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いろちがいの幸福

 望んでる幸せに色があるとしたら、俺のは黒で、あなたのは白なのかなって。  二回に渡って行われた別れ話の最後に言われた言葉がそれだった。わけわかんねえよ、と思って、思ったそのまま口にもした。そうしたら、分かんないだろうなあ、と苦笑いされて、それがあんまりむかついたから、飲みかけのカフェオレのグラスも伝票もそのままに、さっさとその場を立ち去った。  あの時に言われた言葉を、もうすぐ別れてから半年経つというのに、未だにしばしば思い返してしまう。意味が分からないから余計になんども考えてしまうのだ。同時に、あの時テーブルの上に置き去りにしたカフェオレのベージュと、向かい合わせに座っていた男の外回りで小麦色に焼けた手首の肌色が重なって思い出されて、苛立たしさとなんとも言えない焦燥感が募った。  あのカフェも気に入っていたのに、偶然顔を合わせたらと思うとなかなか足が向かなかった。付き合う前から行きつけにしていた店とこんな形で疎遠になるなら、次付き合う相手は絶対に自分のテリトリーには入れたくないと思ってしまう。 「そんなこと考える前に、まずは次付き合う相手を探しなよ」  半年前に別れた相手の話を何度も聞かされて、いい加減うんざりしているだろう友人が呆れたようにそう言った。この友人とも、あの男と付き合うもっとずっと前からの長い付き合いになる。だからこそ、繰り返されるあの男の話に呆れる以上に驚いてもいるようだった。 「でも、良太がこんなに引きずるなんて珍しいね」 「引きずってない。俺はあのカフェに行けなくなったことが悔しいんだって」 「んなこと言って、どう見ても未練タラタラじゃん。スマホ貸してみ?俺が代わりに連絡先消してやるよ」 「……もう消した」  その言葉を無視して机の上へと伸びてきた手からすかさずスマートフォンを死守すると、やっぱり嘘じゃん、と友人は愉快そうに笑った。  本当に未練がないなら気にせず店にも顔を出したら良いだろう、という友人の言葉に従って、次の休みの日に俺は半年ぶりにその行きつけにしていたカフェを訪れた。 「おー、久しぶり。もしかして死んじゃったのかと思ったよ」  手動の重たいドアを押し開いて恐る恐る顔を出した俺を見たマスターは、まるで昨日も会ったかのような軽い調子で声を掛けてきた。  近所の老人たちが溜まる時間でもないからか、店内は閑散としていた。ちらりと目をやった窓際の半年前に俺たちが別れ話をしたソファ席には、スポーツ新聞を広げてコーヒーを飲む男性が一人。客はそれだけだった。ダウンジャケットを脱いでハンガーに掛けている最中に、一人?と聞かれたので無言で頷いた。 「カフェオレ……ホットで」  カウンターの少し高い椅子に腰掛けて注文をする。了解、と言いながら作業を始めたマスターから目線をずらして、奥の壁にかかっているカレンダーを見た。  最後に訪れたあの時から半年が経って、季節はすっかり冬だ。店の隅にはこの前に来た時はなかった古い石油ストーブが設置され、必死で狭い店内を暖めてくれている。  まだ10代だった頃から通い続けている店は、たかが半年疎遠にした程度じゃ揺るがない安心感があった。店に来ることで、別れ話をしたこと以上に、付き合っていた時の幸せだった記憶を思い出すのが辛く感じてしまうと思っていたが、そもそもこの店にはあの男と一緒にいた時期以外の甘い思い出も苦い思い出もこれでもかというくらいに詰まっているのだから、今更だった。  すぐに思い出せるのは大学時代、片思いしていたノンケの同期に思い切って告白したらこっぴどく振られた上に随分とひどい言葉で罵倒された。絶対にそいつの前では泣くものかと思って我慢したが、後々堪えきれずに死ぬほど泣いたのはこの店のカウンターだった。 