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Dear, my BROTHER
宮崎英介の朝の日課は、出勤前に最愛の娘を保育園に預けることだ。
保育園は自宅と家のちょうど真ん中にあり、宮崎は自転車で送迎をする。今日もいつものように自転車を走らせて保育園へ着くと、園内はすでに多くの親子で賑わっていた。
「さくらちゃん、おはようございます」
「あきら先生だ! おはようございます!」
園の玄関では先生たちが園児を毎日お出迎えしてくれる。今年4歳になる娘のさくらは、「あきら先生」という男の先生が受け持つ年中組だ。
「さくらちゃんのお父さんも、おはようございます」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
あきら先生は園内唯一の男性の先生で、身長が高く、某教育番組の「体操のお兄さん」と言われてもおかしくないくらい、無駄な肉がない出来上がった体型をしている。おまけに顔もなかなかにイケメン、かつ28歳の若者と来たものだから、園児だけではなく、ママさんたちにも絶大な人気がある。
「大きくなったらあきら先生と結婚する!」と宣言する園児も少なくはないらしく、一部パパたちには嫉妬の刃を向けられているらしい。「いい歳した大人がねえ!」とママさんたちは笑うが、同じ父親の1人として、宮崎はパパたちに同情している。自分だって、さくらが「あきら先生と結婚する」と言い出したらショックを受けるに違いない。それこそ「いい歳こいた大人」なのにみっともない、とは頭では分かっている。分かってはいるが、父親はそういう生き物なのだから、仕方ない。
こういうパパ事情もあり若干の警戒心はあるが、それはそれとして、宮崎はあきら先生に好感を持ってる(他のパパたちもきっとそうだと思う)。
あきら先生はとにかく子供たちを大事にしてくれる。優しく大らかで、締めるところはしっかり締める。連絡帳は毎日、枠にびっちりと子供の様子が書かれ、いかによく子供を見てくれているのか分かる。文句なしにいい先生だと思う。こういう人柄があっての人気なのだと、宮崎は思っている。
「さくらちゃん、おはよぉ。おままごとしよ?」
「みみちゃんおはよぉ! いいよ!」
仲良しの子に呼ばれて、さくらは足早に園内へ入って行く。
「パパ、いってらっしゃい!」
忘れずに手を振ってくれるさくらに、「いってきます」と自分も手を振り返す。
さくらが見えなくなった後、あきら先生に声をかけた。
「帰りは私ではなく、妻が迎えにきますので」
「珍しいですね。分かりました。お仕事ですか?」
「学生が懇親会に招待してくれて。せっかくなので顔を出そうかと。あ、時間はいつもと同じ頃になると思います」
「分かりました」
最後にもう一度「よろしくお願いします」と頭を下げて、宮崎は保育園を後にした。そのあとは、また自転車を走らせ、駅に向かう。
宮崎が専任講師として勤める大学までは、電車で20分。駅を出てすぐのところにある。
「あ! 宮崎先生! おはようございます!」
駅構内で後ろから声をかけられ振り向くと、1人の男子学生がこちらに歩いてくるのが見えた。
「吉良くん、おはよう。早いね」
「今日一限からなので。眠かったですけど、がんばって来ました!」
冗談ぽく言って、吉良は快活に笑った。
吉良は大学の学生で、今は2年生だ。宮崎が顧問を務める写真サークルに所属していて、今日の懇親会に誘ってくれた張本人でもある。
校則が厳しい男子校で、さらにスパルタな野球部に所属していたらしい。その習慣が卒業して2年経った今も抜けないらしく、髪の毛は短く、清潔に切りそろえられ、色は黒のままだ。本人曰く「伸ばしたり染めると落ち着かないし、怒る人はもういないのに怒られそう」ということらしい。そう話していた時の顔が本当に怖がっていて、宮崎は笑ってしまった。
