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春も浅い頃だった。
「よぅ、ちょっと付き合わねぇか」
輝信が言い出したのは、詠心が輝信の屋敷に出入りするようになってしばらくした日のことだった。
「付き合うとは...... ? 」
ふっ......と笛の吸い口から唇を離し、詠心が上目遣いで輝信を見た。
―色っぺぇんだよな......―
詠心自身は気がついていないふうではあるが、飄々として身の回りに構わぬ素振りでいて、ふと見せる仕草が実にたおやかだ。武家の出.....にしては、風雅な匂いがする。
「お前の笛を聞かせたいお人がいる」
「聞かせたいお方?」
「土御門の太夫......白勢頼隆の祖父君だ」
「頼隆さまのお祖父さま...... ? ご存命なのですか?」
「あぁ......」
頼隆が見罷ってからも、輝信はその無諒を慰めるために、度々屋敷を訪れていた。互いに頼隆を思い出して寂しくなることはあったが、太夫が七瀬に身を寄せていた頃からの知己でもある。父親を早くに亡くした輝信にとっては、親代わりのような存在でもあった。斎主に対する作法なども太夫から教わった。
何よりも、
―輝信はんがこうして来てくれはるよって、少しも気が紛れて、楽しゅう過ごせて有り難いと思うてますんえ......―
鬼の血......の由縁か、間もなく白寿だという太夫はとてもそうは思えず若々しい。......が、愛しい者達に次々と先立たれた胸中は如何ばかりか......。
―あんまり長生きなんてするもんじゃねぇな......―
とふと思わなくはないが、頼隆に託された『後の事』が終わらぬ裡は死ぬに死ねない。それに早々に後を追ったところで、あちらでも仲睦まじいであろう直義に追い散らかされるのが関の山だ。
はあぁ......と溜め息をついて、一向に身形を構おうとしない詠心に真剣に頼んだ。
「大事なお人なんだ。......今回ばかりは頼まれてくれ」
輝信の必死な懇願に、しぶしぶと詠心も頷いた。
輝信と、真新しい水干を身に纏った詠心が土御門邸の門をくぐったのは、その数日後のことだった。
「おぉ、よう見えられました。......笛の名手いわはるんは、そちらさまか?」
土御門の太夫はいつもながらのにこやかな笑顔で出迎えてくれた。
「詠心にございます...」
お辞儀をして顔を上げた詠心の面差しに、ふと表情が変わったが、すぐに元の笑顔に戻り、奥座敷に案内された。
「では、『白勢の鬼神』を奏して差し上げよ」
輝信の言葉に、小さく頷き、笛をひそと唇に当てると、朗々と颯々とした音色があたりを満たす。
「素晴らしゅうおすなぁ......」
身動ぎもせずに聞き入っていた老翁は余韻の漂うなか、そっと袖で目頭を押さえた。
「私は見たことはあれへんけど......、あの子が戦場を駆け抜けていく姿が見えるようですわ......」
「お褒めのお言葉、痛み入ります.....」
頭を下げる詠心に、うんうんと頷きながら太夫は、ふと呟くように言った。
「昔、斎主の宮に笛の上手な女房がおってな......早うに宿下がりしてもうたが、あんたはんの笛を聞いて、あの音色を思い出しましたわ。」
「勿体ないお言葉にて......」
頭を深々と下げる詠心の眉根がふと曇ったのを、輝信は見て取った。が、見ない振りで太夫に問いかけた。
「酷なことやも知れませんが、太夫殿、頼隆はどんなお子でございましたか?」
「そうやなぁ......」
老翁は、眼を細め、懐かしむように愛おしむように呟いた。
「一途で、健気で......ひたむきな子ぉやった...。それが却って仇になってしもうたがのぅ....」
再び、老翁の眸から涙が零れ落ちた。
「あぁ、あきまへんなぁ。歳を取ると涙脆くなって......。気にせんとゆっくりなさっておいで」
輝信と詠心は、太夫に勧められるままに、夕餉の膳をご馳走になり、土御門邸を後にした。
「私は頼隆殿ではありませんよ。一途でも健気でもない......」
屋敷に戻り、いささか酔いが回った体で泊まれという輝信の手をやんわりと外して、詠心は男振りの勝る横顔を軽く睨んだ。
「んなこたぁ、わかってるさ。俺はお前が気に入ったんだ。詠心、お前さんが....さ」
溜め息混りに見つめる、薄茶色の眸に心無し淋しげな色が浮かんでいた。寄せてくる唇をかわしきれなかったのは、多分、同情だ―と自分に言い聞かせて、詠心は翌朝、屋敷を後にした。
あの女童の事があって、以前より明らかに輝信に惹かれている自分を意識せざるをえなくなった詠心は、それから早々に都を去った。
「皇子さま.....よぅお戻りあそばしました。どうなされておるかと案じておりました」
頭を床に擦り付けんばかりに平伏しているのは、二条家の当主、兼忠。その前に立っているのは他ならぬ詠心である。
「皇子は止めよ。私は父親の顔など知らぬ......」
「なれど......なれど、先の斎主のお胤であられることは疑いようもなく......」