「はい、どうぞ」  厚みのあるカップで出された甘くないカフェオレを慎重にすすって、ほっと息をついた。ラテアートをしようなんて気を一切感じない簡素な見た目と、カフェオレと言うよりもミルクコーヒーと言いたいような味に安心感がある。  数度カップを口に運び胃の中が温まってきたタイミングで、俺は思い切ってマスターに訪ねた。 「あの、あいつ店に来る?前俺と良く一緒に来てた……」 「ああ、彼?彼も最近は見ないかな。二人共別れたら来なくなっちゃって、薄情だよ」 「別れたって、知ってたの」  そもそも付き合っていることも特に伝えてはいないのだが、俺がゲイであることを知っているマスターは、いつも何となく恋人かどうかを察している。 「いや、だって。あんなに怒って一人だけ店出てったら、さすがに分かるよ」  マスターの言葉に、俺は何も言えなかった。確かに、別れ話をしていること自体も雰囲気で分かっただろうし、更に激昂して出て行った自分の態度はあまりにも明からさまだ。 「その節は、お騒がせしてすいませんでした」  あの時のことを思い出すと同時に、周囲のことを考えずにとった自分の行動を今更ながら反省した俺は、思わず頭を下げた。 「いいよいいよ。他にお客さんいなかったし。彼も、店出る時にずいぶん謝ってくれてたよ。……しかし、ここから見てる分にはうまくいってるように見えてたけどね」 「俺だって……」  俺だって、うまくいっていると思っていた。そう言おうとした途中で、マスター勘定、とソファ席に座っていた男性が伝票を持って入り口脇のレジへと歩いて来たので、会話は中断せざるを得なかった。手持ち無沙汰になった俺は、おとなしくカフェオレを啜る。  そして、会計を済ませた男性が店を出て行くのとちょうど入れ違いに、別の一人の男が入店してきた。男性が開いたドアをそのまま押さえて「すいません」と言うその声が聞こえた時に、俺は嫌な予感がしていた。  現れたのは、さっきまで話題にしていた俺の元カレ本人だった。その男が俺を見つけて驚いた顔をするより早くに、俺は入り口からカウンターへと急いで向き直り、ついでに両手で顔を覆って無言で嘆いた。 「えー、と……」  俺がいたことに気がついて困ったような声をあげている男に、マスターが先ほど帰って行った男性の使っていた席を片付けながら、声をかけた。 「はいはい、開けっ放しだと寒いから、早く入ってドア閉めて」 「あ、すいません。お邪魔します」  謝罪と共にすぐに閉められたドアが、開かれた時と同じようにカランカランと高い音をたてた。  隣の席に座ってから注文した一杯のブレンドコーヒーの豆が挽かれて抽出されるまでの物音がしている間は、互いに何も喋らなかった。  二人でこの店に来てカウンターの席に座るのは店が混んでいてテーブル席が空いていない時くらいだったけれど、そもそもこの店が混んでいること自体がほとんどないから、隣り合わせに座るのはもしかしたら二回目くらいかも知れない。  少しだけ首を曲げて盗み見るようにして見た横顔は、半年前からほとんど変わりはなかった。薄いタートルネックのセーターは、偶然にも初めて出会った時に着ていたものと同じだった。物持ちが良くもう3年くらい着ているというその紺色のセーターは、今4年目に突入したのだろう。俺たちの関係より長続きしているそのセーターは、確かにこの男に似合っている。そもそも俺は、信じられないくらいタートルネックが似合うその顔とスタイルの良さ、毛糸の下の意外な首の細さにすっかりやられてしまったのだ。  最後にこの店で向かい合った時は、そのすらりと長い首のラインがよく分かるシンプルなTシャツを着ていた。浮き出た鎖骨に沿うようにして下がっていたネックレスは、風呂に入る時も眠る時でさえも外さなかった。あの細いチェーンと小さな石は、今もそのセーターの下に潜んでいるのだろうか。俺なんかよりもずっと長い間、ずっと近くにいるそれは。 