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第2話
「洗濯物を干すとき、タオルの端をぴったり揃えないと気がすまないんだ」と昴がしゃべっている。「洗濯ばさみを使う位置も決まってる。ズレると無理。靴下はそれぞれのペアが必ず対称に並ぶようにピンチハンガーにぶら下げておくわけ。取り込むときは両側から組みあわせていけば間違わないし、ぴったり揃えて干したタオルは畳むと角がきれいにそろう。それが気持ちいい」
神里 友祐 は現同居人が元同居人たちの前で早口で話すのを眺めながらダイエットコーラを飲んでいた。最近腹がつまめるくらいぷよぷよしてしまったので、二度目の乾杯からビールはやめることにした。飲もうと思えばいくらでも飲めるのだが、いくら飲んでもたいして酔わない体質で、かつ腹の出具合が気になるのならこれが最善の解決策だと思いたい。
もっとも前に昴にこの話をしたら「ダイエットコーラより筋トレじゃないか」と指摘され、その後健康な人間が人工甘味料に頼ることの危険について長話を聞かされたことがある。
そう、栖原 昴 というのはこんな人間である。だいたいは物静かで大人しい雰囲気だし、飲み会でも大声で騒いだりはしないが、何かの拍子に水を向けられると話が止まらなくなる。とはいえ、同じ家に住んでいる神里に毎日まくしたてるようなことはまずない(ダイエットコーラについて話をふらなければ)。
つまり昴にはほとんどの人間にとってどうでもいいことに執拗なこだわりがあって、そこだけは絶対に譲らないし、何かひっかかりを感じるとえんえんとしゃべるのだ。
この家の元住人であれば、昴のこんな性格はだいたいわかっている。だから今はそうでない赤根さんだけが「へええ」と素朴な驚きの声をあげている。
「すごいねえ。それ、面倒じゃないの?」
「いや昴はそうだよな。覚えてるよそれ……」山川がいった。
「俺いちど睨まれたことある」
「え?」
「いや、ここに住んでたころ、自分の洗濯のついでに乾いたタオルをこう……丸めて置いてたらさ」
昴は箸を握って反論している。
「山川、それはちがう。睨んでない」
「でも黙って俺からタオル、取り上げただろ……絶対睨んでた」
「無意識にやっちゃっただけだよ。僕からみるとなんていうか……お前がどうしようが問題じゃないんだ。タオルが気になるだけで」
「え、それもっとひどくない?」
赤根さんは楽しんでいるようだ。実際、昴のこういう性癖は昔から飲み会でよくネタにされている。そして昴はネタにされること自体は気にならないらしい。ただ事実と異なることは、とても気にする。というわけで、さらに反論した。
「ひどくないですよ。そもそも睨んでないし、大事なのはタオルであって山川じゃない。山川は僕が気にすることじゃないから」
「冷たいな~」山川がわざとらしく眼をしょぼしょぼさせる。
「アタシと昴の仲なのに!」
昴は特段の表情もみせなかった。あっさり「それよりさっさと乾燥機つきの洗濯機買えよ」と返し、「そだね」と山川が引き下がった。
どういうわけか、神里も含めて昴の学生時代の知り合いは彼を苗字で呼ばず、昴と呼ぶ。語呂あわせみたいな名前だから、と昴は前にいったことがある。スハラスバル。確かに韻を踏んでいるし、昴はSNSのハンドル名に、この音を組み替えた「ハラスバルス」なる名前を使っていた。
「昴くんが一家にひとりいたらいいかもね。自分から片付けるでしょ?」
赤根さんの言葉はたぶんフォローだったのだが、「あーいや。僕はそれに反対です」と最初に返したのも昴である。
「どうして?」
「無意識にタオルの端をそろえて嫌がられるから」
「ああ、それね……」
相原がうなずく。
「女子に振られた話でしょ。キャンプで。中学生の時」
これまた、この家の元住人はみんな知っている話だった。いつだったか、夜中に飲んでいてはじまった「どんな理由で女子に振られたか自慢大会」で昴が披露したものだ。
