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『大晦日』side伊織(1)
あの日——
表示された大和の名前をその画面ごと裏返し、枕で押さえ込んだ。途切れないバイブ音に胸の中の苦しさは増す一方だったけれど、それでも、どうしてもその電話を取ることが俺にはできなかった。
「……ごめん、ごめん、大和」
決して聞こえるはずのない言葉を繰り返し口にする俺の手の上に、熱を持った雫が落ちる。それでも、俺は枕の上に置かれた自分の手を離すことができない。
早く、鳴り止めばいい。
早く、諦めてくれればいい。
どうか、これ以上、俺に大和を傷つけさせないで。
あの時、大和の手を振り払ってしまった本当の理由に俺は気づいてしまったから。
だから、もうこれ以上は、一緒にいられないんだよ。
——そう、思っていたのに。
近づきすぎてインターフォンの小さな画面に収まりきらない大和の顔が映し出される。
「伊織ー、開けてー」
エントランス内に大きな大和の声が響いているのが、こちらまで伝わってくる。
「……」
このまま追い返すことはできないだろうと、観念した俺は無言で『解除』ボタンを押した。長方形の画面の中、自動ドアの開く音に振り返った大和は少しだけホッとしたように小さく笑い、開ききる前の入口へと飛び込んでいった。
ドアを開くと、見慣れた紺色のマフラーがすぐに目に入った。分厚い黒のダウンジャケットを着た大和が、両手に大きな紙袋を持って立っていた。
マンション内とはいえ、廊下は外の気温と変わらないくらい低く、部屋の中の温度に慣れきっていた俺の体からあっさりと熱を奪っていく。
「おー、なんか久しぶり。あ、これ母さんから」
そう言って自分の手元に視線を向けた大和の吐き出す息は、一瞬にして白く消えていく。
「……あのさ、やっぱり、」
「これ早めに冷蔵庫に入れてって言われてるからさ。お邪魔しまーす」
俺の言葉などまるで聞こえていないかのように、大和は視線を落としたまま、両手の荷物を押し付けるようにして俺の体を部屋の中へと押し込んだ。
「ちょ、大和、お前なぁ」
「あー、やっぱ家の中あったかいわ」
受け取ってしまった荷物のあまりの重さに俺が床の上にそれらを下ろすのと、大和がその大きな背中でドアを隠し、慣れたように後ろ手で鍵をかけたのは、ほぼ同時だった。
鍵のかかる乾いた音が耳に響いたのは一瞬で、スニーカーを脱いだ大和は俺が手放した紙袋の紐を握り直すと「とりあえずこれしまっておくわ」と俺の横をすり抜けた。
「……?」
小さな違和感が俺の胸の中でチリリと痛みを引き起こす。
——今、一度でも大和は俺の顔を見ただろうか?
振り返った俺は、思わず手を伸ばしていた。
指先が黒のダウンの上をかすめそうになったが、寸前のところで俺はその手を引っ込める。大和はそんな俺の様子には気づくことなく、「母さん、作りすぎなんだよなぁ」と文句を言いながら廊下を進んでいく。
「伊織?ドア開けて欲しいんだけど」
キッチンへと続くリビングの扉の前で立ち止まった大和が、そう言って振り返ったのもほんの一瞬で、俺が視線を向けるその前に、大和の顔は閉じられているドアへと戻っていた。
「あ、うん」
気づいてしまった違和感の正体に蓋をするように、今度は俺が大和の横をすり抜けて、ドアノブを回し、そのままキッチンへと向かう。当たり前に感じられるほど慣れてしまったはずの自分の後ろを歩く大和の気配が、今はどこか遠く、俺を落ち着かない心地にさせる。
「……あ、あのさ、」
「あー、そういえば伊織インフルだったんだって?」
「え?」
振り返った俺の言葉をかき消すように、大和は紙袋の中に入れられていた大量のタッパーたちをテーブルに並べ始めた。
「昨日おばさんから聞いてさぁ。もう大丈夫なの?」
大和は俺に視線を向けることなく、手にとった透明なケースの中身を一つ一つ確認している。
「あ、うん。もう大丈夫」
「伊織は昔から風邪ひきやすいんだから気をつけろよなぁ」