「ガン見してるね」  そう言われて、俺はハッと我に返った。じっと男の胸元辺りを見ていた俺を相手も見返していることにようやく気がついて、慌てて目を逸らし、意味もなくカウンターの上に置かれた砂糖の壺を見た。丁度同じタイミングでコーヒーが男の前に差し出されて、さきほどまでの沈黙に伴う緊張感も、少しだけ和らいだようだった。 「最近どう?新しい彼氏できた?」  その、内容の割に気軽過ぎる言い方の質問に対して、俺は無言を返答にした。2、3秒の沈黙で言いたいことを察した相手は「俺も、特にいないけど」と一人で会話を続ける。 「リョウさんは、結局なんで別れたと思ってるの?」 「それは……」  当時はっきりとした理由を言われなかった分、なぜ別れることになってしまったのかは、今の今まで嫌になるくらい考えた。付き合いだした頃の相手は大学生で余裕があったけど、就職して生活が変わってしまったから。俺の方が4歳年上っていう微妙な年齢差にジェネレーションギャップを感じたから。スーツで会ってる時は良かったけど、私服のセンスが合わなかったから。そもそも、俺はガチガチのゲイだけど相手はノンケだったから。興味本位で続いてた男同士の付き合いにもセックスにも飽きてしまったから……なんて、考え出したらキリがない。だって正解が分からないんだから。 「……俺が嫉妬深かったから」  全てを並べ立てるのは気が引けたので、どれも正解とは言い難いような回答の中から、適当に選んだ答えを口に出す。 「あ、そうなるんだ。なんか意外。っていうか、リョウさんが嫉妬深いって思ったことないけどな」 「それは、思ってもわざわざ言わないからだよ」  そうだったんだ、となぜか可笑しそうに相槌を打つ男との思い出を、俺は恨めしい気持ちで思い返していた。  満場一致のイケメンではないものの、高身長で痩せ型、黒縁メガネを掛けても地味な印象にならない顔立ちは、他人、特に女性の注目を本人が意識するまでもなく集めた。どこに出かけてもただ道を歩いているだけでも、時々すれ違う人がわざわざ振り向いてまでも目で追うことがあった。見ず知らずの女性が連絡先を書いた紙を渡してくるという漫画みたいな状況にも一度出くわしたことがある。そういえば、あれもこの店での出来事だ。とにかく、惚れた欲目を抜きにしても、モテる男であることは間違いがなかった。 「……今だから言うけど」 「それ、ほんとに言う必要あることか?」 「わかんない。でも、偶然会えたんだし、言わせてよ」  別れた相手の自分に関する打明け話なんて、絶対にロクなものじゃない。そう察した俺が止めようとするのも軽々と流して、男は勝手に話を始めた。 「俺はね、リョウさんの幸せに関わる俺以外の存在が、全部憎たらしくなっちゃったんだよね」 「この店もそうだけどさ、リョウさんって自分のテリトリーにすぐに入れてくれるし、大事にしてきたものも簡単に共有してくれたでしょ。それがすごく嬉しかったし、どれも俺にも合ってたけど、でも、なんかぽっと出の俺が入る隙なんてないような気にもなっちゃって……。それが嫌だった。この人の一番にはなれないかも知れないって感じが」  男が自分の手元のコーヒーに目を向けながら話していて自分の方を見ていないのをいいことに、俺はその横顔を眺めながら話を聞いていた。もう見ることはないと思っていたその顔は、どうしたって愛おしく感じてしまうものになっている。 「人付き合い、特に恋愛なんて、どんなに浅くてもその時が楽しければ良いってタイプだと思ってたんだけどね」  懐かしそうにそう言う男は、昔の自分を思い出しているのか、カップに落としたままの視線がどこか遠くを見ているものになっていた。それから少しの間を置いて、俺の方に目を向けた。肉付きが薄いせいかどこか腫れぼったく見える瞼に囲まれた、切れ長の目。そのまっすぐな視線に捕まえられてしまい、俺は目を逸らすタイミングを失った。 