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第11話
寝苦しくて目が覚めた。目に入ったのは見慣れた天井で、またソファで眠ってしまったのだと、まずはそう思った。つきっぱなしの灯かりに目が眩むが、窓の外はまだ暗い。時計を確認すると、時刻は午前三時だった。鈍い頭痛がする。町田と飲んでから家に帰り着くまでの記憶がない。普段と比べて飲みすぎた訳でもないから、多分、寝不足が原因だろう。この二週間、ベッドでまともに眠れた日は数えるほどだった。町田は家に帰れただろうか。週明け一番に謝らないと。
二週間で、仕事の方はある程度マシになってはいたが、日々の生活は相変わらずガタガタだった。ベッドで大園を抱いた日から、寝室では眠れなくなった。そもそも眠くもならないから、夜はソファで本を読んで時間を潰し、うとうとし出す頃には外は明るくなっていて、ほとんど寝ないまま仕事に向かう。それを思えば今日は眠れただけマシか。食事もいい加減で、昼は食べないと時間が空くので何かしら口にしてはいたが、夜は酒を飲んで終わりという日がほとんどだった。明らかな不摂生。それで今日も食欲はなくて酒ばかり進んだから、こうなったのは必然だった。
「……頭いた……」
寝転んだまま額に手のひらをあてて呟く。声と一緒に吐き出した息が酒臭くて、国峰は思わず眉を寄せた。喉が渇く。ふうと一つ息をついて、重い身体をゆっくりと起こすと、ソファがぎしりと音を立てた。
「……あ、れ?」
「っ!」
目を閉じて半分ほど身を起こしたところで、足元から聞こえた声に国峰は文字通り飛び上がった。自分しかいないはずの部屋に、誰かいる。あまりの驚きに頭痛が吹っ飛び、慌てて目を開け、足元でソファに頭を凭れて眠っていたらしい人影がもぞりと顔を上げたのを視界に捉え、国峰は目を見開いた。
驚いたのは相手も同じで。視線が絡んだ一瞬、大園はぽかんとした表情で国峰を見返し、その後じわりと頬に朱を上らせ、慌てて目を逸らした。
「……勝手に上がってごめん」
帰ると言った大園に向けて、言葉よりも先に手が出た。
「っ、」
立ち上がりかけた大園の腕を、咄嗟に掴んで引き留める。手が、触れる。掴んでいる。幻ではない、生身の大園がここにいる。
「……なんで、いるの?」
渇いた喉が張り付いてうまく声が出ない。それが、もどかしい。この幸運を手放してはいけないと、身体の中から声がする。もう届くはずの無かった手が、今、大園に触れている。届いている。だから、手を放してはいけない。そう思った。大園の目が泳ぐ。
「……町田さん、が、マンションの前で困ってたのにたまたま会って」
「……困ってた?」
「お前がタクシーで寝ちゃってて、動かせないでいたから」
大園はこちらを見ないまま、不自然に視線をさ迷わせて応じる。町田には大分迷惑をかけたらしいことは分かった。分かったが、その話は後だ。
「…………大園さんは、なんでうちの前にいたの?」
確信を問う。たまたま、会うわけがないのだ。大園はこの場所に縁も所縁もない。たまたま、ここにいるはずはない。この部屋に来るという目的以外に、大園がこの近辺に足を運ぶ理由が何かあるのなら、教えて欲しい。これが勘違いならば、早々に正して欲しい。これ以上、期待が膨らむ前に。
「……服、返そうと思って」
「返さなくていいって言いましたよね」