仕分け終わったのか、積み上げた同じ形のタッパーでできたタワーを持つと、「冷蔵庫入れるね」と慣れた手つきで我が家の冷蔵庫を開け、空いている空間にパズルのようにはめ込んでいった。
「……ホントすごい量だな」
「だろ?母さん伊織に会えるって張り切ってたからさぁ。親父から電話あって本当に残念がってた」
全部は入りきらないだろうと思われたが、冷蔵庫の前で大きな体を折りたたむようにしてしゃがみこんだ大和は、冷凍庫と冷蔵庫を交互に使い分け、器用に詰め込んでいく。半分以上空いていたはずのスペースがあっという間に埋まっていく。
「ギックリ腰だっけ?おじさん大丈夫なの?」
目の前の巨大な箱の中をパズルゲームのように攻略していく大和の隣で、俺は水を注いだ電気ポットをセットした。カチッという小さな音とともにオレンジ色のランプが光る。
「あー、まぁ初めてじゃないし、大丈夫。さすがに一人にはできないから母さんも行ったけど」
「おじさんの単身赴任先って、北海道だっけ?」
「そうそう。だからなんだかんだ文句言いながら母さんもちょっと楽しそうだった」
「さすがおばさん。冬の北海道は美味しいものたくさんだもんね」
電気ポットの中から水がお湯へと変わるボコボコとした音が耳に届き、俺は冷蔵庫の隣の棚へと体を向ける。頂き物のドリップコーヒーを二つ棚の引き出しから探し出した俺の視界に、まだ冷蔵庫の中身と格闘している大和の姿が映り込む。
「伊織にもお土産たくさん買ってくるよ、きっと。この冷蔵庫、パンクしちゃうかもな」
そう言って大和が小さく笑った。見上げるのが当たり前の大和の頭が俺の視線よりも低い位置にある。その珍しい景色に俺は視線を離せなくなる。短く刈り上げられた黒髪は、一本一本が太く真っ直ぐ伸びている。ワックスなんて必要ないだろうに、散らされた毛先がまばらに固まっている。日焼けの抜けない太い首が紺色のマフラーの隙間から見え、広い肩幅が分厚いダウンのせいで余計に大きく見える。
「それは大変」
二つ並べたカップの上、青色の小さな袋の封を切るとコーヒーの香りが一気に溢れ出した。
「お、コーヒーのいい香りだ」
大和が手元に残った最後のタッパーを収め、作り上げた作品を眺めるように小さく繰り返し頷きながら呟いた。
小学生の頃まではそこまで体格の差を感じたことはなかったけれど、今はこんなにも違う。身長が伸びて、筋肉がついて、大きく逞しく男らしくなっていった大和に対して、中学から変わらない身長、筋肉のつきにくい華奢な体、女子たちに毎回遊ばれる柔らかな髪、求められるままに作り出した笑顔、面倒なこともそれを断る方が怖くて人のいいフリばかりの自分。教室の中で当たり前に大きな口を開けて笑えて、女子よりも男子に囲まれていて、正直で真っ直ぐで……そういう、俺とは全然違う大和だから、俺は目を離すことができなかったんだ。だけど、もう——
「……伊織?」
静かに冷蔵庫の扉を閉じた大和が俺を見上げるように振り返る。
「!」
突然繋がってしまった視線から逃げるように顔を背けた俺の耳にカチッとお湯が沸いたことを知らせる音が届く。
「あ、俺、コーヒーいれるからさ、大和は先にリビング行っててよ」
電気ポットのコードを外しながら、俺は大和から逃げるようにカップへと視線を落とす。
「……うん、わかった」
そうつぶやくように言った大和は全身を伸ばすようにして立ち上がると、「あ、そういえば俺、上着も脱いでなかったわ」と小さく笑いながらキッチンを出ていった。
「……」
俺はそっと気づかれないように小さく息を吐き出す。
このまま、このままでいい。
このまま、何にも気づかず、何にも触れず、何も変わらずいられれば、それで——
ポコポコと沸き立つ小さな気泡を眺めていた俺は、多分、油断していた。
「伊織」
マフラーとダウンを足元に丸めた大和が、リビングのソファに座ったまま俺を振り返る。
お湯を含んで増していくコーヒーの香りの向こう側、思わず顔を上げた俺に大和は言った。
「どうして電話出てくれなかったの?」
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