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『大晦日』side大和(2)

 ——それは、初めて聞く話だった。  冷めてしまったコーヒーが温かなカフェオレとなってテーブルの上に置かれた。大きめの白いマグカップが二つ、俺と伊織の間でふわりと湯気を揺らす。 「俺、母さんとは血が繋がってないんだ」  伊織は俺ではなく、両手に包み込んでいるカップに視線を落としたまま言った。  柔らかく溶けてしまったコーヒーの香りを飲み込んだ俺は、その言葉の衝撃を受け止めきれず、俺の手の中ではベージュ色の雫が小さく跳ね上がった。 「え?」  ダークブラウンのダイニングテーブルの上にできた小さな雫の跡を、伊織は手近にあった布巾で消し去りながら、なんでもないことのように話を続ける。 「俺はね、父さんの不倫相手の子供なんだよ」 「!」  さらに予想外の言葉が伊織の口から飛び出し、俺は音を立ててマグカップをテーブルに戻した。飛び跳ねたカフェオレが、今度はそのままカップの中へと戻っていく。 「その実の母親は、俺を産んですぐに死んじゃったらしいよ。もちろん、俺は何も憶えてないんだけど」  ふっと小さく息を吹きかけてから、両手でカップを傾ける伊織は何も見ていないようだった。俺は何を言っていいのかわからなくなる。 「……」 「まぁ、父親の方も母さんと離婚してからは全然会ってないんだけど」 「……」  俺はただ、伊織の言葉に耳を傾け、伊織の喉が動いているのを見つめていた。 「だから、母さんと俺との繋がりって、本当に何もないんだ」  カップとテーブルが小さな音を立てたのと、伊織が俺に視線を向けたのはほぼ同時だった。俺はかけるべき言葉を探すように息を飲み込む。 「……知らなかった、」 「まぁ、こんな話普通しないからね」  そう言って話し続ける伊織の顔からはなんの感情も読み取れなかった。笑ってもいない、泣いてもいない、まるで表情の変わらないお面を被ったかのように、淡々と言葉を並べていく。ただそこにある事実を述べているだけなのだと、ただそれだけのことなのだと、言い聞かせるように。 「……えっと、」 「おかしいって思った?」  迷いながら言葉を探す俺に、伊織はまっすぐ視線を向けたまま、表情ひとつ変えずにそう聞いた。ドクン、と俺の心臓が大きな音を立てる。 「え」 「不倫相手の子供引き取って、育てるなんておかしいって思わなかった?」  俺の心の中を見透かそうとするかのように、伊織の視線は強くまっすぐ、俺に向けられている。 「そんなこと、」  そのあまりに強い視線に、思わず声を揺らしてしまった俺に、伊織はいつもと変わらない調子で静かに言葉を重ねた。 「俺は初めてその話を聞かされた時、思ったけどね」 「!」  俺は思わず口を開けたものの、言葉は何も出てこなかった。そんな俺の様子を見つめたまま、伊織は少しだけ悲しそうに笑った。それは伊織が俺に見せてくれた感情のほんの一欠片にすぎなかったけれど、それでも、俺の心臓は揺さぶられるように強く反応する。 「どうして、母さんはそんなことしたんだろうって」  そう呟く伊織は、もうお面を被り直すことはしなかった。ゆっくりと少しずつではあったが、閉じ込めていたものを俺に見せてくれようとしていた。それがどんなに怖いことであるか、どんなに勇気がいることであるか、俺が簡単に想像できるものでないことだけは確かだ。 「伊織……」 「あ、大丈夫。母さんが俺のことを愛してくれてるのは、ちゃんとわかってるから」  みっともなく声を震わせた俺に、伊織は優しく笑った。その顔が無理に作られたものでないことだけは俺にも伝わってきて、俺の胸の中には温かな熱が生まれる。伊織は自分が愛されていることをちゃんとわかっている。その事実にホッとしたが、それでもやっぱり泣き出したくなるくらいに俺の胸は痛かった。 「じゃあ、」 「俺は母さんのことを本当の母親だと思ってるし、母さんだって俺のことを本当の子供として育ててくれた。だから、俺も母さんも、自分たちを特別不幸だとも、おかしいとも思ってない。ちゃんと『家族』だって思ってる。だけど——」 「……?」  俺を安心させるように優しく笑っていた伊織の表情が、一瞬の寂しさを覗かせ、そして苦しげに歪んでいく。 「自分たちがいくらそう思っていても、そうは思わない人たちはいっぱいいるんだよ」  テーブルの上に置かれた伊織の手は、強く握られていて、そして小さく震えていた。 「!」 「一体何を考えているんだ、自分を裏切った人の子供を育てるなんてどうかしている、血も繋がらない子供を育てるために自ら苦労を背負い込むなんて、どうせ体良く押し付けられたんだろう、……俺が覚えている限りでもこれだけのことを母さんは言われてたよ」  怒りも悔しさも、やりきれない思いも、痛みも傷も、その全部を苦しみに変えて、伊織は泣き出しそうな顔で、それでも俺に伝えてくれる。吐き出される伊織の言葉が、感情が、どれも傷だらけで、痛々しくて、俺はこぼしそうになる嗚咽を必死でこらえる。 「……っ、」 「実際はもっとたくさん言われてるはずなんだ」  その大きな両目に揺れる悲しみを、俺はずっと知らなかった。あんなにずっと一緒にいたのに、本当に何も、何も、知らなかった。噛み締めている唇の先が震え、苦味が口に広がっていく。 「俺は母さんのことが大好きだし、育ててくれて感謝もしてる。だけど、だからこそ、俺のためにひどい言葉を浴びせられ続けるなんて、そんなの……なんで俺のこと引き取ったんだろうって、俺さえいなければ母さんはもっと幸せになれてたんじゃないかって、」  こうやって閉じ込めてきたモノを吐き出すことが、どれだけ伊織を傷つけるのだろう。自分の言葉で自分を傷つけて、それでも俺に全部を見せようとしてくれている伊織から俺が目をそらすわけにはいかない。今あるその傷ごと全部抱きしめたくてたまらなくなる。 「伊織……」  そっと名前を呼んだ俺に、伊織が小さく笑う。 「当たり前だけど、俺と母さんはちっとも似てないんだよ」  そう言った伊織の顔には寂しさが混じっていたけれど、それでも俺に向けられた笑顔は消えていなかった。 「大和だけだった」 「!」 「俺と母さんが似てるって言ってくれたの、大和が初めてだった」  震えるように響くその声は、どこまでも温かく、瞳から零れ落ちる涙は、きっととても熱い。 「その言葉がどんなに嬉しかったか、その一言にどれだけ救われたか……」  それはもう覚えていないくらい、俺にとっては些細な言葉だった。本当に何も知らなかった。知らなかったからこそ、俺は思ったままを口にしたのだろう。それが伊織にとってどれほどの重さを持つのかなんて何もわからずに。  でも、今ならその意味がわかる。  俺は昨日の出来事を思い出しながら、もう一度言ってやる。  だって、俺は本当にそう思ったのだから。 「……俺は今でも、似てるって思ってるよ」  そう言って俺が笑ったら、伊織は泣きながらも笑い返してくれるのだと、そう思ったから。  けれど、伊織はスッと洟をすすると、俺をまっすぐ見つめて言った。  その顔は、もう笑ってはいなかった。 「……遊園地で、俺がどうして大和の手を振り払ったか、教えてあげるよ」  その声は温度を忘れてしまったかのように、とても冷たく俺の中に響いた。 「え……?」  温め直したはずのカフェオレからは、白い湯気が消えていた。

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