畳み掛けると、大園はぐっと言葉に詰まって俯いた。返さなくていいと言った。きっと、もう、来てくれないと思ったから。大園はもう、ここに来たくはないだろうと思ったから。だから、もう会わないでいいようにと気遣った。それなのに、どうして来たのか。酷いことをした自分のところへ、どうしてまた戻ってきたのか。大園の腕が震えていた。……否、震えているのは俺の方か。沈黙が怖い。答えを聞くのが、怖い。大園を知りたい。その内を暴いて、開いて、分かりたい。この男を理解したい。この男に赦されたい。赦して欲しい。……そう。そうだ。やり直したいと思ったのだ。ちゃんと謝って、もう一度やり直したい。やり直させて欲しい。失いたくない。俯いて唇を噛み締めた大園の横顔を見、ひくりと喉が鳴った。……ああ、違う。これじゃあ順番が違う。頭の芯が重い。頭が回らない。
ひゅっと口から吸い込んだ息が喉に絡んで咳き込み、咳き込みながら、ちょっと待ってと口にする。ちょっと待って。
「……大園さんごめん……ごめんなさい。待って。俺が言わなきゃ……あの……あの日は、酷いことしてごめんなさい」
理由なんて。理由なんてどうだっていい。だって今、ここに大園がいる。手が届く距離にいる。触れている。触れて、いる。
はっとして顔を上げると、大園の目がこちらを向いていた。
手首を掴むこの感触には覚えがあった。震える身体。赤い擦過傷。何も言わずにこちらを向く大園を見返すと、その眼の中でピエロが言った。近づいてどうなる?こいつはお前と同じ、お前の嫌う歪な人間だ。普通ではない人間だ。そんな二人で寄り集まって何しようってんだ?馬鹿げている。そこに赦しはない。お前はお前のまま、こいつはズタボロになって、それで終わりだ。終わりだよ。
「っ、」
その声に戦いて、大園に触れていた手をぱっと離す。そうしてもう一度、ごほごほと咳き込む。苦しくて涙が出そうだ。ああ、そうだ。ダメだ。ダメなんだ。この人は優しいから、優しくて強いから、他人のために傷つくことを恐れないから、だから。触ったらいけない。俺なんかが触れてはいけない。近づけば傷つける。だから、離れなければならない。
咳き込みながら、ついと身体を引きかけた刹那、大園の手が国峰の指先をぱしりと掴んだ。驚くほどに強い力で、大園が、国峰を掴んだ。
「っ……国峰くんは、すごい」
引き留める手に驚いた国峰の目に、真っ直ぐにこちらを見つめる大園の真剣な面差しが映る。すごい、と大園はもう一度口にした。
「……俺は……俺は、理解を望むのは裏切りだと思ってた。普通じゃないのは自分のせいで、だから、分かり合うなんて無理だってそう思ってた」
赦されないと思っていた。ずっと。
乾いた身体に、声が、滲みる。大園の、涼やかな耳障りのいい声が、ゆっくりと、震えながら、言葉を紡ぐ。きらきらと輝く目が、こちらを見ている。
「でも……でも違った。全然違った。俺が一人で思い込んでただけで、分かろうとしてくれる人はちゃんと居た。受け入れてくれる人はいた」
勇気を持って打ち明ければ、応えてくれる人がいる。絶対に、いる。
「国峰くんのおかげで気づいた」
ありがとうと大園は言い、はにかむように小さく笑った。その表情に、とくりと胸が高鳴る。きらきらとした輝きに縁取られたその表情は、子供のような無邪気な発見の喜びと晴れやかな憧憬に満ちて煌めいている。眩しくて、目が眩むようだ。目の眩むような、身の竦むような、純粋な好意。嬉しい。そんな目を向けてもらえるなんて思わなかった。そんな事を言ってもらえるなんて、思わなかった。あなたに手を取ってもらえるなんて、思いもしなかった。嬉しくて嬉しくて、身の内から震えが上る。有り余る歓喜に、身体が震える。でも。それなのに。嬉しいのに、苦しい。こんなに嬉しいのに、泣きたいほどに苦しい。すごくなんてないと、胸の内に思う。俺は全然、あなたにそんな目をしてもらえるような人間じゃない。
「……俺、は、」
