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第1話 支度の部屋

 神殿を囲む森は、なにかを待ち受けるような沈黙に満ちていた。  鎌形の月が梢のあいだに浮かぶ。方角は西。音を出す生き物は近くにいない。すでに冬は到来した。耳にかすかに届くのは外壁で炎が燃える音、それに、一年中尖った葉を残す樹々の梢が揺れるざわめきだけだ。  レシェムは窓辺に立っていた。このように窓をあけられるのも、冬がはじまった今だけだ。やがて地面が厚い雪に埋もれ、窓が凍りつく日々が来る。針葉樹の葉先によく似た氷雪の模様が玻璃に浮かび、外気が剣のように肌を刺すとき。そのときも梢は風に揺れ、神殿を照らす炎は壁で燃えるが、中にいる人間がその音楽を聴くことはない。  扉が三度叩かれる。  レシェムはふりむき、先頭に立つ侍従に軽くうなずいた。侍従は腰に幅広の黒い帯を巻いている。神殿のほかの場所では侍従はすべて同じ濃紺の上下をまとうが、この部屋に入る者たちはちがっている。そのうしろにひとりの男が続くが、入った途端に頭をゆらし、鼻をうごめかせたのをレシェムは見落とさなかった。おそらく室内で焚かれる香に反応したのだろう。  何年も冬をこの部屋で過ごしてきたレシェムにはもはや自分の一部のような香りだが、はじめてここへ入る者は違和感をもつのだろう。しかしそれも一瞬のことだ。黒革の軍装に覆われたぶあつい肩をレシェムはみつめる。長い脚は同じく革に覆われ、足元には毛皮の裏張りをちらりとのぞかせた軍靴。レシェムや侍従より頭ひとつは背が高い、冬の砦の兵士だ。 「明日の出立まで、こちらで支度をいたします」  侍従は型通りの言葉を告げると深々と礼をし、兵士のうしろへ退いた。扉が閉まる音と同時にレシェムは男の前に進み出る。手をさしのべると兵士は一瞬だけ途惑った表情をうかべた。頬に浅い傷が浮かぶのをレシェムはみつめる。おそらく体にも無数の傷があるだろうが、それはこのあと、夜のあいだに知ることだ。 「支度なんて仰々しいと思ったら、神官だと?」  兵士のつぶやきをレシェムは無視した。 「こちらへ。まずは沐浴をいたしましょう」  支度の部屋はコの字のかたちだ。沐浴場は最初の角を曲がるとあらわれる。香にまじって、湿った空気と刺激的な香りが鼻を刺す。兵士は浴槽をみたとたんに得心した顔つきになった。 「広いな。これが『迷宮行き』の扱いというわけか?」 「どうぞ、お座りを」  神殿は王侯貴族の施設ではない。しかし男が座った台座は暖かく、よく磨かれて清潔だ。レシェムは男の前に跪き、靴の紐を解いた。肘に垂れた白金の髪をはねのけたとき、兵士の手が伸びて、レシェムの顎をつかんだ。 「美形だな。おまえの顔は初めて見る」  レシェムは答えず、男の眸に視線をあわせる。緑の眸。夏の日差しの下ではもっと明るく輝くのかもしれないが、いまは暗がりに落ちこんでいる。 「ではこれは特別な慰撫というわけか」  兵士の口調には皮肉な調子が紛れこんでいた。 「おまえたち神官は俺たちのためにいるんだからな。迷いこんでくるやつらを退治する俺たちを冬のあいだ森に閉じこめておくために。そしていざ迷宮へ行くことになった俺には、おまえのような美人が与えられるというわけさ」  レシェムは静かな動作で男の手をはずすと、全身の軍装を脱がせにかかった。釦をはずし、留め金を鳴らし、革の胴着を床に落とす。その下の衣服の紐を解き、兵士の肩から胸をむきだしにする。手のひらをすべらせるように動かしていくにつれ、男がレシェムをみつめる眼つきが変わってくる。下穿きの前が盛り上がっているのをみてレシェムは安堵した。この時点で欲情を感じ取るほうがよかった。何度繰り返したとしても、迷宮へ送りだす支度はレシェムを緊張させるのだった。  浴槽へいざないながらレシェムは自身の首のうしろの留め金を外す。黒の神官服は背中で割れ、足元に落ちた。黒はこの神殿特有のものだという。都の神殿の神官は白を着るのだ。