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醤油を一気に飲むと死ねるらしい。体内の塩分濃度が上がってしまうことが原因らしいが、難しい理屈はよく分からない。とりあえず、死ねるらしい。
「え、死にたいの?」
テーブルの上にどんと置かれた醤油のボトルについて尋ねてきた同居人に説明すると、即座にそう聞き返された。
「いや、別に」
晴人は簡潔にそれだけ答えた。同居人の質問ももっともだが、実際に死のうとは思っていない。
「そうか……」
納得したのかどうなのか、それだけ言うと、航星は買い物袋を床に降ろし、中身を冷蔵庫に移し始めた。その音を聞きながら、晴人はテーブルの上に頭を乗せ、片頬をテーブルに押し付けながら醤油を眺める。プラスチックのボトルにぎっしりと詰められた、黒くてしょっぱい液体。
「スーツ皺になるぞ」
「ああ」
とっくに荷物整理を終え着替えた航星に言われ、返事をするが、晴人は一向に動く気配はない。やがてガスコンロが点火され、フライパンで何かが焼かれる音がする。香ばしい匂いが鼻に届いて、やっと重い腰を上げて部屋着に着替えた。
「ご飯よそっといて」
「おー」
手を洗って、ぱっぱと払いながら炊飯器の前に移動する。手を拭く時はタオルを使えといつも小言を言われるが、なぜか大した手間でもないその工程をめんどくさがってしまう。服で拭かないだけ大目に見て欲しい。
炊飯器を開けると、白米の湯気がほわっと上がる。しゃもじで二人分よそい、キッチンに隣り合うダイニングのテーブルに並べる。晴人がご飯を置く間に航星はメインとスープの皿をどんどん食卓に並べる。今日の夕飯は焼いた鮭にきのこのあんが掛けられたもの、野菜とベーコンのスープ。航星はいつも手早く二品は作る。
「いただきます」
「はい召し上がれ」
鮭にあんをたっぷりと絡め、ご飯と一緒に食べる。
「ん、今日も美味いです」
「よかったです」
航星は晴人の一口目の感想を聞いてから自分の食事に手をつける。それからは黙々とご飯を食べる。テレビではアクアリウムの特集をやっていた。
「熱帯魚って食えるのかな」
ふと思ったことを口にする。
「どうだろう。唐揚げとか煮付けにしたらいけるんじゃないか。試してみるか?」
「皮と骨ばっかで美味くなさそうだな」
「だろうね」
料理をしない代わりに、皿洗いは晴人がする。その間航星は本を読んでいた。
「何読んでんの」
「そして誰もいなくなった」
洗い終わった晴人が尋ねると、航星は本から目を逸らす事なくそう答えた。
「またミステリー?」
「そうだよ」
航星は好んでミステリーばかり読んでいる。
「ミステリーばっか読んで面白いのか?」
「面白いよ。興味ない?」
晴人にはミステリーなんてどれも同じように思えてしまう。事件が起きて、拗れて、それから解決。そうでないとミステリーとは呼べはしないけど。隙あらば航星は本を薦めてこようとするが、晴人が読み切った試しはない。
「人が殺されてばっかで読む気しない」
そう言うと、航星は肩を上げて少し笑った。
「重要なのはそこじゃないんだけど、まあ、そうだよなあ」
航星は本を閉じて立ち上がると、冷蔵庫からアイスを取り出して、一つを晴人に投げてよこした。バニラアイスの周りのチョコを剥がしながら食べる。
「前にテレビで見たんだけどさ」
パリパリと音をさせながら、航星が喋った。
「小さな魚を円形の水槽に入れると、ぐるぐる回るように泳ぐんだ。その水槽に少しずつ魚の数を増やしていくとさ、ある程度の数までいくと、何匹かの魚は自分から水槽に壁をぶつけて死ぬんだって」
航星は垂れそうになったアイスを舌で掬うように舐める。魚は何を思って壁に自分の体を壁にぶつけるのか。何も考えていないのか。