言葉を発しかけてまた咳き込む。背中を丸めて、縮こまって。さぞやみすぼらしいだろうと、そう思う。大園の手がするりと外れる。ほら、ほらやっぱり。ダメだ。どこかに行ってしまう。遠くに行ってしまう。離れなければと思うのに、離れていく温度が悲しい。苦しさが増す。咳が止まらない。
ほら、と、先ほどよりもずっと近くで声がした。そっと、背中に手が触れる。
「……これ。町田さんが置いてった」
胸元に押し付けられたのは口の空いたミネラルウォーターのボトルで、飲んでと促す声はすぐ隣にあり、背中の手はそろりそろりと優しく動く。その手の暖かさが、服を介して皮膚に触れ、表皮に染み入り汚泥に届く。冷たく冷えた内部に、じわりと、熱が届く。……溶ける。
「っ!うっ、わ!おい!」
もう、耐えられなかった。ボトルは無視して、大園の身体に腕を回して抱き寄せる。こぼれた水が、胸元を濡らし腹まで伝った。ぺたりと張り付くワイシャツは冷たいはずなのに、薄い布越しに触れる大園の体温が、溢れた水をすぐに温めてしまう。まだ酔ってんの?という困り声の囁きが、耳元で聞こえた。酔っている。確かに、酔っているのかもしれない。だから、歯止めが効かない。馬鹿みたいに、ぶちまけてしまう。これはきっと、酔っているせいだ。
「……俺は……自分が嫌なんです」
普通になれない自分が嫌だ。普通じゃないから卑屈になって、受け入れてくれない相手を憎んで恨んで。そんな自分が嫌だ。父を、大園を、傷つけてしまう自分が嫌だ。
「自分で、自分を認められないんです。だから別に……全然すごくない。自分じゃ自分を認められないから、誰かに代わりに認めてもらおうとしてるだけなんです。誰かがいいよって言ってくれなきゃ、ここにいることも出来ないんです」
だって、俺は歪だから。こんな歪な自分を、認めてくれる人なんているわけがない。赦してくれる人なんて、いるわけがない。心の底ではそう思っている。だから、本当は疑っている。優しさを信じられないでいる。自分を認めてくれる人たちに、猜疑の目を向け睨んでいる。こんな自分が、大嫌いだ。
「……分かるよ」
悲痛な声に、そう応じる。分かるよ。分かる。俺もそう。同じだ。普通でないことが悲しい。隠さなければならないことが悲しい。自分の存在全部を、丸ごと受け入れてもらえると信じられないことが悲しい。
だから。
「俺が、お前の代わりにお前を認めるから、」
国峰くんが、俺の代わりに俺を認めて。
いいんだと、そう思う。別に、いいんだ。普通じゃなくたって。自分が嫌いだって、認められなくたって、別にいい。だって、俺はお前をすごいと思うし、お前みたいになりたいと思う。それは俺の気持ちであって、お前がどう言おうと変わらない。一人ひとり違う。それでいい。国峰の寝顔を眺めていたら知らぬ間に眠っていて、目覚めて目が合い咄嗟に逃げようとしたのを、また、国峰が捕まえてくれた。嫌がられているわけではない事を教えてくれた。国峰らしく、素直に、態度で表してくれた。そうして一生懸命伝えようとしてくれたから、応えなければならないと思い口にした言葉がありがとうで、自分は彼にこれを伝えたかったのだと、その時に気がついた。国峰の率直さに引き出された思いは、裏でも表でもない大園優一の言葉で、それを伝えられる相手がいる事が、酷く嬉しかった。
罪だと思ったのだ。裏切りだと思っていた。交錯する思いに齟齬があることは、相手に対する裏切りだと思った。”普通”に”普通”で返せないことが、酷い裏切りのように感じていた。でも、どうだろう。”普通”の友情と呼べるものが、”普通”の愛情と呼べるものが、果たしてあるのだろうか。”普通”の繋がりというものが、あるのだろうか。ある、と考えていることそのものが”普通ではない”んじゃないだろうか。