朝練が毎日あった影響も残っているようで、朝にいつまでもダラダラするのも苦手らしい。これも「怒られそう」という理由で、運動部を辞めた今も、毎朝ランニングをしてから学校に来るらしく、体型は今でも立派なスポーツマンそのものだ。
性格も理想のスポーツマンのようで、爽やかで、屈託ない笑顔でいつでもにこにこしている。友達も多く、人望も厚い。真面目で裏表のない性格が、人受けするのだと思う。
「今日、4限終わったら皆で迎えに行きますね!」
「本当に僕も行っていいの? 邪魔にならない?」
「何言ってるんですか。先生と呑めるの、みんな楽しみにしてるんですよ」
「もちろん俺もです」と笑う。立ち振る舞いや言葉遣いはしっかりしているのに、この人懐こさが子供っぽくて可愛らしいと思う。20歳の男に、可愛いなんて失礼かもしれないが、小動物を見ているような気持ちになる。
そのあと、吉良は教室に、宮崎は研究室へそれぞれ向かった。
授業や論文の準備、教授の手伝いに追われているうちに、あっという間に夕方になり、吉良たち学生が迎えにきた。
懇親会の会場は、大学から少し離れたところにある、雰囲気の良い居酒屋だった。
店の壁にはL判の写真が貼られ、その下にお酒の名前が書かれた紙が貼られている。
「このお店の店主が写真好きで、色んなところに旅して写真を撮ってるんですよ。それで行った場所に因んだお酒が、写真と一緒に月替りで楽しめるんです。いいでしょう?」
吉良が説明すると、自然と拍手が起こった。宮崎も思わず拍手していた。
「よくこんな店知ってたな」
「前、知り合いに連れてきてもらったんだー。せっかく写真サークルの懇親会なんだから、写真が楽しめるところがいいなって思って」
その言葉にまた拍手がおこる。「やるぅ」と学生がはやし立てると、吉良は少し照れながらも嬉しそうにしていた。
座敷に通してもらうと、さっそく各々気になったお酒を頼み、みんなで乾杯する。
この写真サークルは本当に写真好きな学生ばかりなのもあり、すぐに壁の写真についてで場が盛り上がった。吉良を含めた男女7人が、あの構図が、レンズが、絞りが、と楽しそうに鑑賞しているのを、宮崎は時に会話に入りながら、楽しく眺めていた。
(学生たちだけの気兼ねない飲み会に水を刺さないかと不安だったけど、来て良かったな)
改めて吉良のナイスチョイスに感心する。さらに、吉良はまだ20歳なのに、自然に宮崎を上座に通し、飲み物や食事に気を使ってくれていた。あまりにも出来すぎて、先ほどから感心の念が止まらない。食事の所作からも、育ちの良さが見て取れた。
(自分が若い頃はこんなに出来なかったな)
自分の若い頃と吉良を比べて苦笑いしていると、通路から50代くらいの男性がひょっこり顔を出した。
「透君! また来てくれて嬉しいよ! はい、これサービス」
「店長さん! そんな、悪いですよ」
「なにいってんの、透君ならいつでも大歓迎だよ」
ちょび髭の店長が豪快に笑いながら、サービスのおでんをテーブルに置く。昆布の香りがふわりとかおる、だしの染み込んだおでんに学生たちが「わあ」と喜ぶ。
「ありがとうございます!」
「いいよいいよ。それにしても、写真サークルの飲み会なんて、俺も仕事サボって参加したいくらいだよ」
店長の冗談に全員笑う。店長は「じゃ、楽しんで!」とすぐに座敷から出て行った。本当に忙しいのに、わざわざ顔を出してくれたのだろう。
「いい人だね」
宮崎が吉良に声をかけると、吉良は自分が褒められたように、嬉しそうに頷いた。
「そうでしょう? 前来た時に写真の話で盛り上がって、それ以来飲みにくるとすごく良くしてくれるんです」
ありがたいです、と吉良は笑った。