「自殺は魚と同じだって言いたいのか? 人殺しの方が人間らしいって?」
「そうじゃないよ。それにその言い方だと人間の方が魚より偉いみたいじゃないか」
「違うの?」
「どうだろうね」
結局なにが言いたいんだ。憮然とした気持ちで、晴人は残りのアイスを平らげた。
◇
ゆらゆらと揺れている。水の中だった。不思議と息苦しくはない。天井はぽっかりと丸く空いている。じわじわと水の温度が上がってきて、熱いくらいだった。それでもなぜか助けて欲しいとは思わない。やがて、水面の向こうに醤油のボトルを持った航星が見えた。醤油を晴人目掛けて垂らしてくる。濃口の色がぶわりと広がった。蓋をされ、辺りが真っ暗になる。ああ、醤油が染み込んできているな、と感じた。しばらくすると、蓋が開けられ、再び航星がやってきた。菜箸で挟まれ、皿の上に乗せられる。陶器の滑らかな肌触りが気持ち良かった。テーブルの上に運ばれる。手を合わせた航星が、箸を手に取る。腹の辺りを挟まれて持ち上げられた。大きな口が開いて、その中に運ばれる。歯が、腹に食い込んでいく。
そこで目が覚めた。
「煮物になる夢見た」
「煮物? 変な夢見たな」
朝パンを食べていると、不意に今日見た夢を思い出した。
「煮物になってお前に食べられる夢」
「何それやらしい内容?」
「は? 何でだよ」
「あ、いいんだいいんだ、気にしないで」
慌てて手を振って否定する航星を訝しんで見る。どうして煮物になることとやらしいことが繋がるのか分からない。
「ああ、でも……」
「でも?」
「……なんでもねえ」
食べられる瞬間はちょっと気持ちが良かったと、言うのは止した。
◇
足を滑らして崖下へ落ちていく。
「あっ」
それと共に音楽がなり、ゲームオーバーの文字。この画面をみるのももう何回目か分からない。晴人は首のコリを取るように回した。
「はあ……」
つまらないミスで死んでいく主人公。ゲームをやってもいまいち乗れない。今日はもう止めだと携帯ゲーム機の電源を切って布団の上に放り投げる。晴人も寝転んで腕を伸ばした。喉が乾いてキッチンに向かう。航星が欠かさずに沸かす麦茶をやかんからコップに注ぐ。ぬるい麦茶を飲みながらなんとなく点けたテレビからは、特に必要性のない情報が流れてくる。女優が食べる北の幸なんてどうでもいい。
窓の外は良く晴れていて、お出かけ日和だった。家に居るのが勿体なくなって、靴を履いて外に出る。暦は秋なのに、空は夏のように青かった。外に出たはいいが、どこか行く当てがあるわけではないので目的なく歩く。歩きながら、休みの日にまで外に出て疲れてどうするんだと思う。家でだらだらとしていれば良かったと後悔する。家に居たってすることはないのだけれど。
ふと、ホームセンターの看板が目に入る。少し歩くが、あそこに向かおうと目的地を決めて進む。冷やかしで店を回るつもりだったが、良さそうな太さのロープを見つけて購入する。ロープを買ってから、そういえば掛けるような梁がないなと気がついたが、すぐに天井にあったフックの存在を思い出す。借りた時からあった、天井に取り付けられたフック。おそらく部屋干し用の何かと思われる。あのフックで大丈夫だろう。
家に帰ると早速ロープを袋から取り出して広げる。長さは長すぎる程充分だ。目をつけていたフックにロープを引っ掛ける。少し強く引っ張ってみるがフックが取れる気配はない。いけそうだ。いつかやろうと思っていた結び方をメモした紙を財布から取り出し、その通りに結んでいく。
不器用が災いして手間取ったが、なんとか結び終わる。頭一つがすっぽりと入りそうな輪が垂れ下がった。
「何それ」
静かな声に振り向く。いつの間にか帰ってきていた航星が立っていた。結ぶのに夢中で気づかなかった。
「死ぬつもりなの?」
その顔からは、怒っているのか、呆れているのか、どうでもいいのか、読み取れなかった。
