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第9話

 「……はーい、ここ。修正して」  とんと、国峰のデスクに書類を戻しながら町田が言った。半ばぼんやりとしながら作業の手を止めて隣を向くと、町田の視線は真っ直ぐにPCに向いており、パチパチと高速でキータイプする華奢な指、内容チェックのための真剣な横顔が目に入り、国峰は慌てて書類に目を落とす。  「あ……すみません」  「うん。反省して」  キッパリと言われてしまえば返す言葉もなく、国峰はぐっと口を閉じて目の前の書類を睨んだ。  ここ数日の自分のポンコツぶりといったらなかった。集中力が続かない、作業が遅い、細かなミスを重ねる。ミスした書類が戻ってくるせいで仕事は増える一方で、急がなければと思うとまたミスが出る。今のところ、部の外に出る前に誰かしら気付いて修正出来ているから大きな問題は起こっていないが、この状況が続けばそれも時間の問題だということも分かっていて、何とかしなければならないとは思うのだが、そもそも“仕事が手につかない”という状態になったこと自体が初めてでどうしたらいいか分からず、打開策がないままここまで来てしまった。そうして結局、見かねた町田にいくつかの事務処理を手伝って貰えることとなり、先輩が隣で国峰の仕事を進めている横で、当の本人はぼうっとしていたというのが今の状況だった。  こうしてまとめてみると自分の情けなさがますます恥ずかしくて、国峰は意を決して顔を上げ、町田の横顔に椅子ごと身体全部を向けて頭を下げた。  「……ご迷惑おかけしてすみません……あの、もういいです。自分でやります」  「自分でやって、余計なミスして、仕事増やされる方が迷惑」  ぴしゃりと言われ、喉奥でうっと声が出る。パチリとエンターキーを叩いて手を止め、町田がくるりとこちらを向いた。特に忙しい時期ではないため、就業時刻を回ったオフィスにいるのは町田と国峰の二人きりで、なかなか隠れない夏の太陽は未だ地平線の辺りをうろついており、こちらを見返す町田の瞳は、夕焼けを映して黄金に揺らめいていた。じっと見つめられて、国峰は思わず目を逸らした。ここ数日、ダメなのだ。他人と目を合わせることが出来ない。見透かされそうな気がする。自分の、汚れた内部を見透かされそうな気がして、目を見て話すことができない。だから最近はいつも俯きがちで、それで余計に、周りに心配をかけている。面倒見のいい町田が国峰を放っておけなかったのも多分、そのせいだろう。俯けた視界の端で、町田はふうと息をつき、背中を椅子に凭れて口を開いた。  「……で?……なんかあった?」  尋ねられた言葉を咀嚼し、飲み込む。ごくりと、喉が鳴る。何かあったのか。何が、あったのか。自分でもよく分からない。よく分からないが、ただ、身体の真ん中にぽっかりと大きな穴が開いたような、そんな心地がしている。自分の重さが半分くらいになってしまったような、そんな感覚があった。  土曜日、大園が帰った後、自分がどうしていたのかあまり記憶にない。ソファの上で、ふと気が付いたら外は真っ暗で、全身が汗でじっとりと湿っていた。何かを考える頭もない。ただ、無為にそこに在った。否。在った、という確証もない。もしかすると、意識を取り戻すまでの間、国峰はどこにもいなかったのかもしれない。そのくらいに、自分が希薄だった。  「……なんかこう……分からなくなっちゃて……」  「……何が?」  中途半端なところで口を噤んだ国峰に、怪訝な声で町田が問う。  何、と言われても困ってしまう。言いようもないほど、土台のところ。寄って立つ瀬が曖昧で、言葉にならない。言葉にもならないほど感覚的で、根源的なところが、ふわふわと覚束ない。赦されたいと、そう思う。自分の歪さが嫌い。自分の、在りようが嫌い。自分が、嫌だった。そうしてそれが、酷く悲しい。悲しくて、苦しい。  ふと気づくと、椅子に座って背を丸めた男のシルエットが、夕暮れの真っ赤な光に縁取られて、黒く床に落ちていた。西日に照らされて長く伸びた影の先端は部屋の隅まで届いており、その影を追って顔を上げると、町田の真剣な視線がそこにあった。はっとする。心配してくれているのだと、分かった。子供のためにと、普段はほとんど残業などしない彼女が、今日この時間まで残ってくれているのは本当に、心から、国峰のことを心配してのことなのだろう。