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七海さんが僕に言ってくれた、「好き」。
その濡れた瞳を知ってしまったから僕は……今さら離してあげられないよ、七海さん。
僕の何が七海さんを傷付けてしまったのか、苦しいって言っていたのは大丈夫なのか。 どちらにしても心配で心配で、アプリを起動させたと同時に共有リクエストを送る。
このアプリは、七海さんのスマホの電源が切られていてもリクエストに一定時間内に応答が無ければ、それ以降、位置情報の共有が開始される。
七海さんは、後藤さんの読み通り自宅には居なかった。
本社から車で一時間はかかる七海さんの地元……の、ビジネスホテルにピンが立っている。
まったくの予想外だった七海さんの居場所は、このアプリが無ければ見つけきれなかったよ。
地元に戻っている事から拒絶が本物だと示している事に愕然とし、僕の心はソワソワと狼狽した。
何かが七海さんを僕から遠ざけようとしているのなら、僕を拒絶する理由があるのなら、何万回でも謝るから許してほしい。
そばに居てほしい。
苦しい、なんて尋常じゃないよ。
車中では気持ちばかりが急いで、けれどどうにも出来ないもどかしさで頭がおかしくなりそうだった。
画面上に立つ七海さんの居場所を知らせるピンマークが移動しない事を注視しているしか出来ないなんて、僕は非力だ。
「ここ……で、合っていますか?」
「みたいです。 行ってきます」
後藤さんには直帰していいと申し伝えて、走るほどでもない距離を全速力で駆けた。
動く事のないピンマークはそこに留まり続けていて、真夏の深夜の温い風が僕の心をよりザワつかせる。
会いたい。
会いたい。
七海さん、会いたいよ。
僕を拒絶しないで。
好きだと言ってくれた言葉は、訂正させてあげられないんだから。
離れるなんて許してあげないんだから。
僕を捕まえた魔性は死ぬまで効力を発揮するんだよ。
ほんの何時間か前まで、大好きの視線を向けてくれていたのに……一体何があったの。
「芝浦七海の従兄弟ですが」
急用を装い、親戚のフリをした僕の鬼気迫る雰囲気に圧されたフロントマンからあっさりと部屋番号を聞き出すと、一目散にそこへ向かう。
……三○五。 聞き覚えのある部屋番号に苦笑を漏らしながら、静かな戸をノックする。
「七海さん、開けてください!」
正しくは、ドンドンドンッ、と大袈裟に殴った。
複数回それを続けると、扉の向こうから七海さんの声がして僕の拳に力が入る。
七海さんが居る。
今一番会いたくて抱き合いたい人が、この中で僕を拒絶している。
「な、なんでここが分かったんだよっ? やだ、開けない」
「どうして……! 苦しいなら病院に行かないと! どこか悪いのかもしれません! なんで僕のそばに居ないんですか! 先に帰るなんて、ていうかこんなところまで来て何を考えているんですか!」
「ちょっ、あんま大声出すなよ。 周りに迷惑だろ!」
「開けてください! さもなくば大声出し続けますよ!」
戸を挟んだ口論に、いよいよ苦情が出てもおかしくない。
ビジネスホテルは壁が薄く、その上、間もなく日付が変わろうとする深夜では迷惑以外の何ものでもなかった。
きっと、この階で宿泊中のお客さんには僕らのやり取りが筒抜けだったはずだ。
……そんなもの知らないよ。
七海さんが僕の前から居なくなって、しかも先に帰るだなんて嘘を吐いた。
本当は僕の家にも、七海さんのお家にも居なかったじゃない。
すぐに見付からないところを選んで、僕から逃げようとしたじゃない。
七海さんのおかげで前を向く事が出来たのに、会社のため、自分のため、何より七海さんのために変わろうとしている僕を突然突き放すなんて……ひどいよ。
誰かに迷惑を掛けるなんて知らないもん……。 七海さんが僕から離れようとしたんだよ。
冷静で居られるはずない。
扉にしなだれかかっていると、じわ…と開けてくれた七海さんが顔を出す。
「……七海さん……っ」
会いたくてたまらなかったその人は、例の制服姿のまま僕を見上げてきた。
ただ、今の僕にそれを楽しむ余裕は無い。
「どうして」の思いが強くて、驚く七海さんの体を抱き締めてから扉と鍵を後ろ手に締めた。
「痛……っ、和彦、痛いってば」
「七海さん……」
「なんで? なんでここが分かったんだよ? ……なぁ、和彦っ」
───七海さんの声だ。 七海さんのにおいだ。
抱き締めて愛しい人の感触を確かめると、ようやく胸のつっかえが取れた気がする。
七海さんは、僕の事が嫌いになったわけじゃない。 見上げてきた可愛い視線に、「拒絶」を感じなかった。
他に何か理由があるんだ。
僕から逃げようとした事は、決して許せないけれど。
「病院、行きましょう」
「いや大丈夫だって。 どっか悪いわけじゃない」
「でも苦しいんでしょう? 心配です。 七海さんに何かあったら僕は生きていけない。 ほら、早く」
体調が悪くて不機嫌ならば、その原因を取り去らないと。
僕の事が嫌になったわけじゃないのなら、七海さんの不調以外に避ける理由はないよね。
「あ、いや、マジで違うんだってば! その苦しいじゃない!」
七海さんの体を抱き締めたまま、たった今閉めた鍵を開ける。
けれど七海さんは足を踏ん張り、僕のスーツにしがみついて離れなかった。
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