても、七海さんの中にある沸々としたものは吐き出さないと病気になっちゃうよ。
意味は違うかもしれないけれど、ずっと僕を思って悩んでいてくれた事に喜びを感じてしまっている僕は、七海さんからの怒りを受け止めなければ気が済まない。
「ねぇ七海さん、そのまま僕の事だけを考えていてください。 僕にムカつくのは当然です。 気が済むまで怒りをぶつけてください」
「そ、そう言われるとぶつけにくいよ…」
「……七海さんは優しいですね。 僕が七海さんにしてしまった事は、思いっきりアソコを蹴り上げられてもおかしくないほどなのに」
「そんな事するか! 蹴り上げて使いものにならなくなったら困るだろ!」
「……誰が困るんですか? 七海さん?」
「何で俺が困るんだ! 困るのは和彦!」
「あぁ…セックス出来なくなるから?」
「そうだよ! 男たるもの不能はショック…って、俺何言わされてるんだっ…やめろよ、誘導尋問みたいなの!」
───可愛い。 耳まで赤くなってる。
七海さんは今、本当に、戸惑いと苛立ちの真ん中にいるんだ。
僕に抱っこされていても嫌がらないし、怒りはぶつけられないって言う。
それがどういう意味を成しているのか、分からないって言う。
会話もしたくない、顔も見たくない、むしろ警察沙汰にしてやるって怒鳴られてもおかしくないんだよ。 僕はそれだけの事をしたんだよ。
それなのに、───可愛過ぎない?
「……一刻も早く二度目をしたいので、早めに気付いて下さいね。 僕はもう、七海さんから離れません。 遠慮なく七海さんを追い掛けます。 今後はどれだけ嫌がられても、追い掛け続けます」
「怖っ! そういうとこがちょっと変だって言ってんだよ! てか、に、に、二度目って……」
「七海さんは知ってるでしょ。 僕は好きな人へはこうなるらしいので、覚悟してください。 僕が不能じゃないうちに二度目をしましょう」
「や、やだよ、怖いよ。 何か分かんないけど怖い!」
七海さんはジタバタしながら常套句を振りかざす。
僕が変だとしたら、七海さんは優し過ぎるよ。
もっともっと嫌がって、僕に罪の意識を忘れさせないでいてほしいのに、大事なところで拒否してくれない。
「本当に嫌だったら殴ってでも僕の腕から逃げ出して下さい。 ……はい、どうぞ」
「な、殴れるわけないだろ!」
「どうしてですか。 僕の事が嫌なんでしょう? 怖いんでしょう? 抱き締められて嫌悪感が走るならば逃げないと」
「……~~っ! 逃げはしない! 今逃げたら睡眠不足が解消されない!」
「ふふっ……広いベッドで「思う存分」眠りましょうね」
笑顔を見せると、大きな瞳が驚愕し、僕を射抜いた。
七海さんが真っ赤な顔をして無言で鍵を渡してくる。
それを手に取り玄関を施錠し何気なく空を見上げると、暗闇だった自身の心に光が射したと同様に、都会らしく少ししかない星の瞬きが僕にはとても輝いて見えた。
ともだちにシェアしよう!