30 / 34

『元日』side大和(1)

 ぼやけていた視界がゆっくりと色を取り戻していく。  夢と現実の間で揺れ動いていた意識が現実へと傾き出す。  窓から差し込む光が部屋の中を明るくすると同時に、俺の体の感覚を目覚めさせていく。  朝の冷えた空気が頬に触れ、掴んでいた布団を少しだけ引き上げる。  温かな柔らかさと心地よい重さが全身を包み込み、まぶたが重くなっていく。  ——まだもうちょっと寝ていたい。  寝返りを打とうと体をわずかに動かしたその瞬間、何かに背中の真ん中あたりを小さく引っ張られた。 「……?」  ——そういえば、さっきからずっと背中側が妙に温かいような気がする。 「?」  そっと顔だけを振り返らせた俺は思わず息を止め、目の前の光景に眠気を吹き飛ばされた。 「!?」  その小さな手が、ぎゅっと握りしめるように俺が着ているスウェットを掴んでいた。  クセのついた柔らかな髪の間から覗く額は白く、閉じられたまぶたの先に並ぶ長いまつげは柔らかな頬に影を作り、泣きすぎて赤く腫れてしまった目元からすっと伸びた鼻筋の先、薄い唇が少しだけ開いている。 「……い、おり?」  俺がわずかに持ち上げた布団の中、丸ませた小さな体を俺の背中に寄せて眠る伊織が、まだ夢の中に意識を残したままの伊織が——そこに、いた。      *  暖房の効いた部屋の中は、どこまでも心地よく空気を緩ませていた。  二つの体の間に置かれたソファの背を乗り越えるようにして、距離が近づいていく。 「……ん、」  触れ合う唇が熱くなっていく。  混じり合う呼吸の境目がわからなくなる。  痺れるような甘さが全身に広がっていく。  意識をどこかに持っていかれそうな軽い恐怖感に指先が震える。 「……」  どちらから始めたのかなんて、もうわからない。  深く長くなっていくキスも、上がり続ける体温も、速くなっていく鼓動も、もうどうやって止めればいいのかわからない。  そっと薄く目を開けると、そこには——初めて見る伊織がいた。  少しだけ眉根を寄せ、泣きはらした跡の残るまぶたを強く閉じる伊織。  わずかな隙間で繰り返される息継ぎに白い頬を赤く染める伊織。  少しだけ苦しそうに見せながらも、少しも俺から離れようとはしない伊織。 「っ、……」  わずかに漏らした俺の声さえも、その薄い唇に吸い込まれる。  熱に溶かされるように熱く湿っていく息が距離をなくし、俺の肩に乗せられていた伊織の手がぎゅっと俺の服を掴んだ。 「……!」  その瞬間、俺の中の何かは壊れ、震えていたはずの俺の指先が伊織を求め始めた。  俺の太い指が、伊織の小さく丸い耳の形をなぞり、その白く細い首筋へと滑っていく。  吸い付くような柔らかな肌の感触に、指の先から頭の奥まで震えるような痺れが走る。  こわい。  こわいのに、気持ちよくて。  止められない。  大きくなっていく熱を、もう止められない…… 「……い、おり」  わずかな隙間から名前を呼んだ俺に、伊織が熱い息とともに声を漏らす。 「ん、……や、」  その一瞬の声とともに、伊織の体がビクリと大きく震えた。 「!」  俺はとっさに、伊織の両肩を掴み、触れていた顔を無理やり引き離した。 「……や、まと?」 「……」  戸惑うような伊織の声さえも届かない。  先ほど漏れた伊織の声が耳の奥で響いたまま消えない。  続く言葉がこわくて、目を合わせられない。 「も、もう遅いし、そろそろ寝ようぜ……」  伊織がまっすぐ俺に視線を向けているのをはっきりと感じながらも、俺はその視線を振り切るようにして体を離し、立ち上がる。 「ほら、初詣、行くんだろ?」  俺は伊織に背を向け、両腕を上げながら体を伸ばす。 「……うん、そうだね。さすがにもう寝ないと、だね」  その伊織の言葉に、俺はそっと息を吐き出してから振り返る。 「じゃあ、おやすみ」 「うん。