「これも君の人柄だと思うよ。吉良君が人を大事にするから、周りも君を大事にしてくれる」
酒で気が大きくなっているのか、少しキザなことを言ってしまった。若者に引かれないかと少し不安になったが、吉良は「ありがとうございます」と笑った。そして照れ隠しなのか、ぐっと酒を煽った。
「少しお手洗いに行ってくるね」
酒も周り盛り上がってきた頃、宮崎は学生たちに告げて座敷を出た。トイレに行き、そのまま座敷には戻らずに店長に声をかけた。
お店に来てもうすぐ2時間。いい時間だし、そろそろお開きになりそうな雰囲気だ。もう注文もないだろうと、宮崎は「お会計お願いします」と言った。
店長は手早くレジを打つと、レシートを宮崎に手渡した。
「透君の先生ですか? 彼、いい生徒でしょう」
「ええ。今日も感心してばかりでした」
「分かります。あの子は本当にいい子だ。初めて来たときも大してうまくない俺の写真を、めちゃくちゃ褒めてくれて、もう可愛くて仕方なかったですよ!」
がはは、とまた豪快に笑う。
店長の写真を褒める吉良の姿を容易に想像できて、宮崎は微笑ましくなった。
「吉良君は結構来てるんですか?」
「ええ。いつもは1人か、お兄さんと一緒なんですよ。友達を連れてきたのは初めて見たなあ」
「へえ、お兄さんと」
兄弟がいたとは初耳だ。だがあの人懐こさは、もしかすると弟性かもしれない。言われてみるとすんなり納得できてしまう。
「すごい仲良しですよ。しかも2人ともイケメンなもんだから、そのときばかりは、うちの店
がホストクラブになったんじゃないかと思いますねえ!」
その冗談にまた笑う。なんとも気さくな店長だ。これ含め、本当にいい店だなと改めて感じた。自分も通ってしまいそうだと思いながら、宮崎は座敷に戻り、引き戸を開ける。
するとなにやら雰囲気が変わっていた。戻ってきた宮崎に傷づいた女学生が「先生」と不安げな顔で声を上げる。
「吉良、潰れちゃいました」
「ええ?」
ついさっきまで普通だったじゃないか、と見れば、真っ赤な顔で眠りこける吉良が目に入る。確かに、これは酔っ払って寝ている。
「吉良、突然バッテリー切れるんですよ」
「ほんと不思議。直前まで全然普通なのにね」
「起こそうとしたんですけど、全然起きなくて……」
どうしましょう、と学生が唸る。
「誰か吉良君の住所知ってる人は?」
住所さえ分かればタクシーで送っていける、と思いついたものの、全員が首を横に振った。
「家には行ったことなくて……」
そう学生が答えたと同時に、座敷に、有名なクラシックのメロディが流れた。見ると吉良の手に握られたスマートホンが震えている。
画面に『兄さん』と映っているのが見え、宮崎は別の学生にスマホを取ってもらい、通話ボタンを押した。
宮崎が「もしもし」と言うよりも早く、低い男の声が聞こえてきた。
『透、今どこにいる?』
言葉自体は何のトゲもないのに、声がピリピリと怒気を孕んでいて、宮崎はどきりとした。
「あ、すみません、わたくし、吉良君の大学の講師で宮崎と申します。今日、サークルの懇親会だったのですが、吉良君が酔い潰れてしまいまして……」
『先生でしたか、失礼致しました。弟が御迷惑をおかけして申し訳ございません。すぐに迎えに参りますので、お店の名前を教えて頂いてもよろしいですか?』
最初感じた緊張感が嘘のように、電話越しの兄は物腰が柔らかかった。勘違いだったかと思いながら、店の名前を告げると、電話の向こうが静かになる。
「もしもし?」
『……ああ、すみません。その店なら分かりますので、10分ほどで迎えに行きます。では、失礼します』
早口に言われ、一方的に電話が切れる。不思議に思いながらも、「お兄さんが迎えに来るって」と学生に告げた。
吉良の兄はちょうど10分後に店へやってきた。
店長に案内されて座敷に入ってきた吉良の兄を見て、宮崎は目を丸くした。