「それに昴は自分が気にしてるところしか掃除しない」
坂田が断言し、神里の方へ顔を向ける。
「なあ、自分の部屋と、ここの食器棚と食べ物置いてるところと、あとどこだっけ……だろ?」
「今はそうでもないんだ」と神里は答えた。「片付けるとポイントがふえるし、勝負には肉がかかってる」
「そう。人間は改良可能だから」
昴は平然といった。こういうときの彼は本気なのか冗談なのかいまひとつよくわからない。しかし神里の言葉とあわせて説得力はあったのか、赤根さんが「そっか!」と手を打った。
「やっぱりあの家事分担表、うちにも導入するわ」
坂田がすこしだけ嫌そうな顔をした。
ここに住んでいた他の面々は、神里以外はみな最初から知り合いである。神里の友人は相原だけだった。いまとなってはどういう経緯でこの「ダイニハウス」に加わることにしたのかよく覚えていない。ともあれ、大学生の男ばかりの面子から、ひとり暮らしが恋しくなったとか、就職先が遠いから引っ越すとか、そんな調子でひとり欠けふたり欠け、いまや残っているのは神里と昴だけである。
二人になれば家賃その他の負担は上がるが、使える空間は広くなる。いわゆる業者のシェアハウスではなく住民が共同で借りているだけだが、もともと大学生の下宿として長く使われていた家だったらしい。今の家主はその「下宿屋」時代の家主の息子で、現在地方赴任中。こっちに戻ったらこの家は壊して新築する予定になっている。つまりその期限までは借りられる。長くてあと二、三年だろう。
そう思うと出るのも面倒だ――というのが、神里がだらだらとシェアを続けている理由のひとつだった。誰にも話さないが理由はもうひとつあって、それは自分が出ていけば昴だけがひとりこの家に残ることになる、ということだった。
「ひさしぶりに来ると広いなあ」と山川がいう。
「狭くても自分の城だっていってなかったっけ」と昴が返す。すると山川はおどけた声で「そりゃそうだ。ただマンションの更新が来るたびにここの広さと格安さが財布にしみるよ」といった。
「出戻るか?」と神里はためしにいってみる。
「いやそれは――もういいや」
「ふたりになって長いんでしょう?」赤根さんが神里と昴をみくらべるように視線を流す。「どんな感じ?」
「どんな感じって――」
そんな質問をされても困ってしまう。考えたこともないからだ。
「なにも。ふつうです」
「ふつうか。ふつうってすごいね」
「どうして?」
「なんていうか――常態化してるってことでしょ。それこそ、ふつう他人と暮らすってどこかに緊張があるじゃない。ふつうってなんか――」
「家族っぽいよな」相原がいった。「夫婦っていうか、相方っていうか……なんかひとりだけ誘うのまずいような気分になったりして」
「何いってんだよ」昴が笑った。
「でも仲はいいよね」
赤根さんが畳みかけてくるので、神里はなんとなくうなずく。
「そりゃ、悪くはないですよ」
「一緒に住んでて何かいいことある?」
「一緒に住んでて? そうだな、申請書にくっついてる変なエクセルの表をなんとかしてくれたりとか」
「変なエクセル?」
昴が口を出した。
「|ネ申《カミ》エクセルってやつです。エクセル方眼紙とか」
「あ……セルがやたら結合されていたり、セル一個に一文字ずつ全角で入力されてたりするアレ? 表計算ソフトなのに表計算できないように巧妙に設定されてる……」
「神里がたまにキレるんで、手伝うだけです」と昴はいった。「神エクセルのご神体みたいな人が上司にいるんで、僕はありとあらゆるパターンに慣れています」
「じゃあ神里君がいるといいことは?」
一瞬だけ間があって、昴は眼をぱちくりさせた。どういうわけか神里は緊張した。
「神里は……うーん、ご飯がおいしい」
山川がケタケタと笑った。
「おい、最高のほめ言葉感がある。神里が男じゃなかったら」
「それに弁当を届けてくれたこともある。駅まで」
たしかにそんなこともあったと神里は思った。その時の弁当については他の事情もあったのだが、そこについてはここではいえない。