震える身体を抱きしめて思う。会話をするときの距離の取り方が好き。綺麗に食べるところが好きで、酒の好みが合うところも好き。飾らない率直さも、直情型で気持ちが行動に出やすいところも、自分には持ち得ない彼の美徳だ。それから、セックス中に少し口が悪くなるところも悪くないし、恋愛対象が男だったことも、俺にとっては幸運だった。
「……好きだよ。俺は、国峰くんが好きだ」
だから、国峰春人を丸ごと全部知りたい。分かりたい。全部認める。何もかも、全部赦す。だから、全部教えて。俺が全部、愛してあげる。愛させてほしい。
国峰くんは?と、問う声が震える。心臓の鼓動が煩い。やっぱり、怖い。本当の自分を見せるのは、やっぱり、こんなに怖い。こんなに怖いのに、国峰は今までもずっと、この恐怖と戦ってきたのだ。それは、本当にすごい。すごいことだと、そう思う。首筋にかかる吐息が熱い。火傷しそうだ。
「……なん、で?」
なんで俺なの。わずかな沈黙の後で、国峰が口を開く。不安が滲む、消え入りそうな声。何でって、そんなの。
「俺には無いものを持ってるから」
そこに惹かれた。違うから、惹かれた。自分の”普通”が通用しない国峰に、惹かれたのだ。ごくりと、国峰の喉が鳴った。
「……俺で、いいんですか?」
「国峰くんが、いい」
この男がいい。この男が欲しい。彼に、知ってほしい。分かってほしい。愛してほしい。そうすればきっと。彼に愛される自分を、愛することが出来るから。
温かい身体を抱く大園の内で光が弾ける。弾けたのは夏だ、夏の光だと、大園は思う。弾けた光の中心には、あの日降ろした荷が鎮座しており、矢のように過ぎる閃光が月光に浮き上がる美しい寝顔を掻き消した後、その場所で煌々と輝いたのは、陽光を浴びて煌めく、白く美しい肢体だった。
「……俺が俺でいることを、お前が赦してよ」
柔らかな女性の身体に性を目覚めさせた幼い彼らの代わりに、男性の身体を嫌悪した彼の代わりに、月光の下で神々しい輝きを放った彼の代わりに、そうして、大園を嫌う大園自身の代わりに。国峰が赦して。表も裏もない俺を、俺自身を赦して。
すんと、国峰が鼻を鳴らし、赦すよと囁いた。赦す。あなたを、赦す。あなたがあなたで良かった。
「……俺も、大園さんがいい」
抱き締める腕がきりりと強まり、胸が詰まる。苦しい。苦しくて、声が出ない。国峰が好きだ。友として、そして、それ以上に。言葉にして、受け入れられる。想い、想われる。どうして。どうして、罪だなんて思ったんだろう。こんなに温かいのに。普通だとか、普通じゃないとか。そんなことはどうでもいい。誰かを特別に想うことの、どこが罪なんだろう。こんなに、幸福(しあわせ)なのに。ぼろりと、瞳から滴が零れる。幸福(しあわせ)が、溢れて止まらない。
「……好きでいて、いいのか」
俺は、お前を、好きでいていいのか。愛していいのか。
涙が邪魔して声が出ない。震えて、零れる。気持ちが、溢れる。いいのか。愛されたいと望んで、いいのか。国峰が慌てたように身体を離す。
「………泣いてるの?ごめん。ごめんなさい。俺なんか変なこと言った?」
違うと言いたいのに。口を開くとしゃくりあげそうで、声を出したらもっと溢れてしまいそうで、何も言えない。止めどなく溢れ出す水の膜の向こうで、困ったように眉を寄せる国峰に、だから大園は笑ってみせる。綺麗でも格好よくもない、歪に歪んだ笑顔でも。きっと、伝わる。伝わると信じて、笑ってみせる。嬉しいんだ。嬉しくてしょうがない。身体に収まりきらない嬉しいが、瞳から溢れてしまった。ただ、それだけ。
困り顔の国峰にそっと身体を寄せる。笑って欲しいと、そう思う。
「……ふ、」