「あきら先生?」
「さくらちゃんのお父さん……? ああ、そういえば宮崎って」
電話では向こうの声がこもって聞こえるので気付かなかった。
「先生、知り合いなんですか?」
「娘の通ってる保育園の先生なんだ」
学生が「偶然〜」とどよめく。
(俺が一番びっくりしてるよ)
こんな偶然あるのか、と宮崎は驚きを隠せない。
「すみません、弟が御迷惑を……」
「いえ、今日は吉良君が幹事になって、お店選びなど色々と計画してくれたので、こちらこそ色々世話をかけてしまいました。私の目が行き届いていなくてすみません」
「へえ……透が……」
あきら先生の声に、また怒気がこもったような気がして「あきら先生?」と、思わず声をかけてしまった。するとはっとしたように、また笑顔になる。
「いえ、すみません。では失礼致します」
あきら先生は早口にそう告げると、吉良を背負って座敷を出て行った。
「吉良君のお兄さん、かっこよかったね」
「結構似てたなー」
2人がいなくなったあとの座敷は吉良の兄の話で盛り上がった。
(たしかに、言われてみれば似てたな)
今までは関わりのない他人だと思っていたので、2人が兄弟だと思い至りもしなかった。しかしいざ兄弟なのだと分かると、確かにそう見えた。
「あ!」
ざわつく中、女子学生が声を上げた。なんだろうと見ると、その手には吉良のスマホが握られていた。状況を察して誰もが「あっ」と口を開ける。
2人が店を出てまだそんなに経っていない。そう遠くには行っていないはずだ。
「僕が追いかけて届けるよ。いい時間だし、これを返して、僕はそのまま帰るね。会計はしてあるから、好きな時に出なさい」
「そんな悪いですよ! 私たちが誘ったのに」と言ってくれる学生たちを宥めながら、宮崎は靴を履いた。宮崎は十分に楽しませてもらったし、学生に払わせるわけにもいかない。
「お帰りですか?」
店長に声をかけられ、お礼を言いながら、2人がどっちに歩いて行ったか尋ねる。駅とは反対の方に向かったと教えてもらい、また来ますと言って店を出た。
駅の反対側は小さな住宅街がある。そちらに向かって行ったと言うことは、この辺りに住んでいるのだろう。
(人通りも少ないし、走ればすぐ見つけられそうだ)
五分程走り、住宅街の入り口にある横断歩道を渡ると、緑豊かな公園があり、その公園に沿うようにして、二手に道が分かれている。
走ったせいで大分息が上がっていたので、人気のない公園の入り口で息を整える。夜も遅いし、この辺りには宮崎しかいない。
汗を拭い、どっちに行ったんだろう、と呟きながら宮崎はハッとした。
(この電話であきら先生に連絡すればよかったんじゃないか)
なんでこんなことを思いつかなかったのだろう、と悔しい気持ちになりながら、宮崎はポケットから吉良のスマホを出した。
その直後、公園の森の中から、ボソボソと人の話し声が聞こえて来た。
誰もいないと思っていたので、宮崎は驚いて息を呑んだ。
(な、なんだ……人がいたのか)
昼間に活気があるから尚更、夜の公園というものは気味が悪いものだ。そんな中で、姿がないのに声だけ聞こえてくるとなると、やはり不気味だった。
宮崎は人の姿を見つけようとして、声がした公園内に足を踏み入れた。しかし人の姿はどこにもなく、宮崎は怖くなってすぐに公園を出た。
公園の外側の歩道を歩きながら、もう一度吉良の携帯を取り出す。
(と、とりあえず、電話しよう)
そう思い、スマホの電源をつけようとボタンに指を掛けた。
「──行ったよ」
公園を囲む柵を挟んだ向こうの森の中から、はっきりと人の声がした。いつの間にか近いところに来ていたらしく、声はすぐそこから聞こえてくる。低い、男の声だった。
(よかった、やっぱり人がいたのか)
ほっとしたのも束の間、その声は「透」と言った。
(もしかしてあきら先生と吉良君か?)
