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第4話
朝からどんよりとした真っ黒い雲が空を覆い、午後から嵐になった。
テストが終わり、友人宅に泊まる美穂にとって花金だが、夏樹はジェフリーの部屋に行くのかどうか迷っていた。
乗る車両を変えたので、ジェフリーとも会うことはなく、メールだけが自分たちをつないでいた。いつかは、他愛もないメールをする仲になれるのだろうか。
地下鉄のホームで、濡れた服やカバンを拭く。スマートフォン見ると、美穂からラインに送信されてきた友人とおそろいのパジャマの写真を見て、返信を返していると、張りつめた気持ちが弛緩する。美穂の返信を待っていた時に、誰かに、左手首を強くつかまれたのだ。危うくスマートフォンを落としそうになった。
「いってーな」
すぐさま張本人――ジェフリーを上目遣いでにらみつけたが、表情が読み取れない。底が見えない水底に自分の姿が映る。
「驚かせて悪かったね。さあ、行こう」
「帰るってんだろ」
「帰さない」
強く風が吹く。ブレーキ音と共に、電車がホームに着いた。ジェフリーにタワーマンションに連行されていった。
外は雷鳴がとどろき、傘を差している意味がないほど大粒の雨が叩きつける。小走りでジェフリーを追いながら、マンションのエントランスに入った。蒸し暑くて、2人の肌に汗がにじんでいる。
「部屋に着いたら、すべて説明する」
今更逃げるわけないのに、恋人つなぎにし、部屋まで歩く。あそこ、と指差したドアの前には、雨合羽を着た秘書が、水たまりを作ったままぼんやりと立っていた。
「エメリー? 中に入ってくれ」
黒革のソファーに座るように促され、コーヒーと紅茶どちらがいいか訊かれた。ストレートティーと言い、所在なさげに隅に座った。秘書の好きな飲み物は把握済みか。
夏樹が飲み物を受け取ると、ジェフリーはさも当たり前のように、夏樹の右横に、秘書は、対面に座っている。
「ナツに何を吹き込んだんだ。俺に言ってくれと言ったはずだろう。それに、お前から始めたセフレの関係は終わっている」
「嘘だ。好きだって言ってくれたじゃないですか。そんなの信じませんよ」
「言わないと白けると言ったのは、エメリーのほうだろう。勝手に腹に乗っかかれた身にもなってくれ。それに、エメリーは家族だと何回も言っているだろう?」
エメリーの白皙の頬と耳が真っ赤になり、口ごもった。
「ナツと合えなかったあの日、エメリーがナツと話しているのを見たと証言した社員がいる。メールも電話も通じない。返信が来てもそっけない。態度が全然違う!」
何かしたんだろ? とジェフリーがエメリーに詰問する。
「好きだったんです、ずっと。いつか恋人になれると信じていたんですよ。なのに、なんで……。ただの大学生に取られるなんて」
淡々とした口調から感情を目いっぱい込めた口調に変わる。
(俺が身を引けば、しあわせになれるのか?)
「偶然駅で一目ぼれした学生が何度も助けてくれた。見ているだけじゃ我慢できなくて、話しかけて。もっと触れたくなって。こんな欲深い自分がいることに気付いた」
「それでもいいから、私のほうを選んで」
エメリーの泣き出しそうで、震えた唇を噛んだ仕草が痛々しい。彼が執着していないのを薄々わかっていたのかもしれない。
「無理だ。エメリーだと反応しないんだ。こんなに苦しいほど夢中になったのは、はじめてだった」
ジェフリーの伏せた目の隙間から、雫が零れ落ちた。
「そんな……」
「本当だ」
そう言い、夏樹の後頭部に手を置き、執拗に口内をかき回された。目を閉じる暇もなく、ドアップになったジェフリーを見つめた。次第に頭の中がぼうっとしてきて、太ももにジェフリーの昂りが当たった。反応してくれたのが、とてつもなく嬉しい。特別なのだとわかるから。
「好きなんだ、ずっと前から、ナツのことが。だから、余計なことを吹き込んだエメリーを赦せない」
「ジェフリーが悪いくせに」
「いい加減、諦めてくれ。往生際が悪い」
貧乏ゆすりをしていたエメリーが、ドアを乱暴に開け、傘もささず外へ飛び出していく。
「ナツ、待っててくれ。必ず戻るから」
そう言い残し、ジェフリーはいつの間にかいなくなっていた。
やはり、彼も裏切るのだろうか。爪を噛み、体操座りをしながら待った。窓の外から、街を押し流すように降る雨と雷鳴がとどろいている。
人の気配がした途端、背後から抱きつかれ肩口に顔をうずめられた。嗅ぎ慣れている匂いと、体温。すごく安心して、少しでも気を抜いたら涙がこぼれそうだった。
なぜだかわからないが、愛おしい、彼を守りたいという気持ちがふつふつと湧いてくる。
「ナツ……。傍にいて、ナツ」
泣く寸前のような声で名前を呼ばれ、体をひねり正面から抱きしめた。
「ジェフリー、オレ…」
夏樹の言葉を封じるように、強引に後頭部をつかみ、唇をふさがれた。息ができなくて苦しいと彼の肩を叩いても、押しても、微動だにしない。頭の中がぼうっとする感覚に、身を委ねた。どこもかしこも彼の匂いがして、酔いそうだ。
彼をますます怯えさせてしまいそうで、言葉を発せられなかった。代わりに強く彼を抱きしめ、金色の絹のような髪を撫でた。地面を揺らす稲妻と雨はますますひどくなっていった。
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