「母はそうは申しておらなんだ。父親がどのような身分かは私は知らぬ」
詠心の母親は、兼忠の側室の娘だった。笛の上手の評判から宮中に召し出された。ひょんなことから時の帝の寵愛を得て、詠心を身籠った。懐妊を知った母親は、病を口実に早々に宮中を退出し、乳母の家に身を寄せ、誠心を産んだ。
既に東宮がおり、他にも幾人かの皇子がいたため、権力争いに捲き込まれるのを嫌ったのだ。数年前に母親が見罷ってからは、詠心は二条の屋敷を出奔し、好きに生きてきた。
「なれど、先の東宮様は、貴方さまを案じて、人を遣わして方々に行方を探しておいででございました」
「存じておる......」
詠心は深く溜め息をついた。
「其れ故、けじめを付けに参ったのだ。.......」
「けじめ ? 」
「斎主に拝謁する折になれば、わかる」
詠心は黒の袍と冠を着け、大きく肩で息をした。
―このような容姿(なり)をするのも、最初で最後だ―
都から出奔して、誠心は七瀬を巡っていた。輝信の故郷、輝信の愛する海、島々、人々を訪ねて歩った。そして、心を決めた。
「斎主のお坐しにございます」
御簾の向こうの兄に向かって深く頭を垂れる。
「讃良の皇子、よう参られた....。父の長栄斎主の御遺言にて、改めて臣籍を授けたい」
静かな穏やかな声......東宮の時代にこっそり訪ねてきてくれた時と変わらぬ微笑みが御簾の向こうにあるに違いない。だからこそ......。
「有り難き、勿体なき仰せにて......しかしながら、私は既に身の振り方を決めましてございます。ゆえに、本日はかけまくも畏しこき斎主様にお暇乞いをいたさんがために罷り来しました」
言って詠心は改めて深々と頭を下げた。御簾の傍らに控える大臣達が訝しげに顔を見合わせる。
「身の振り方を決めたとは......どういう意味にございますか?」
内の大臣(おとど)が、ずぃ......と膝を詰める。
「無位無官の一人の人として生きとうございます」
ざわざわと座が揺れる。
「無位無官とは.....何故にですか?」
御簾の内から、微かに動揺した声音で貴き御方が問う。
「共に生きてゆきたいお人がおります」
.「共に生きてゆきたい人......ですか?」
「はい」
きっぱりと力強く答える。
「その方はいったい如何な御方なのですか?......どちらの姫御なのですか?」
右大臣が乗り出してくる。年頃の娘がいたな...と腹の中で苦笑いする。
「姫御ではございません。.....私が共に在りたいと思うのは、男にございます」
「男.....?」
「御意......。九神政権の執政、設楽輝信にございます」
誠心の言葉に座が一気に動揺した。
「設楽...輝信ですと?」
それとなく窺う左大臣の顔が青ざめていた。
―黒幕は、こいつか......―
確証は無かった。が、輝信の生命を狙うとすれば、政権奪取を目論むか、もしくは混血の噂のある輝信に反感を抱く者か......。政権奪取を狙うなら、もう少し手立てを考えるはず―となれば、純血主義の宮中の手の者.....とは思っていた。
「左様。設楽殿は、人品賎しからず、器大にして、この国の未来を託すに足るお人。其れ故、共にあってその扶けになりとうございます」
ううん......と唸り、何やら反論しようとする大臣達を、涼やかな声が制した。
「無位無官とは....宮中の介入を嫌ってのことか?」
「御意にございます」
「良かろう、許す......」
御簾の内からの許諾に、またひとしきり座が騒めいた。
「お上、宜しいのですか?.....仮にも皇子さまは斎主の血を引くお方。あのような得体の知れない、何を仕出かすか解らぬものを扶けさせるなど.....」
真っ赤になって抗議する左大臣を斎主が静かに諭した。
「落ち着きなさい、大臣。世はようやく鎮まりつつある。平穏な世を築くは国の大事。この宮にとっても大事なこと。その力添えをしたいと言うなら、止めることではない」
「しかし......」
畳かけるように、凛とした言葉で斎主は告げた。
「讃良皇子よ。無位無官であっても貴方は私の愛しい弟。それだけは忘れてくださいますな」
「御意.....」
今一度、深く頭を下げ、御前を退出した。
誠心は宮中を離れると大きく伸びをした。
―流石だ......―
聡明と名の高い斎主だ。優しく許可しただけでなく、きっちりと釘を刺された。
―宮中に不利なことはさせるな......と謂うわけか。―
御簾の向こうの微笑みは、抜かり無い。詠心はぶるぶると頭を振った。
―宮中なんぞ関係あるか。私は輝信と共に居たい。それだけだ―
見慣れた屋敷の近くにそれとなく足を運ぶ。
「詠心!......お前どこに行っておった?!」
大袈裟に、だが半ば泣きそうな表情で、輝信が歩み寄ってきた。
「七瀬の海を......見に行ってきました......」
新しい船出に漕ぎ出すために......と心の中で呟きながら、海の如く広く深いその懐に、詠心はそっと身をもたせた。
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