「大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ない……」
その話し声はやはり2人のものだ。
よかった、間に合ったのだ、と安堵し、2人に声をかけようと宮崎は口を開いた。
「あっ」
艶やかな声に、宮崎は驚いて動きを止めた。
ぐちゅ、と水の音が聞こえてくる。
「大丈夫じゃないんだ……でも、ごめんね。……やめてあげない」
「あっ、んんっ」
その声が喘ぎ声だと気付いた瞬間、宮崎は持っていたスマホを落としそうになった。
その声は確かにあきら先生と、吉良のものだった。
(喘いでいるのは、吉良、なのか……?)
信じられないでいる宮崎の耳には、疑いようのない男の──吉良の喘ぎ声と、水音が聞こえてくる。
「俺はね、怒ってるんだよ、透」
あきら先生の声は、甘くねっとりとして、言葉の通り、微かに苛立ちを含んでいた。
「あそこは、透の20歳の誕生日に一緒に行った特別なお店だったのに……それなのに、別の男や女を連れて行ったりして……酷いなあ」
「ごめ、なさ……」
「ほんとに思ってる?」
「おも、ってる、んあああっ」
森の中から、一際甲高い声が上がる。
「嘘」
「うそ、じゃないっ、うそじゃないから、ああっ、あっ、あっ、そこっ」
「なに? 気持ちいいの?」
ぐちゅぐちゅぐちゅ!と水音が激しく鳴り、それと一緒に「ひあああっ」と甘く濡れた悲鳴が聞こえる。
宮崎はそれを、信じられない気持ちで聞いていた。
屈託なく、からりと笑う普段の吉良は、性的な物事とはかけ離れて見えていた。少なくとも、宮崎が知っている吉良は、そういうこととは無縁そうで、純粋で真白な吉良だ。
本当に、この森の中にいるのは吉良なのか?
男の──しかも兄によって、甘ったるい声で喘がされているこの男は、吉良なんだろうか?
そして相手の男も、本当にあきら先生なんだろうか?
弟を喘がせるその手で、あきら先生は園児たちに接しているのか?
その手で、子供たちの頭を撫で、抱き締めているのか?
そう考えると宮崎は猛烈な吐き気に襲われた。
分からない。分かりたくない。宮崎は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「どこが、何でどうされて気持ちいいのか、言ってごらん」
「ナカっ、おれのなかがぁ、兄さんの指でっ、んんっ、かき回されて、あああっきもちいいっ」
「……全然だめ」
「あああんっ、やだっ、そこじゃなっ」
「そうだよね、透がびしょびしょに感じちゃうイイとこは、ここじゃないよね。でもね、俺が透に言って欲しいことも、それじゃないんだよ。さ、もう一回だけチャンスあげる。ほら、言ってごらん」
「やあっ、やだ、だってっ、だってっ、にいさんっ、おねがい、いじわるしないでぇっ」
「……透はワガママだね。仕方ないなあ」
次の瞬間、宮崎の手の中で、吉良の携帯が震え出した。慌てて、宮崎はバイブレーションをオフにする。
画面には『兄さん』と文字が浮かんでいる。
どうしてこのタイミングで。
ふと、嬌声も水音も消えていることに気づき、宮崎は胸騒ぎがした。
電話はいまだにかかったままだ。居酒屋では出ることができた『兄さん』からの着信に、宮崎はどうしても出ることができなかった。逃げ出したい。しかし感じたこともない恐怖に、宮崎は立ち上がることもできなかった。
しばらくして、電話は止んだ。やっと諦めたと、ほっと息をついた宮崎の手の中で、携帯が短く震えた。
『さくらちゃんのお父さんは、盗み聞きが趣味なんですか?』
そのメッセージを見た瞬間、宮崎は携帯を放って逃げ出していた。
気づいていた。気づかれていた。
