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いつもだったら「仕事があるから」と断れるのに、七海さんとの初出勤に合わせて僕の勤務表をいじってしまったから、ちょうど今週いっぱいはお休みなんだよね……。
飲みの場が好きじゃない僕だけれど、七海さんが目をキラキラさせて良い返事を期待しているから、気は進まないながらも仕方なく頷いた。
「決まりな」と席を立つ九条さんと、例の居酒屋で午後六時に待ち合わせをしたはいいものの、七海さんにとっては良い気はしないんじゃないのかと不安だ。
「やったぁ。 飲むの久々だなー」
「……七海さん、……良かったんですか?」
「何が?」
僕の真意が分からない七海さんは、コーヒーを飲み干して首を傾げた。
色々な思いが交錯した、二人の出会いの場であるあの居酒屋。
良い事も悪い事も振り返られるようになるには、まだ早過ぎると僕でさえ思う。
「あの居酒屋は、……」
「あぁ……。 いいよ、全然。 ……和彦の言いたい事分かった」
「どうしてわざわざあそこなんでしょう。 九条さんは知らないのかな」
「全部知ってる。 あえてじゃないの? さっきの九条君、なんか意地悪だったし……」
執拗な追及を思い出したのか、不満そうに唇を尖らせて背凭れに体を預けて呟いている。
さっきの光景を思い出すとまた笑いが込み上げてくるから、努めてそれを考えないように七海さんの瞳を見た。
「……そうだとしたら、あの事を確かめに行くのかもしれませんね」
「あの事?」
「ほら、七海さんが泥酔したウーロンハイ」
「あーっ! 俺もそれは気になるけど、もう今さらじゃない? 体は別に何ともないんだし、一ヶ月以上前の事を店側に確認しても店員さんも覚えてないと思うよ」
「七海さんもあの追及を体感して分かったと思いますが、九条さんは確実に問い詰めるでしょうね。 防犯カメラの開示は不可能にしても、シフト表の閲覧や店員の自覚の有無などを問い質しそうです」
僕の言葉に「確かに…」と声を漏らして遠くを見る七海さんは、よほどあの追及が嫌だったのか顔をくしゃっと歪めた。
……いけない。 そんな反応をされると、僕も「ネグリジェ」発言を思い出してしまう。
「何笑ってんの」
「……え、あ……いえ、すみません。 狼狽えていたさっきの七海さんに萌えていました」
「萌え……? てか和彦のせいだろっ。 これ着てる理由考えてなかったから焦ったじゃん!」
「せっかく「寒い」ってワードを出していたんですから、「八月に入って講義室の中のクーラーが効きすぎていて寒い」など具体的に言えば良かったんですよ」
文系で普段は冷静な今の七海さんならスラスラと言い訳を考えられたのかもしれないけれど、咄嗟の事に頭が回らなかったんだ。
それを分かってて笑ってしまう僕も、九条さんと同類だと思われても仕方がない。
でも……想像を超えた狼狽を見せた七海さんがあまりに可愛くて、ついつい傍観してしまった。
講義で離れ離れになる前に、あたふたする七海さんをもう一度見たくて……意地悪な僕は仕掛ける。
「なるほどー! いや、でもあの場では咄嗟に思い付かないって。 九条君の目がさぁ、何ていうか……怖かった」
「目が怖かったんですか、そうですか……。 ねぇ七海さん。 僕の前で僕じゃない人と見詰め合って、どういうつもりなんですか?」
「えっ!? あれはしょうがな……」
「しょうがない? しょうがないんですか? 僕を除け者にして楽しくお喋りして見詰め合うなんて……寂しいな……七海さんは僕の恋人なのに……ツラかったな……」
「え、え、ちょっ……こんなとこでそんな……っ」
「はぁ……。 本当に、僕の小悪魔ちゃんは困った人だ……」
「和彦っ、いい加減にしろ……!」
何故か立ったり座ったりを繰り返す七海さんの顔が、耳まで真っ赤だ。
周囲の視線を釘付けにするその挙動に、可愛いと思うよりも、僕が仕掛けておきながら見るに忍びないと思ってしまった。
……抱き締めてよしよししたいと、思ってしまった。
公衆の面前では絶対に駄目だと分かっているから、僕は七海さんが飲み干したカップを持って立ち上がる。
「七海さん、行きましょう」
「……えっ? もう行くの!? 相変わらず和彦は何考えてんのか分かんないな!」
文句を言いながらも、慌てて付いて来る七海さんの背中にさり気なく手を回して「こっち」と誘導した先は、朝は人があまり立ち入らない小多目的ホール。
使われる事の少ないそこは、内側から鍵も掛けられるしこうした密会にはもってこいだ。
「この教室初めて入ったな……って、こら、和彦!」
僕が廊下を確認して鍵を締めている間、七海さんはリュックを抱っこしてキョロキョロしていた。
大事そうに抱かれたそのリュックにすら嫉妬して優しく奪うと、今の今まで我慢していた欲求を満たすべく力強く抱き締めた。
「ごめんなさい、七海さん。 意地悪しちゃった」
「はぁ? いつ意地悪したんだよ。 か、和彦……っ、やめろ、ここどこだか分かってるっ?」
七海さん、さっきの僕の発言を意地悪だと思っていなかったんだ……それであんなに動揺していたの……?
本気で僕がしょんぼりしていると……?
───可愛い……なんて可愛い人なの。
もう、一分一秒だって離れていたくない。
歳の差が、出会うのが遅かった悲劇が、こんなにも恨めしい。
「分かっています。 鍵は閉めたので誰も入って来ません。 ……七海さん……もうすぐお別れだなんて寂しいです……寂しい……」
「お別れって講義行くだけじゃん……」
「だって今から九十分も会えないんですよ!? 僕はどうしたらいいんですか!」
「どうもしないよ! 九十分後にまた会える、って思っといたらいいだろ!」
ハッ……! なるほど……!
腕の中から見上げてくる七海さんの正論に、僕の心がドキドキした。
弾む心を抑えられなくて、隙だらけな唇にちゅ、とキスをすると、恥ずかしそうに顔を背ける七海さんを力いっぱい抱き締める。
「……目から鱗です。 七海さん、……大好きです」
「…………っ」
朝陽差し込む多目的ホールに居た僕らは、賑やかになってきた外を気にしながらもう一度照れくさい軽めのキスをした。
───講義なんて休んでしまおうか。
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