16 / 16
第16話
夏の訪れは唐突だとこの時期匡樹は毎年思う。
世間が桜桜とひとしきり騒いで梅雨が終わる頃にはもう既に夏の気配がそこら中に潜んでいる。
そして、あれいたの? と言われることに怒って後はどんどん存在を強くしていくだけだ。
もうそろそろ六月も終わる。
さすがに薄手のスーツにかえなきゃな、と思いながら以前まで足繁く通った道のりを進む。夏の衣類、どこに仕舞ったっけ。三年分の荷物をごっそり連れて引っ越したからまだ段ボールが片付いていない。
今回は木造建築のマンスリーではなく、二年契約の敷金と三ヶ月分の家賃を一括で払った。加えて財産分与も終わったので貯金はずいぶん寂しくなった。
保のマンションが見えてきた。インターフォンで呼び出してみるが、答えはない。五階の部屋を見上げると、窓が半分開いているから遠くには行っていないはずだ。
離婚は、いったん決まってしまえばスムーズだった。
不妊治療をやめる匡樹といるよりも、志保は別れる道を選んだ。子供がどうしてでも作りたい人と、作りたくなくなってしまった人の末路。これが世に言う『方向性の違い』というやつか。
その決断には一言では言い表せない様々な出来事や複雑な感情が沢山あったはずなのに、なんて簡単な表現であろうか。
たまに芸能人同士の破局の際に流れる報道もきっと当人たちはこんな気持ちで聞いているんだろうなと、知った気になってみる。
しばらく待っていると透明のビニールにくるまれたスーツを携えてこちらに向かう人物がいた。遠くでこちらに気づくと、立ち止まる。匡樹は動かない影に近づいた。
もう暑いくらいの風でかさかさとビニールが揺れる。
「一色さん、ひさしぶり」
「…何やってんの」
ぶっきらぼうに言い捨てられてしまう。高鳴っている心臓の音が聞こえてしまいそうだけれど、ここで帰るわけにはいかない。
「ピザの配達始めてさ」
明らかにそんな格好ではないし、第一何も持ってない。
「あっそ」
面白くもない軽口に保は冷笑してさっさと通り過ぎようとする。慌てて引き留める。
「嘘です、一色さんに会いに来ました」
「もう会わないって言ったよね?」
「どうしても、言いたいことがあって。家行っていい? 玄関まででいいから」
約束通り玄関まで匡樹を通すと、保は荷物を置いて振り返る。
「で、…なに」
「その前に、ちょっとこれ見て欲しい」
四つ折りにしてポケットに入れていた紙切れを取り出す。
「え?」
「俺の戸籍。ここ見て」
「…離婚日、五月二十三日…はあ? なにこれ」
「先月離婚したんだ。決まったら思ってたよりずっと楽に進んだよ。子供もいなくて、分ける財産も微々たるものだったし」
「うそ」
「本当」
まっさらの左手を見せる。
「なんでだよっ! ちゃんと治ったじゃん。できるようになったじゃん…」
「そこなんだよ。ちゃんとできるようになったときにさ、改めて考えたんだ。このまま治療を進めてって子供ができて産んだとして、そしたら志保ともう一度前みたいな関係を取り戻せるのかなって。答えはノーだった。でも子供を作らないって選択を取ることは志保にとっては俺といる意味を失っちゃうのとイコールだから、まあお互い納得の結果だよ」
「ごめん…」
「なんで一色さんが謝るの?」
「こんなことになっちゃったのは俺のせいだ」
「全然、一色さんのせいじゃない…ってこともないけど。でも離婚はちゃんと自分たちで決めて、決着つけたことだ。多分一色さんがいなくても、遅かれ早かれいつか全部ほどけてた。もうずっと、ほつれた糸をかき集めてただけだったから」
「…そう」
「で、言いたいことっていうのはね。…一色さんが好きだ」
「…は?」
「本当は一色さんち追い出されるとき、あの場所で言いたかったんだ。でも怖かった。そもそも順番が違うから、あそこで俺ひとりが身勝手に好きだって打ち明けたところでどうにもならない状況だったし、一色さんに迷惑かけるに違いなかったから、言えなかった」