全速力で走っているというのに、冷たい汗が止まらなかった。
訳も分からず走り続けて、体が先に限界を超えた。突然膝が折れ、コンクリートの道路に転がり、あまりの不快感に宮崎はその場で吐いた。
*
革靴がコンクリートを蹴る音が、遠ざかって行く。
「……よかったの?」
明は下半身を露出した状態で、木に手を付く透に声をかけた。透の白い肌はこの暗がりでも、白く光っていて、艶かしい。そっと背中を撫でると、それだけで透の敏感な体がぴくりと反応する。可愛らしいその反応と、手のひらに吸い付く肌に、明はたまらなく興奮した。
「いいよ、もう、サークルもやめるし」
「そう……」
自分もあの保育園辞めなきゃなあ、と思いながら、明は透の中に入れっぱなしだった指を動かした。ぐちゅ、と曇った水音が鳴り、透が「あっ」と微かに喘ぐ。
「邪魔者はこれでいなくなったから、早く透の可愛いおねだり聞かせて?」
耳許で囁くと、ナカがきゅっと締まるのが分かった。
「俺の声に感じてるの? かわいい……」
透が首をねじって振り返った。その目はとろん、と蕩けながらも情欲に燃えている。明はごくり、と息を呑んだ。
「“おにいちゃん”……」
掠れた声で呼ばれて、明は自分の陰茎が一気に膨れ上がるのを感じた。
「おにいちゃん、はやく、おにいちゃんのおっきいので、俺のナカめちゃくちゃにして……っ」
「っ、かわいい」
明は指で、透の中を激しく掻き回した。コリコリとしたシコリを指でいじると、面白いくらいに透の体が痙攣する。
「ああああっ、おにちゃっ、ああっ、きもちいいよおっ」
「知ってる」と明はほくそ笑んだ。
透の蕾は熱く熟して、明の指をきゅうきゅうと食んだ。指を引き抜こうとすると、阻むように内壁が締まり、指の隙間から淫液が漏れて糸を引く。
「おにいちゃん……っ」
切ない声で透が自分を呼ばう。この声が甘えたいときの声だと分かっている明は、透の中から指を抜き、自分の方へ体を向かせた。
透が首に手を回し、キスを強請ってくる。よだれでしっとりと湿って滑る唇に、明は吸い寄せられるようにして、自分の唇を重ねた。開いた口に舌を入れ隅々までなぞると、透がくぐもった声を漏らす。
キスをしながら、明はベルトを緩めて自分の陰茎を取り出した。固くなって上を煽るそれを、透の蕾に充てがうと、透が小さな声で喘いだ。
「充ててるだけなのに感じちゃってるの? かわいいね、透」
よだれを垂らしながら、中へ誘うように収縮する健気な蕾に、明は堪らなく興奮した。
透の瞳は公園の電灯の微かな光の中で、情欲の色に膿んでいた。その顔を見つめたままぐっと腰を押し進める。
「ああああ──っ!」
中はビクビクと痙攣しながら、嬉しそうに中へ中へと明の昂りを迎え入れた。
背を逸らして空を仰ぎながら喘ぐ透の白い首に、明は獣のように噛み付いた。すると透は一層高い嬌声で鳴き、中が激しく痙攣したと思うと、自身の欲を吐き出した。
「なに? 噛まれて出しちゃったの?」
「んん、あっ、ごめ、なさい……っ、許して……っ、ああんっ」
明が腰を打ち付けると、透はあられもない声で鳴く。
「いいよ、許してあげる。僕がお前を許さなかったことなんて、今までたったの一度もないだろう?」
「あっあっ、あんっ、ああっ」
「お前が僕の彼女を寝取った時も」
「あんっ、んんぅっ」
「僕を初めて誘った時も」
「んっおにいちゃっああっ」
「お前のせいで僕が父さんと母さんに勘当された時も」
「んああっあっああっ」
「今日もお前のせいで僕は仕事を失うけど」
「おにいちゃ、んんっ」
「今までもこれからも、お前が僕から何を取り上げても、お前を許してあげる」
「おにいちゃんっあああっ、きもちい、っあん、あっ、きもちいのぉ、おにいちゃんっ」