晴人は何も答えず、電球を変えるくらいにしか役に立たない小さい脚立に登った。縄の輪が目の前に来る。頭を通し、脚立から降りる。体が浮いて、喉にロープが食い込む。頭がかっと熱くなったかと思うと、ふっと落ちる感覚と共に地面に足が着く。バランスを崩して尻餅をついた。結び射目が解けたのだ。無性に可笑しくなって、堪えきれずに笑う。いつか気晴らしに試そうと思っていた、すぐ解ける結び目。無事成功したようだった。
「晴人、死んじゃったのか?」
「うん、そう」
治らない笑いの合間から返事をする。
「そうかあ……」
航星は、大の字に寝転ぶ晴人の側にしゃがみ込んだ。
「俺、晴人のこと好きだったんだ」
突然の言葉に、可笑しかった気持ちがどこかに吹き飛んだ。ゆっくりと言葉を噛み締めて意味を理解すると、じわりと涙が溢れてきた。
「お前と恋人同士だったら、もっといい人生だったのかな」
「うーん、それは難しい質問だね。いい人生の定義から話し合おうか」
「面倒だからやめとく」
「そうか、残念。いい人生かはわからないけどさ、もし俺と恋人だったら毎日晴人の好きなご飯作るし、天気の良い日はお布団干してあげるし、飲み会で潰れても嫌な顔一つせずに迎えにいくよ」
「……今とあんま変わんねえなあ」
「あれ、ほんとだ。じゃあプラスして、毎日好きって言うし、なんならどこが好きかも語ってあげる」
「うーん、それはいらない」
「ええ、ひどいなあ」
やわらかく航星が笑う。晴人は航星をじっと見つめた。
「なあ、どうして死ぬ前に言ってくれなかったんだよ」
「言わない方がいいかなって思ってたんだけど、死んじゃったなら墓前に言うようなものかなって」
「俺生きてるよ」
「うん、知ってる。抱きしめていい?」
腕を伸ばせば、航星の手が背中に回る。手の熱がじんわりと伝わってきた。晴人は溢れる涙をそのままに航星にしがみついた。
「今日はまぐろの漬け丼だよ」
「……ああ」
声はかすれ気味で目は腫れていて、気恥ずかしくてそっけない返事をするが、航星は気にしていないようだった。
「あ、醤油がないや……」
空のボトルを振りながら、すっかりインテリアと化したテーブルの上の醤油に視線が向けられる。晴人は何も言わずにそれを手に取り、中蓋を外した。濃い醤油の匂いが広がる。確かにこれなら一気に飲んだら死ねそうだと思った。そのまま航星に渡す。醤油はまぐろの切り身が入った容器に垂らされた。
どんぶりによそったご飯に、ほどよく漬かったまぐろが並べられていく。刻み海苔と白胡麻を散らして、山葵はチューブでテーブルに。味噌汁も用意して完成。
「いただきます」
「……いただきます」
白いご飯に、醤油に漬かったまぐろがよく合って、掻き込むように食べだ。
ふと、視線に気づく。航星は自分のご飯に手を付けずに、ずっと晴人を見ていた。
「なんだよ」
「俺、晴人がご飯食べてるとこ好きなんだ。美味しそうに食べてくれるから」
「……別に、もっと美味そうに食う奴いるだろ」
「でも晴人がいいな。ご飯粒残さず食べてくれるし、それに……」
「ごちそーさま!」
飲み干した味噌汁の器を置いて立ち上がる。
「ちょっと散歩行ってくる」
「気をつけてね」
サンダルを突っ掛けて家を出た。無心になって歩く。十分程歩くと突っ掛けサンダルの歩きにくさが身に染みてくる。少し肌寒さを感じた。太陽が沈むと途端に暗くなる。空を見上げると、一番星だけが認識できた。
ふと、まだ今日のご飯が美味しかったと伝えてないのに気がついた。帰ろう。視線をアスファルトに戻して踵を返す。すぐに帰るのはなんだか小っ恥ずかしいし癪だから、途中でアイスでも買って。
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