唇に、触れるだけのキスを落とす。かしゃんと、二人の間で押し潰された眼鏡フレームが音を立てる。驚いたように見開かれた国峰の目を見て、思わず笑う。
「めがね、邪魔だ」
初めて知った。考えてみれば、初めてだ。眼鏡をしたままキスをするのも、スーツ姿で涙を溢すのも、心からの好きを他人に伝えるのも、好きな人とキスをするのも。全部、初めてだ。
不意打ちのキスを落として甘く笑った泣き顔が、突然ふわりと温度を上げる。真っ赤になった大園の視線が、ついと恥ずかしげに伏せられる。
「……大園さん?」
怪訝に思って声をかけると、大園の肩がぴくりと跳ねた。嫌な感じはない、が、少し、今までと様子が違う。ソファからそっと足を下ろし、ソファの横で膝立ちになって俯く大園に身体を向ける。大園は俯いたまま動かない。手には、半分こぼれて中身の減ったペットボトルが握られている。それに向かって手を伸ばすと、触れる寸前、国峰の指先がひくりと跳ねた。鼓動が早まる。ボトルを握る指に、爪先で触れる。
「……っ、」
水面が、大きく揺れる。人差し指を指先からつとなぞり、根本の骨の凹凸をゆるゆると下り、小指を根本から撫で上げ、先端を緩く握る。大園ははっきりと身体を跳ねさせ、国峰は、取り落としかけたボトルごと大園の手を握った。身体を追って、大園の耳元に口を寄せる。
「……どうしたの?」
優一さん、と吐息で呼ぶと、涙目の大園が顔を上げた。強い恥じらいに彩られた視線に、ぞくりと、背筋が震える。
「……初めて、だなって」
「何が?」
「好きな人とこういう風になるの」
だから、どうしたらいいか分からなくて。
ざわりと、胸が騒ぐ。ぞわぞわと、甘痒い感覚が足元から全身に上る。この綺麗で可愛い人の“好きな人”は自分なのだ。俺が、この人の初めて。とくりとくりと胸が鳴る。身体が、熱くなる。この人をとびきり甘やかしてとろかせてしまいたいと、そう思う。
自分を想って震えるこの人が、国峰春人を肯定している。俺が好きなこの人が、俺自身を肯定している。認めている。赦している。愛している。この感覚はなんだろうと、国峰は思う。この感覚はなんだろう。身の内から溢れ出す歓喜の根本にある、この感覚はなんだろう。
「……国峰くん、」
甘えるように紡がれた音を、彼の唇に指を押し当てて止める。
「……俺、名前で呼ばれるの好きなので」
練習してとねだると、彼はふわりと頬を染めた。甘く匂い立つ桜色。唇に当てた指を外し、甘く染まった頬を包むように撫でると、大園は気持ちよさげに目を細めた。
「……優一さん、」
涙に濡れた目元を指先で拭ってやると、大園はくすぐったげに僅かに首を傾けて、猫のように柔らかく国峰の手にすり寄り、ハル、と呼んだ。ハル。春。ふわりと、桜が薫る。
川が見える。清冽な流れだ。その川の両脇には無限に続く桜並木が広がっており、満開の薄桃色が永遠に続いている。国峰は、その流れの中にいた。清らかな流れの中に、悠々と身を浸して笑っていた。その身は川の流れのように透明に澄んでいて、美しい春の中に同化していた。汚れてなどいない、お前は、透明に澄んでいる。
「……ハル……」
甘い声が呼ぶ。この声が、あの川へと導く標だ。柔く閉じた花の蕾が解けるように笑う、この男が、瀲灧たる流れそのものだ。
触れることを怖いとはもう思わない。自分にとっての大園が、大園にとっての自分だと言うのなら。もう何も恐れることはない。
とろけた目を向ける大園の顎をとり、そっと顔を寄せる。少しずつ、あなたを知りたい。少しずつ、俺を知って。まずはキスから。
そうやって、一歩ずつ、俺は俺になる。愛して愛されて、あなたはあなたになる。
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