「ん、いい子だね。おにいちゃんも、気持ちいいよ」
森の中に、喘ぎ声とだらしない水音と、肌がぶつかり合う音だけが響く。外なのに、まるで2人だけの世界になったようだった。
明が腰をぐっと押し付けると、透の中のもっと深いところに自身が入って行くのが分かる。
「ああああっソコっ、ソコだめっ、だめだめだめっ、あああっ!」
いやいやと首を振りながらも透の体は嬉しそうに震えた。びくびくと痙攣しながら達して、陰茎から力なく精液が漏れている。
本来暴いてはいけない透の深いところに入り込む悦びに、明も達しそうだった。ぐっと堪えて、ギリギリまで引き抜くと、強く打ち付けてまた押し込む。
「ああっ、イッ、イッてるっ、ああんっおにいちゃんっ、イッてるってばぁ!」
「もっとイッて。もっと僕を感じて……透っ」
入り口近くまで引き抜いて、奥の奥まで突き込む行為を何度も何度も繰り返した。透はよだれをだらしなく垂らしながら厭らしい声で喘ぎ、何度も達していた。
透の蕾のヒダは赤く捲り上がり、腸液と自分の先走りが混じり合った液体が止めどなく溢れ、白く泡立って濁っている。透はピンク色の乳首をピンと立たせて、苦しそうに胸を喘がせていた。どこを見ても酷く淫靡な光景に、明は自分の限界が近づいたのを感じた。
腰を打ちつけながら透の乳首を口に含むと、中がまた細かく震えて、達したのだと分かった。構わずに強く吸うと、さらにぎゅうぎゅうと中が締まる。
「ああっ、おっぱい、きもちいいのぉ! あんっあああぅう」
「っ、あ、僕もきもちいい……っ」
がくがくと腰を振り、自分を追い込む。容赦のない出し入れに透は叫ぶような嬌声をあげて乱れた。
「ああんっあああああああっ」
「とおるっ、透っ、イクよ……っ、ん、イク……っ」
「おにいちゃんっ、あああっ」
最奥に自身を押し込み、明は達した。
中で出された精液に歓喜しているかのように、透の中は収縮した。
孕めもしないのに子種が漏れないようにするいやらし透の身体。
「んん……ナカ、あつい……」
熱に魘されてぼんやりした瞳をした透が、うわ言のように呟く。
「おにいちゃん、」
「……?」
「だいすきだよ……だから、ずっとそばにいて」
それは呪いの言葉。この言葉が、明から「透」以外のものを尽く奪っていく。
「僕もだよ……透」
きっとこれからも、生きている限り、それは続くのだ。
明は迫ってくる唇に応えるまま、透の唇を食んだ。
*
電話が鳴る音が聞こえて、透は目を覚ました。
霞んだ視界で時計を見ると、まだ夜明け前。ふと横を見ると、隣に寝ていたはずの兄が消えていた。リビングに繋がるドアの隙間から光が漏れてるので、お手洗いにでも行っているのだろう。
携帯を手に取ると、『母さん』と映し出されていた。文字が浮き上がる画面は所々割れている。昨晩、宮崎という大学講師が落としたせいだった。
通話ボタンを当てて耳に当てると、『透?』と優しい声が聞こえてくる。
「僕だよ。どうしたの、まだ5時前だよ」
『そ、そうだよね、ごめんね透』
「いいよ。なに? また不安になちゃったの?」
「ええ、そうなの」と母は言った。
母は時々、こうして時間も構わず電話をかけてくることがある。透の身を案ずる電話をかけてくるのは、常識的な時間帯にかけてくる父も同じだった。
透の両親は「とある事件」がきっかけで、過剰なほど過保護になってしまった。大学に通うために実家を出た今も、こうして毎日電話が掛かってくる。加えて透は起きた時、家を出る時、学校に着いた時など1日に何度も両親にメールを送ることが義務になっていて、それがここ2年、毎日続いていた。
「大丈夫だって言ってるじゃん、そんなに心配しないでよ」