強い、と思う。他人を思いやることが出来る強さを、彼女もまた、確として持っている。  「……町田さんは、」  自分の事、好きですか?  思わず、尋ねた。この人は、どうだろう。どうやって、自分の形を保ち続けているんだろう。町田は少し、ほんの少しだけ、大園に似ている。潔くて強いところが、少し、似ている気がする。苦しみを、痛みを、表に出さない大園の強さに、似ている気がした。だから、尋ねた。大園の答えが知りたくて、訊いた。  町田は一瞬きょとんと目を見開き、何その質問とすぐに破顔した。そうして、笑った後で少し考え、考えながら口を開いた。  「……好きなところもあるし……嫌いなところもある、かな?」  けど概ね好き、と口元を綻ばせる彼女の明るさは無尽蔵で、国峰は目を眇めて彼女を見た。鮮やかな自然の赤に彩られた彼女から零れる笑顔は、自信と余裕に満ちていて、全然違う、と国峰は思う。大園とは、全然違う。大園は多分、こんな風には笑わない。こんな風に笑って、自分が好きだとは言わないだろう。言えないだろうと、そう思う。  真っ暗なソファの上で意識を取り戻してすぐ、国峰は大園の連絡先を消した。アドレス一つの繋がりだった。指先の操作一つ。それで跡形もなく消える、儚い繋がりだった。もっと知り合いたかった。もっと、大園を知りたかった。  ちゃんと、普通でいられなくて、ごめんなさい。  苦しげに告げられた、あれは、国峰の言葉だった。大園の口から吐き出された、国峰自身の言葉だった。だから、知りたい。知りたいと思う。それを抱えて”普通”を演じ続けるその決意の裏側を。抱えてなお、自分よりも他人を思いやれるその強さの訳を。大園の内にあるものを。もっと、深く。奥の、奥まで。  大園は少し、自分に似ている。自分に似ていて、全然違う。  「……週末に、大事なものを失くしたんです」  再度首をうなだれて、そっと、声にする。大事なものだった。多分、とても大事なものだった。大事にするべきものだった。それを、なくしてしまった。自分にとってはすごく価値があるものだったのに、自分で遠くへやってしまった。  平凡を寄せ集めた灰色の人混みの中に、混じり込んで浮き上がった大園を見つけたあの瞬間、その身の内に理想を見た。自分と同じ歪を抱えて、それでもしゃんと背筋を伸ばした大園の姿に、国峰の理想があった。だから、近づいた。だから、すがり付いてでも近くに置きたかった。それなのに。近くに置いてじっくり眺めると、国峰が憧れた大園はメッキ張りの偶像で、それが悲しくてごねた。騙されたようで許せなかった。許せないから、爪を立てた。メッキを剥がして、みすぼらしい姿を嗤ってやろうと、そう思った。そう思った、はずなのに。メッキの下から現れた傷ついた生身は、嗤うには優しすぎた。嗤うには、悲しすぎた。  「……大事だったのに、気がつかなかった」  気がつかないまま、失ってしまった。  傷ついたまま微笑み続ける大園の生身こそ、国峰の理想だったのに。この男に赦されたいと、そう思った。大園は自分だ。理解されずに傷つく自分。そしてまた、大園を傷つけるのも自分だった。歪を許容出来ない自分。だから、赦されたい。だから、離れなければならない。彼を傷つけたくない。俺は、あの人を許容することが出来ない。だから、近づけばきっと、傷つける。  なんだ、と町田が軽やかに言った。その軽やかさに引かれて顔を上げると、太陽の断末魔の最後の一筋を赤く身に受けた彼女は、ふうわりと笑んだ。  「愛の話か」  鮮やかな茜色を纏って女神のように微笑む町田を呆気にとられて見返しながら、愛、と舌先で呟く。愛。深く、甘い。赤く、熱い。愛の話、なのだろうか。これが?傷と後悔と後ろ暗さにまみれたこの想いが、愛なのだろうか。愛は、こんなにも苦しいものだっただろうか。愛は、これほどに痛いものだっただろうか。  「……愛の話に、聞こえました?」  呆然として問い返すと、町田はうん、と頷いた。  「何かを……誰かを大事に思うのって、愛だと思うけど?」  私は、愛菜を愛しいと思うよと、娘の名を呼ぶ町田は、その瞬間、一人の親になる。母が子を慈しむその優しさを、国峰はやはり、強いと思う。守るための優しさは、強さだ。優しくあるためには、強くあらねばならない。強くあるためには、芯を持たねばならない。揺るがぬ芯を持って傷に塗れる国峰を、抱きしめたいと、そう思った。癒したいと、そう望んだ。……なるほど確かに。