「なんで、っていうのとはちょっと違うけど、別れようと思ったタイミングは良く覚えてるよ」  男は、しっかりと視線を合わせたまま話を続ける。 「春に雀川の土手にお花見に行ったでしょ。その時にリョウさんが今年は散るのが早いな、って言った時、ああ俺やっぱりこの人と別れるかもなって思った」  雀川とは、今いる店の近所にある、なんの変哲もない川だ。学生の通学路にもなっている河原沿いの道の桜並木は、数少ない町の観光スポットでもある。とはいえ、そんなの日本中に似たような場所も光景も数え切れないくらいあるだろう。 「この桜の木は、もう何年もこの人に咲いたり散ったりの繰り返しを見られてるんだって考えたら、死ぬほど寂しくなっちゃってさ。さすがに自分でも、うわ、これやべーなって思ったよね」  はは、と自嘲なのかなんなのか良くわからない笑みを浮かべる男の頬には、えくぼがあった。笑った時にできるこのえくぼと消えそうなくらい細くなる目が堪らなく好きだったな、とそんなことを思い出す。 「確かにそれはやばいけど……」  けど、それを言ったら俺だって似たようなものだ。絶対に言わないけど。 「やばいでしょ?だから怖くなっちゃって。でも好きだから別れるのも嫌だと思ってたんだけど、夏に里帰りするけど一緒に行く?って言われた時に、ダメだってなっちゃった」 「あれは別に、旅行がてらって意味だよ。九州行きたがってたじゃん」 「分かってるけど、でも俺家族とか地元の風景とか想像しただけで嫌んなっちゃって」 「んなこと言われても……」   何を言ったものかと悩む俺は、沈黙を持て余しながら、曲線でできたコーヒーカップの細い持ち手を摘まむ骨ばった指がかすかに震えているのを見ていた。 その指に、単純に触れたいと、そして触れて欲しいと思った俺は、中途半端に残っていたカフェオレの残りを一口で飲み干した。すっかり冷めてしまっていたそれで喉の通りを良くしてから、言った。 「たとえばだけど、カフェオレは牛乳とコーヒーから作れるけど、カフェオレを牛乳とコーヒーに分けるのは無理だろ」  突然の例え話に、男はきょとんとした顔をしてはいたが、黙って耳を傾けていた。 「だから、俺たちが出会わなかったことにするのも無理だし。だからって、出会う前の自分のままで一緒にもいられないし」  着地点の分からないままに始めた話は、自分でも何が言いたいのかははっきりしていなかった。それでも、隠しきれない動揺が見え隠れしている相手の顔を見ていると、考え込む必要のないくらい自然と言葉が口から出てくる気がした。 「……珍しく先生っぽいこと言うね」 「一応先生だからな」  俺の職業を引き合いに出して揶揄おうとする言葉を受け流し、続ける。 「あと、やっぱりもう一回付き合おう。もう今の俺は、とにかくお前が一番好きなのはまちがいないよ」  半ば無理やり着地させた俺の提案に、視界の中で男は面白いくらいに目を丸くした。それから、はー、と感心したように長いため息を吐いた。 「相変わらず言うこと言うよね。童顔なのに」 「童顔は余計だろ」  たしなめる俺の言葉に笑う男は、ほとんど手のつけていないブレンドコーヒーのカップをソーサーから持ち上げて、言った。 「これ、飲み終わったら返事する」  その言い方は、最初に「付き合おう」と俺が告白した時の返事とまったく同じだった。あの時はこうやって待たされている時間中ずっと緊張で心臓がバクバクだった。でも、今の俺は、この男が嫌な時はすぐにはっきり嫌だと言う男だと知ってしまっているから、あの時のように緊張してはいなかった。むしろ、動揺を隠そうとしているのは相手の方だということも、分かってしまっている。  涼しい顔でコーヒーを飲む男が観念して答えを出すのをのんびりと待つために、俺はカウンターの向こう側に、カフェオレのお代わりを頼んだ。

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