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酒場にて、夜(2020.2.15)

 「濱野さん」  柔らかな声で濱野の名を口にしたお綺麗な顔をした男は、もう何本目かになる徳利を耳元で軽く振って、次どうします?とメニューをこちらに押して寄越した。この男はザルだ。こうして酒を飲むのは初めてだが、割合と早い時間から居酒屋を3件梯子して、小枝はどの店でも変わらぬペースで飲み続け、顔色一つ変わらない。濱野もどちらかと言えば酒は強い方だが、小枝に合わせて飲んでいたのではきりがない。第一、小枝の飲食費用は経費で落ちるとはいえ、濱野の感覚で言えば一晩のかかりにしては十分以上で、そういう意味でも、ともかくもう切り上げたいというのが本音だった。ちらりと腕時計を確認すると、時間は既に23時を回っていた。  「……そろそろ締めませんか」  「……あれ?もう酔っちゃいました?」  濱野の言葉に、小枝は瞬間きょとんとした顔を見せ、直後顎を引いてちょっと口許を歪めて笑って見せる。  「……酔ったと言うか……明日も働いてもらわにゃ困るので……」  「私は働きますよ。知っているでしょう?この程度じゃ潰れません」  まだ若いから寝なくても平気と肩を竦めて男は言い、一度は濱野の側に押しやったメニューをすすすと手元に引き寄せながら、というか、と続ける。  「……働いてほしいなら濱野さんが酔うところ見せてくださいよ、って。そういう話だったでしょ」  介抱ならいくらでもしますからと続ける小枝の視線は既に濱野にはなく、さらりとメニューに視線を走らせてすぐに店員を呼び、これを熱燗で4合と注文を済ませて、若い女の子が喜びそうな可愛らしい笑顔を浮かべた。  「警察の事件解決に協力するのは市民の義務ですからね。報酬はいりません。けど、協力する間は私のプライベートな時間のほとんどをそこに割くことになるので……ご褒美はもらわないと」  笑顔のまま、小枝の視線が濱野の全身を嘗めるようにはい回る。それに気づいて、ぞわりと背筋に寒気が走り、濱野は慌てて酒を煽った。俺は今、餌なのだ。頭の切れるこの男の捜査協力を得るために捧げられた、7人目の生け贄。  「……俺なんか酔わせたって面白いことないでしょうに」  かつんと音をたてておちょこをテーブルに戻し、俯いてぼそりと呟く。一回りも年上の男を酔わせて、一体何が面白いのか。濱野にはどうしたって理解できない話だった。  向かいで不意に、がたりと音がした。  「っ!」  顔を上げた瞬間、思っていたよりも近い位置にあった小枝の綺麗な顔に驚いて、濱野は息を呑んだ。椅子から立ち上がり、小さなテーブルの上にぐっと身を乗り出した小枝の指先が、濱野の頬をなぞるようにゆっくりと撫で下ろす。  「…………あなたの、嫌いな、ところは」  じっと視線を合わせて、物分かりの悪い子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ小枝は真顔で、アルコールで火照った頬の上をつつつと滑り落ちる指先はヒヤリと冷たく、嫌悪からだけではないぞわぞわが背筋を上る。頬を滑った指先は顎をちょっと摘まんだ。身体が熱いのは、酒のせいだ。酒のせいだと、濱野は思う。  「そうやって、物分かりの悪いふりをするところ、です、ね」  顎に触れた指が、今度はつと上に上り、かり、と、爪先で唇を掻いた。その段になってようやく、濱野は弾けるように上半身を反らし、小枝の手から逃れた。  「おまたせしましたー。熱燗4合でーす」  その時、タイミングがいいのか悪いのか、空気を読む気のない若い男の店員が、宙に浮いた小枝の腕の下をくぐらせてとっくり二つをテーブルに置き、さらりと去った。  時が止まったのは一瞬。先に動いたのは小枝で、彼はまたふっと可愛い笑みを見せ、とんと椅子に腰を下ろした。  「……私は、バリタチなので」  ああ、ノンケの方にも分かるように言うとつまり、突っ込む方なのでと小枝はご丁寧に言い直し、湯気の立つ徳利をつまみ上げると二人分のおちょこを一杯にした。  「私があなたをどうしたいかは、私の本を読んでもらえれば分かると思うんですけど」  団地妻シリーズ辺りかなぁと、小枝は明るい口調で言った。  「肉付きのいい身体を、触って、舐めて、溶かして、どろどろにするのが好きなんです」  どちらかと言えば巨乳派ですと小枝は悪びれもせずに言い放ち、湯気の立つ酒をくっと煽った。  「……濱野さんは、いいカラダしてますよね」  柔道でしたっけ?と首をかしげるその表情にはもう、一瞬前の危うさも熱もなく、濱野はふっと息をついた。  「……そう。柔道です。黒帯」  「あはは。強い男を組みしくのって、ドキドキしますね」  ぴくりと、濱野の指先が跳ねる。瞬きの一瞬に現れては消えるこの獰猛が、この男の本性なのか、否か。何にしろ、直後にはまた無害な笑顔を浮かべて、さあさ、まあ一杯と酌をする男の方が一枚も二枚も上手であることは現時点で間違いなく、身に染み付いた群れ社会の秩序が濱野の肩にずしりとのし掛かり、ありがとうございますと笑顔を向けた時頭にあったのは、家までのタクシー代が足りるかどうかという、現実の問題一つだった。

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