「は? それ完璧夫婦じゃね?」
坂田はどうみても呆れているようだ。
「神里っていま、誰かいるの?」
「いない」
「昴は?」
昴はひらひらと手をふった。
「休みの日ってなにしてんの?」
「ふつう。掃除して買い物してゲームして本読んで飯食って」
「ふたりでどっか行ったりする?」
神里はすこし考えた。
「映画はわりと行くな」
「そういえば去年のゴールデンウィークに神里と昴で旅行に行ってなかった?」
「あれは山川がキャンセルしたから二人になったんだ。三人で旅館予約して、一人来れないのに全キャンセルも悪いだろう」
「ままま、それはいいじゃん」
やや焦った表情になった山川が、話をそらそうとするかのように「じゃ、ふたりでやってないことってなんかある?」といった。
神里は思わず顔をあげた。昴と眼があった。
「そりゃ、たくさんあるにきまってる」
「でもさ、おなじ家に住んで飯一緒に食って休日に映画見に行ってふたりで旅行に行くわけだろ? 女の子とつきあってもなかなかそこまでいかないよ」
「ああ、いえてる」相原が首をひねった。「そうだな、同棲中のカップルみたいなもんだと考えれば……やらないことって法事とセックスくらいだろう」
座が一瞬しんとして、相原は慌てた様子で両腕をあげて振った。
「いやいや、からかってんじゃないんだ。いや、面白がってるけど。ごめん。ただその……これなら同棲も同居もほとんど変わらないなと思ってさ」
缶ビールとウイスキー、その他の酒類と氷と炭酸水とダイエットコーラを大量に消費して、飲み会がお開きになったのは終電に近い時刻だった。神里は昴と一緒にみんなを駅まで送り、ぷらぷらと線路沿いの道を歩いて帰った。線路と道は白い塀で区切られている。電車が通っても姿は見えず、ごうっと音だけが聞こえてくる。
電車の音を聞くのが好きだった。あまり人に教えない――昴以外の元ダイニハウス住民も知らない――神里の趣味は電車の走行音を集めることだ。いわゆる『音鉄』の一種といえるのかもしれないが、同好の士がどのくらいいるものか、神里は知らない。
昴は神里の斜め前をすたすたと歩いていく。なんとなく危なっかしい気がして、神里はわざと歩調を遅めにして、彼の半歩うしろを歩く。危なっかしいように思うのは昴が酔っているからではなく、いつものことだった。三十になって腹の出具合を気にしはじめた神里とちがい、同い年なのに昴はいまだにひょろひょろした痩せ型で、なで肩のせいか薄暗い夜道では中性的な容姿にみえる。とはいえ服装も顔立ちもれっきとした男なのだが、なぜか駅の人混みや道ばたで絡まれやすい。
おかしな人間を惹きつけてしまうのは昴の責任ではない。といって、神里が気にしてやることでもない。昴は社会人としてもまっとうすぎるくらいまっとうにやっているし、大きなお世話というものだ。それでもなんとなく、こんな夜に昴をひとりで歩かせることが気になって、神里は半歩うしろで昴の背中をみているのだった。足元に眼をおとすと同居人は素足にスニーカーをつっかけていて、骨ばった足首がやたらと強調されている。
「昴、そのスニーカー、俺の」
「あ? ああ、ごめん」
昴の口調は「ごめん」とは程遠い。タオルを干すときはあれほど神経質なのに、靴に関してはひとのものと自分のものの区別もつかないのだ、この男は。
「いいけど、かかとを踏むなよ」
これまた何度いったかわからない言葉を神里は投げる。
「踏んでないよ。神里、おまえ太った?」
「なんでわかる」
「靴がのびてる。ゆるい」
マジ? 神里はぎょっとして下半身をみつめる。昴はすたすた歩きながら「筋トレしろっていっただろ」といった。
「毎日スクワットとプランクをすればいいんだ」
「うるさい」
「表を作ってやろうか」
「いらん」
昴と家に向かいながらこんな会話をかわすのは、悪くなかった。
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