『で、でも、あなたの家や大学からあの子の家は近いんでしょう? 家に押しかけて来られてないか不安で……。本当に大丈夫なの?』
「大丈夫だよ、なにもない。あいつとはあの事件以来会ってないし、心配しないでよ」
でも、と引き下がらない母親を適当になだめて、一言二言言葉を交わし、透は電話を切った。
携帯をベッドの上に放り、横になる。
「お前らがいっちばん邪魔なんだよ……」
どろり、と後ろ暗い感情が押し寄せてくる。同時にベッドルームのドアが開いて、兄の明が戻ってきた。
「起きてたの。大丈夫? 水持ってこようか?」
自分を気遣ってくれる明の優しさが嬉しい。透は首を振り、代わりに手招きをした。
ベッドに戻ってきた明に軽くキスをする。
「なに? どうしたの?」
明は甘く微笑みながら、透の頭を撫でた。
明は透と血が繋がった実の兄で、恋人だった。
(いや、恋人なんて、甘ったるいもんじゃない)
こんなに歪んだ──歪ませてしまった愛を、恋とは呼べない。
「母さんから、今電話があって」
そう告げると、明は一瞬、傷ついたような顔をした。しかし1秒後には笑顔に戻る。
「そうなんだ。なに? また心配になったって? 俺がお前に会いに行ってないか」
「うん」
「まあ、ある意味あの人の勘は当たってるのか」
明は自虐的な笑みを浮かべた。その表情に兄がまだ傷ついたままなのだと分かって、透は明に抱きついた。
明は4年前、親に勘当されている。
当時実家で暮らしていた明が高校生だった透を犯したのを、親に見られたのだった。そしてそれは同意の上の行為ではなく、レイプだった。制服は破られ、透の秘部から精液と共に血が流れ、殴られた顔は赤く腫れていた。
透は病院に搬送され、明はその日のうちに勘当され家を追い出された。大事にしたくないという透の意見が尊重され、警察沙汰にもならなかったが、心に深い傷を負った透は不登校になり高校を1年留年した。その後ゆっくりと回復し大学に進学したものの、過度な心配性になった親からさっきのように連絡が来るのだった。
というのは、「事件」の表向きの話。
(本当は僕が、兄さんを犯した……。兄さんを狂わせて、人生をめちゃくちゃにさせて、全部全部、僕が奪った。……僕以外のものを、全部)
そうまでしても、兄を手に入れたかった。結果的に、自分を選ばせるために自分以外のもの
の全てを、兄に捨てさせたのは紛れもない透自身だった。
(でも、今すごく幸せ……)
大好きな兄と共に暮らし、大好きな兄に体の奥の奥まで貪られる日々は、まるで天国のようだった。
この楽園を失わないように、透は明に魔法をかけ続けている。
明には透しかいない孤独な人間なのだと、そう思わせ続ける魔法を。
魔法にかかった明は、たった1人自分を愛してくれる透に、異常に執着する。透を離さないために、ほかのどの人間も簡単に捨ててしまえるし、仕事だって辞められる。
(僕だけ、僕だけを選んで)
透の後ろにはいつだって、薄暗い残酷な影が背中合わせに張り付いている。その影は時々、透の欲望を叶えるランプの魔神となって現れるのだ。
あの日、兄を手に入れるために、自分の顔を金属バットで殴りつけてレイプを装ったように。兄の恋人を寝取って、その写真で彼女を脅して別れさせたように。初めて兄を襲った時のように。
(僕だけ、愛して)
──僕しか側にいない、可哀想な可哀想な兄。
でもそれでいい。捨てて捨てて、何もかもなくなってしまっても、自分がいるのだ。だから兄は幸せなのだ。
もちろん、自分も。
「だいすき、おにいちゃん」
透は兄に、もう一度キスをした。
*Dear,my BROTHER
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