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プロローグ

 1992年、東京。  男は震える指で、公衆電話のダイヤルボタンを押した。  学生時代から何度も押し続けた馴染みのある番号は、手帳など見る必要もない程、明確に記憶している。 (あいつならきっと助けてくれる……っ)  地位や金、友人や家族もすべてを失い、頼る者の居なくなった男だったが、学生時代から社会人になってからの数年間、恋人として付き合っていたその男なら、きっと笑顔で受け入れてくれるに違いないと、藁にも縋る思いだった。    どんなに本気になっても、男同士では未来がない。結婚するから別れて欲しいとと切り捨てた相手に縋るなど、いくら不遜な男であったとしても、普段なら決して連絡を取ろうとはしなかったに違いない。  さすがに、男にもそれくらいの人並みの良心はあった。  しかし、もはやその男以外、男に手を差し伸べてくれる人間なんていない事を、男は分かっていたのだ。  ――もしもし? 「――っ」  しかし、懐かしいかつての恋人の名前を呼ぼうと口を開いたその時、背中に感じたのは強い衝撃と焼けるような痛みだった。 ――もしもし? 誰ですか?  刺されたのだと分かってはいたが、相当深くまで刺さっているのだろう。  既に息をする事さえ困難だ。 「……恵太、ごめん」  血の中に崩れ落ちるその瞬間、思い浮かべたのは幸せだったかつての記憶と、今までの行いへの懺悔。金なんてなくても、きっと二人ならもっと楽しく幸せに暮らせていたに違いない。  もうすべてが遅すぎたけれど。

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