「今更、そんなしょうもないことわざわざ言うために来たの?」
「重要なことだよ。……だって」
意を決して一歩踏み込んだ。そして腕を掴む。
「あの日…最後に保が好きって言った気がして。それって、もしかして俺のこと? だったらいいなって、ずっと考えてたんだ」
捕まれてない方の手で、保は途端に顔を隠す。眉間に深くしわを刻んで、恥ずかしいのか困ったのか複雑そうな表情がちらりと見えた。あっ剥がれた、と思う。
「聞こえ、てたの」
「うん、途切れ途切れだったけど」
濡れてもいないのに、髪についた水滴を払うような仕草で頭を振ったかと思うと、今度は怒った表情に変わる。
「だったらなんだよっ? ああ、そうだよ。喜久川さんのことが好きだったよっ。だから戻してやりたかった。俺の薄っぺらな人生で何か少しでも、喜久川さんの役に立ちたかったんだっ」
匡樹は腕を引き寄せた。
「ごめん。もっと早く志保との別れを決断することだってできたのに、そしたら順番間違わないでただのバツイチからのスタートで済んだのに。俺が優柔不断なせいで一色さんにつらい思いさせた」
「もういいよ。バツイチだったらそもそも好きにならなかったかもしれないし」
「えっ、ひどい」
「そういう意味じゃなくって、…弱いとこ見たり悩んでること知って、そういう喜久川さんを、好きになったから」
「保」
掴んでいた腕をほどいて、保と向き合った。
「今までの責任取ってとか図々しいこと言いません。離婚したから付き合おうとか都合のいいことも言いません。でも、保を好きな気持ちに嘘はありません。だから…もしよかったら、またお友達から始めてくれませんか。俺と、もう一度」
保に向かって、頭を深く下げた。
ごめんね、ありがとう、お願いしますを全部一緒くたにさらけ出して腰を折った。
じっと無言で頭を下げていると、保が盛大に吹き出した。それから堰を切って笑い始める。
「なにそれ。なんの謝罪会見」
顔を上げ保を見ると、思いっきり破顔していた。口を大きく開けて、大笑いしている。そう、この笑顔だ。ずっと見たかった顔を、やっと見れた。匡樹もつられて口元をゆるませてみたが、うまく笑えているか自信はなかった。
「人のうなじなんて初めてみた。逆さまで。面白いから写真撮っていい?」
瞳が揺れている。それから一粒、はらりと水滴が落ちる。
「あれっ…」
拭った手を不思議そうに眺めている。
「なんだよ、おかしいな…」
衝動に耐えられず、保を抱きしめた。
「ちょっと、舌の根も乾かぬうちに何やってるわけ。友達から始めるんだろ」
それでもすっぽり収まった身体は抗わない。
「わかってる。でも今だけ。保が泣き止むまで」
「ていうか喜久川さん脱ED計画に向けた俺のあの努力は何だった? すっごい無駄骨折りじゃん」
「全然無駄じゃないよ。それで俺は色々踏み切れたんだから。それに、一色さんは俺っていう大きい魚釣ったんだし」
自分で言うかよ、の突っ込み待ちだったのに保はちいさく頷いた。
「大きすぎて、もったいない」
「…そんなこと、言っちゃだめだ」
これからはちゃんと、保に向ける気持ちを沢山表現しなくてはと心に誓う。どれだけ匡樹にとって大切な存在か保自身が認識できるように。それから、指を隠さないで済むように。
「あ、そういえばもうすぐ保の誕生日じゃん」
「ああ。よく覚えてたな」
「新しいプレゼント考えなきゃなー。ハートのステッキはもう買えないから」
「まだ引きずるか。まあちょっとなってみてもよかったかな、魔法使い」
「でも魔法使いじゃなくても、俺に恋の魔法はかけてくれたよね」
「真顔で言われると、壮絶に引く」
「それは、壮絶に傷つくなー」
保が低く笑う振動が、胸から伝わる。
「『それでも、生きていくしかない』」
いつかの言葉を、保は繰り返す。
「うん。生きよう」
不完全で、至らない二人で。
遺伝子を託す、方舟になれなくても。
ともだちにシェアしよう!