おやすみ」  俺を見上げて小さく笑う伊織の表情はもういつもの見慣れた顔だったけれど、その両頬と耳の先には赤く熱が残っていた。そのことに気づきながらも、俺は視線を外し、見なかったフリをする。  そうでもしないと、俺の中に残っている熱がまた何かを壊してしまいそうだったから——      *  触れている背中から伊織の体温が俺に流れ込む。  目を閉じて穏やかに繰り返す呼吸に合わせて、伊織の小さな肩が揺れている。  温められた布団の中の空気と少し甘い柔らかな伊織自身の香りが混ざり合い、俺の鼻をくすぐる。 「……」  ——俺たち昨日ちゃんと部屋別にしたよな?  おやすみって分かれたよな?  なんで、伊織がここにいるんだ? 「……わっかんねぇ」 「なにが?」  思わず漏らした俺の言葉に、寝起きとは思えないはっきりとした声が返ってきた。 「!」  視線を向けた先、背中越しに伊織が俺を見上げ、可笑しそうに小さく笑った。 「おはよ。大和は一体なにがわからないの?」 「あ、いや、おはよ。……いや、なんで伊織がここに寝てんのかなって」  素直に疑問を口にした俺に、伊織がそのまっすぐな視線を揺らした。  伊織の顔が驚き戸惑うような表情へと変わっていく。 「……もしかして、大和、覚えてないの?」 「え?」  伊織が不安げに俺の目を覗き込み、声を小さくする。 「昨日の夜のこと……覚えてないの?」  ショックを隠しきれずに泣き出しそうな表情を見せる伊織に、俺は体ごと振り返らせ、震える両肩に手を伸ばす。 「え!?いや、覚えてないっていうか、いや、その……」  必死で頭の中に残る記憶を辿ろうとするが、最適な答えを見つけられるはずもなく、意味のない言葉だけが俺の口を滑り落ちていく。  ——昨日?夜?  なんだ?なんのことだ?  わっかんない。  わかんないけど、こうして一緒の布団に寝てたってことは……  え、俺もしかして伊織と……?  え、夜って、そういうこと!? 「……ふ、」  俺の手の中、伊織の肩が先ほどとは明らかに違う震えを伝えてきた。 「伊織?」 「ふはは、大和、なにマジな顔してんだよ。ふ、ふは、おっかしー」  泣き出しそうな顔はどこへ行ってしまったのか、伊織が堪えきれずに大きな口を開けて笑い始めた。 「……!」  恥ずかしさと悔しさと、それから小さな安堵で、俺の体温は一気に上昇した。 「伊織!!お前なぁっ!!」 「ははは、だって昨日ちゃんとおやすみって言ったのに、大和ってば、なに……う、わぁっ!!」  俺は笑い続ける伊織の肩を抑え込み、そのままマウントポジションを取る。  勢いよく布団がめくれ上がり、俺の上半身を少し冷たい空気が包み込む。 「どうだ、動けないだろ」 「!」  驚いたように目を見開き、俺を見上げた伊織は、何かを言おうとわずかに口を動かしたが、そのまま言葉を飲み込んだ。 「?……なんだよ?」  吐き出されることなく隠されてしまった言葉が気になる。  まっすぐ見下ろす俺の視線から逃げるように、伊織が顔を横に向け、つぶやくように言った。 「……さっき、なに想像したのかなって」 「え?さっき、って……」  白く柔らかな布団の上、大きな自分の体の下、再び頬と耳を赤くした伊織がいる。 「!」  触れたままの伊織の肩から溶け合う体温に、俺の中で昨日消したはずの熱が生まれそうになる。  伊織がそっと顔を戻し、俺の目を伺うように覗き込む。 「大和?」  俺の名前を呼ぶ伊織の声なんて、聞き飽きるほど聞いてきたはずなのに、俺の心臓はドクンッと大きな音を鳴り響かせ、その衝撃に押されるように、俺の手は跳ね上がるように震えた。 「……っ、」  けれど、まだはっきりと耳に残っている伊織の声が俺の熱を振り払う。  俺は伊織の肩から離した手で、伊織のおでこを軽く弾いてやった。 「(いた)っ!」 「なんにもないのに、なにを想像するんだよ」  両手で額を押さえた伊織から俺は体を離すと、そのまま起き上がった。 