そう定義するなら、これも愛かもしれない。甘くも温かくもないけれど、想いの強さは確かに、愛と呼ぶに値するのかもしれない。でも。でも、そうであれば。これは(かな)しい愛だ。注ぐことを許されない愛だ。国峰は大園にとって、全身がナイフでできた人間なのだ。指先から足の先に至るまで、全身が、よく切れるナイフでできている。大事にしたいと思うのに、触れれば彼を傷つける。大切だから、近づきたい。大切だから、近づけない。愛する限り、この(かな)しみからは逃れられない。ならばいっそ、一層のこと、出会わない方が良かった。愛しくて、(かな)しい。愛することは難しい。汚れた自分が吐き出すものは、愛ですら腐っている。どろりと腐って赤黒い、溶け崩れた肉の色をしている。国峰の愛は、傷すら綺麗な大園にはあまりにも不釣り合いに、もったりと纏い付く腐臭を撒き散らしている。げんなりする。  「……町田さんみたいに」  町田さんみたいに、愛せたらいいのに。  吐息で告げた言葉は、下手な口笛のようなぼやけた響きで空気を震わせ、悲しい音になった。  あなたみたいに、愛せたらいいのに。女神のように、母のように。包み込むように、愛おしむように、抱きしめるように。そんな風に、愛せたらいいのに。そんな風に愛せるならばきっと。きっと、今より少しだけ綺麗になれる。そんな気がする。  でも、そんな愛し方、自分には絶対に無理だ。  「……国峰君さ、大丈夫?」   眉根を寄せた町田が、こちらを覗き込んでいる。大丈夫と答えて安心させたいのに、言葉が出なくて国峰は笑う。本当は、本当は大丈夫ではない。大丈夫なわけがない。怖くて不安で仕方がない。自分を否定し続ける自分に、気づいてしまった。自分を許せない自分に、気づいてしまった。父の言葉に反発したのは、それが、自分の内から聞こえる声そのものだったからだ。恐ろしいものを見るような目を国峰に向けているのは、誰よりも、国峰自身だった。自分が怖い。自分自身が、恐ろしい。  つるりとしたまなこの中から、眉尻を下げた歪な笑みがこちらを向いていた。ピエロの笑顔と、国峰は思う。恐怖を不安を隠して笑う、曲芸師が纏うマスク。冷たく冷えた、偽りの仮面。鏡の中で見慣れた男の顔が、つるりとした小さな球体の上に平たく張り付いて嗤っている。嗤われている。  ふいにとんと肩を叩かれて我に返ると、視界を埋めていたピエロの笑顔が急速に遠のき、球体は町田の眼になり、国峰は数度瞬いた。そうして、心配を目いっぱい表情に乗せてこちらを向く町田の、休みたい?飲みたい?の問いかけが耳に届き、その意味を理解した刹那、国峰の唇からは思わず笑い声が零れ、それを見た町田は一瞬ほっとしたような表情を見せた後で悪戯っぽく笑んだ。町田のこういう時の気遣いの仕方は本当に素敵で、見習いたいと常々思ってはいるのだが、真似をするのが難しい。きっと、これも一つの才能なのだ。  「……飲みたい、かな」  最近町田さんと飲む機会少なくて寂しかったので、と続けると、彼女はくすぐったそうに笑い、ひょいと軽やかに席を立った。  「OK。でも今日は愛菜が待ってるから、来週ね」  旦那に都合つけさせるからそれ次第でと言って町田はすぐに歩き出し、国峰の横を通り抜けざま、もう一度ぽんと肩を叩いた。  「根詰めすぎないようにね」  話くらいいくらでも聞くからさ。  こうやってまた、優しい声に励まされる。じわりと胸に広がる暖かな想いが、どんよりと内にわだかまる黒い塊を溶かし、身体が少し軽くなる。くるりと振り返ると、早足に行く背中が見えた。  「町田さん!あの……ありがとうございます」  子供を待たせて早く帰りたかっただろうに、元気のない後輩のために時間を作ってくれた彼女に感謝と申し訳なさを込めて声をかけると、町田はちらりとこちらを向いたが足は止めず、ひらりと片手を振って出て行った。  暮れの昊天が上空から濃紺に染まる。立ち並ぶビル群の隙間から、赤に金に輝く夕日が、細く幾筋もの線を描く。美しい光の帯に心奪われながら、助けられてばかりだと、そう思う。いつもこうして、誰かに助けられてばかりいる。  暑さを堪え忍ぶ夏の一日はげんなりするほど長いのに、一度沈み始めた太陽は驚くほどに早足で去って行き、国峰の見つめる前で、空はあっという間に藍に塗り変わった。

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