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差し伸べられるぬくもり

 鳴り続けるベルの音に意識を揺さぶられ、孝也は精一杯目を開けようとした。体全部がぎしぎしと軋むようで、指一本動かしたくない。  けれど、頭痛を増幅させるかのようなベル音も我慢ならなくて、這いずるようにして手を伸ばし指先で触れると、受話器がぽとりと畳に落ちた。 『吉木? いるのか? 何かあったのか?』  耳に飛び込んできたのは、初めて聞く切羽詰まった片山の声だった。  繰り返し名前を呼びながらも、時折耳を澄ませてこちらを窺っている。  搾り出せば何か少しは喋れるだろうと、渇いた口の中を懸命に湿らせながら、では何を伝えたら良いのかと悩んだ。  多くは語れない。けれど、情けない話、このままだと動けないまま翌日ずる休みしてしまうことになるかもしれない。いくらルームメイトとはいえ一応社会人。起こして出勤させるという義務などないのである。昨日の様子からしても、きっとこのまま放置されることだろう。 「たすけ、て」  名前を呼び掛けて喉が引き攣れ、そのままぐったりと敷布団の外に倒れ伏してしまった孝也の耳に「待ってろ」と声が届いて、その後はプーッ、プーッと電子音に変わった。  片さんが来てくれるのかな、と頭の隅であの精悍な顔がどんな風に今の焦った声を出したのだろうと思う。  図書館で会う約束をしていたから、来ない孝也を訝り連絡してきたのだろう。  もう正午を回っていることすら知らず、孝也はそのままじっと体を回復させようと待っていた。  これで裸のままなら、もっと必死に動こうとしただろう。けれど、少しは情が残っていたのか、下半身には衣類を着けてくれたようだ。  健吾がもしも居るのなら。少しは気配を感じるかと耳を澄ませていた。  けれど、もしも居たなら、あまりの煩さに電話機のジャックを抜きに来たかもしれないと自嘲し、そうならなくて良かったと思った。  明日もこの調子なら、せめて欠勤の電話くらい掛けたい。沢山は動けないから、余計なことはしたくないのだ。  気付かぬうちにうとうとしていたようで、ビービー鳴り響くチャイムに叩き起こされ、その後ドンドン玄関ドアを叩きながら、「吉木! うっちー!」と片山が叫んでいた。  そこまで辿り着けない孝也は少しずつ這って進んだが、間に合わずに音が途絶え、それからすぐに鍵が回った。  まさか健吾が戻ったのかと思えば、飛び込んできたのは片山と舎監の木田夫妻だった。  重い扉を開けるなり、冷え切った空気が体を撫で、三人とも一瞬にして汗が引いた。  靴脱ぎからすぐの和室の襖が細く開いていて、そこから指先が覗いている。  片山はスニーカーをポイポイと脱ぎ捨てると、そのまま駆け寄って一気に襖を開けた。  いくら盛夏でもこれはないだろう。冷蔵庫の中にいるような冷気がぶわりと広がり、足元には上半身裸の孝也がうつ伏せに倒れていた。 「吉木!」  悲鳴を上げた片山はすとんと落ちるように座り、打撲痕だらけのその体を返して仰向けた。同じく顔も酷い状態で、人相が変わるくらいに腫れ上がり、口元には乾いた血がこびりついている。  これだけの低温に晒されていたのだから冷え切っていて当たり前の体は、熱いくらいに火照っていた。  片山の後ろから恐る恐る入ってきた夫妻も息を呑み、妻の方は、まあと声を出して踵を返すと流しに掛けてあるタオルを濡らしてから片山に手渡した。  その間に夫の方は壁掛けのリモコンを操作して温度を上げ、殆ど止まっているかのような微かな稼動音に、部屋の中は静まり返った。 「酷い……こんな」  濡れタオルで孝也の顔を拭い、面を変えてそのまま頬を冷やし、片山は噛み締めていた唇を解いた。 「吉木、喋れないなら、このままでいいから」  くたりと力の入らない孝也の手を取り、片山は言った。 「イエスなら握って、ノーならこのまま。ちょっと動かしてくれるだけで良いから」  木田夫妻も畳に膝を突き、二人の様子を真剣に見守っている。 「これは、昨日やられたのか?」  ピクリと指が動き、少しだけ指先が曲がった。それをイエスと見做して、片山は続ける。 「うっちーか?」  動かなかったけれど、これは肯定だと片山は確信した。鍵が掛かっていたのがその証拠だろう。  救急車呼ぼうか、に反応しないから、じゃあ病院に行こう、と言っても反応はなし。それは動けないから、と訊いても応じないから、もしかしてこれでもなかったことにするのかと問われた孝也は、「寝てれば、治る」と掠れた声で言った。  ばか吉木、と呟いた片山の瞳が揺れていた。  しかし、待っている木田夫妻は明らかにほっとしているようで、じゃあと出て行こうとするから即座に片山が引きとめた。 「待ってください! 例え本人がいいと言っても暴行事件ですよ! このままエスカレートして警察沙汰になったらどうするんですかっ」  揉め事は御免だと嫌そうな顔を隠しもしない夫妻に、叱責するように片山が声を落とした。 「こんな状態のルームメイトを放置しているような奴と一緒にしておけません。これ以上何かあればそちらだって責任問われますよ。今すぐ別の部屋を用意してください」  それでも、男の子同士の喧嘩だからすぐ仲直りするわよなんて言う妻に、頷く夫。  それを聞いた片山の眼が吊り上がった。 「そうですか、じゃあきちんと申請します。この件は本局に直訴して課長を通して部屋変えの辞令出してもらいます。僕が来なければもしかしたら本当に大変なことになっていたかもしれないのにってちゃんと報告してきます。今すぐ」  滔々と話す片山にたじろぎ、この若造がとの怒りも滲ませながら、それでも二人は仕方無さそうに了承した。  昇降口が別でなるべく下の階が良いと希望を告げると、丁度自分たちの真上の二階が空いているからと、鍵を取りに行ってくれた。  但し掃除はしていないというから、これから自分がしますと片山が言うと、用は済んだとばかりに戻って行く。その背に、これからすぐ人を呼んで荷物を運ぶから煩くてもお許しくださいと、片山は付け足した。  きっと頭上が騒がしいのが嫌で、わざと空けておいたのだろう。それでも、敷地の入り口に近い上舎監の上なら騒ぎも起こし難い筈だ。片山はほっと息をついて、目を閉じたままの孝也に「電話、借りるな」と声を掛けた。  一番の大物、とはいえ単身者用の小さな冷蔵庫だが、なるべく縦にしたまま運ばないと壊れてしまう。電話で官舎に残っている友人二人を呼んでいるから、階段もどうにかなるだろう。  念の為と中身を確認しようとした片山は、ペットボトルとビールの他にホーロー容器に詰められた漬物類を見て微笑んだ。一つだけ場違いな気がするサンドイッチを手に取ると、日付が今日になっている。  朝、健吾が購入した証拠だった。  こんなの食べられるわけないだろう、あの状態で。片山は心の中で毒づきながら、隣にもう一つ並んでいる冷蔵庫の中に突っ込んでやった。

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