「伊織ももう起きろよ」 「……」  伊織が布団の上に寝転がったまま、小さく頬を膨らまして、睨むように俺を見上げてくる。それでも俺はそんな伊織に背を向け、足元に追いやられてしまった掛け布団へと手を伸ばす。  ——見えない自分の顔がこわかった。  さっきまでの俺は、昨日の俺は、一体どんな顔をしていたのだろう。  伊織には、どんなふうに見えていたのだろう。 「……」  ——気づいてしまったことがある。  一度生まれてしまった熱は、些細なきっかけで簡単にまた姿を現す、と。  消えたように見えても、その火種はずっと心の奥に存在し続けるのだ、と。  ——でも、俺は伊織を傷つけたいわけじゃない。  慣れ親しんだ伊織の家の匂いが、ふわりと舞う。  手にした布団を折りたたむにしたがって、濃くなっていくその匂いは、俺を安心させてくれるとともに、罪悪感にも似た感情で俺の心を揺さぶる。  ——昨日の出来事が夢ではないのなら。  この感情から目をそらすことはできない。  小さく息を吐き出し、体を振り返らせようとした、その瞬間。  横から包み込むような優しい衝撃が俺の体に走った。 「!?」  いつのまにか起き上がった伊織が、俺よりも細い、その両腕で俺を抱きしめていた。 「ちょ、伊織?」 「……」  まだ少し不機嫌そうに口の先を尖らせて、伊織が俺を見上げる。  少しずつ速くなっていく俺の心臓に合わせて重なるように鳴り響くもう一つの音が、確かな熱を持って俺の中に流れ込む。 「伊織?」  繋がった視線の先、一瞬だけ恥ずかしそうに瞳を揺らした伊織が、小さく言った。 「……キス、する?」 「!?……っ、しない!!」 「え、なんで?!」  俺は両手に持った布団で、戸惑った表情を見せる伊織の体を振り払い、部屋の隅へと進む。 「ちょ、大和?」  まだ緑色を残す畳の上で両手を放した俺は、腕を掴んできた伊織を引きはがしながら、言ってやる。 「あーもう!また昨日みたいになったら、困るだろうが」  恥ずかしさも情けなさも、こんな怒ったフリくらいでは隠しきれないだろうけど。  それでも、言わないと伊織はこの手を放してくれないだろうから。 「困るの?」  ——だって、一度気づいてしまったら、もう気づかなかった頃には戻れない。  自分でもこわいと思ってしまう俺を、俺自身が止めなかったら一体誰が止められるのだろう。  他でもない俺自身が伊織を傷つけてしまうかもしれないのに。 「困るだろ。もう簡単に止められる自信ないし……なんだよ?」  キョトンと不思議そうに見上げる伊織の瞳がゆっくり細められていく。 「なんでもない。うん、なんでもないから……ご飯食べよう?」  転がるように声を震わせた伊織が小さく笑いながら、俺に背を向けリビングにつながる襖を開けた。仕切られていた小さな和室の中が一気に明るくなる。  丁寧に揃えられたスリッパに足を下ろし、エアコンを操作しながら振り返った伊織は、やっぱりどこか嬉しそうだった。 「?」 「あ、大和はそこのお布団よろしく」 「お、おぉ」  何がそんなに伊織をご機嫌にさせたのか、俺にはちっともわからなかったけれど、小さな稼動音とともに流れ込む空気はとても暖かく、寒さで硬くなった体をほぐしてくれる。  キッチンへと向かう伊織の背中を見送り、足元の毛布へと手を伸ばした俺の耳にそれは届いた。 「……別に、止まらなくてもよかったのに」  誰かに聞かせようと思って呟かれた言葉ではない、伊織の小さな独り言。 「!」  聞こえてしまったその言葉に、顔が熱くなる。  え、じゃあ、あの時の言葉は……『()だ』でも『やめて』でもなく——  振り返った俺の視線に気づくことなく、伊織は昨日俺が詰め込んだ冷蔵庫を覗き込んでいる。 「……キス、すればよかったかも」  少しだけ後悔したが、もう遅い。  俺はまだ暖かさの残る毛布を手に取り、窓から差し込む日差しの強さに少しだけ目を細めた。

ともだちにシェアしよう!