しかしレシェムは都を訪れたことがない。  全裸で浴槽へ歩み寄る男の眼がわずかに細められる。胸と背中、股間を横切る細い革の帯だけの姿で、レシェムは銀髪をうしろに払った。値踏みするようにみつめられてもどうということはなかった。何人もの兵士たちがこの部屋を通りすぎ、レシェムをみつめてきたのだ。  鎌の月はもう西の地平に沈んだだろうか。  男の亀頭を舌先で愛撫しながらレシェムはそんなことを考えている。全身を湯で清めた兵士の体は、無数の小さな傷で覆われていた。いくつか大きな傷もあった。太腿に残る長い傷は、よく脚を失わずにすんだと思わせるほどのものだ。  レシェムは湯に膝を浸し、浴槽の縁に腰をかけた男の屹立をもっと深く咥える。茎を下方へしゃぶったとたん、髪をつかまれて顔をあげさせられ、喉の奥まで深く突かれた。レシェムはえずきをこらえ、兵士の動きに遅れまいとする。この部屋で兵士を慰撫する神官は声をあげてはならないという掟がある。快楽だろうが、苦痛だろうが。一方、兵士はレシェムの頭のうえで恍惚のうめきをもらしている。  浴槽の先から角をまがると寝台が待っていた。素材だけなら最上の、しかし今の兵士はそんなことにかまってはいない。レシェムを引き倒し、うつぶせにしてのしかかる。 「ここは――」  荒々しい手がレシェムの背中の革帯をたどって、尻の割れ目を探る。 「神官どものここはいつも、準備ができているのか? え? 上の口は極上だったが、こっちはどうだ?」  兵士の息は荒かった。レシェムの胸や背中を縛る細い革は指の侵入を阻むことなく迎え入れる。しかし背後から太い楔が打ちこまれると、あらかじめ慣らされているにもかかわらず、体は一瞬苦痛でしなった。  神官は声をあげてはならない、快楽だろうが、苦痛だろうが。ただ兵士の欲望をその身に受けとめなければならない。 「都にいたころは――」兵士はレシェムの髪をつかみ、うなじに口をつけてささやいた。「女しか受けつけなかったんだがな。男しかいないのに、|神殿《ここ》は半端な娼館よりもっと――」  兵士たちの多くは秋に砦へ赴任し、春に戻った。この砦が『冬の砦』と呼ばれるゆえんである。真冬、この地は『国境』となる。王国の外たる迷宮から悪しき存在が森に迷いだすからだ。兵士は悪しきものを殲滅し、王国を守るために派遣される。砦と迷宮のあいだには神殿があり、神官は兵士たちを慰めるのだ。それこそが神に仕えることだと、レシェムは教えられて育った。  自分がどこで生まれたのかレシェムは知らない。他の神官には都から来た者や、森の外の村から選ばれた者もいるが、両親も知らないレシェムには遠い場所の話でしかなかった。  少年の頃は他の神官と同様に砦の兵士を慰めていたこともある。だがこの支度の部屋で、眼の前にいる兵士のような選ばれた者の相手しかしなくなって何年も経っていた。神官のなかでも素養のある者しかこの部屋のつとめは果たせない。兵士が砦に赴任するのと同様に、レシェムにとっても、この部屋での行為はすべて任務だった。  兵士はレシェムの髪をつかむ。細くなめらかな白金の髪は男の指のあいだをすべり、流れておちる。深くつらぬかれ、腰をうごめかせて男が自身の体内に放った精を受けとめながらも、レシェムは息を殺し、声を殺す。一方兵士はレシェムの耳元で呻き、何事かささやきつづけている。  迷宮へ向かう兵士は都の神殿で選ばれ、砦に伝達されるのだった。支度は三日月の夜に行われ、翌日迷宮へ赴くのだ。部屋にただよう香のために兵士はその後も二度達した。眠っている兵士をそのままにレシェムは寝台をそろそろと降りた。泥のように疲労していたし、股のあいだをつたって体液がこぼれるのも不快だ。  いつのまにか侍従があらわれて、無言のまま神官服を身につける手助けをしてくれる。沐浴場があるからといってこの部屋で体を洗うわけにはいかない。侍従が寝台を整えるのを横目にレシェムはゆっくりと支度の部屋を出て、自室に引き下がった。体を清め、支度の部屋よりはるかに狭い寝台に横たわって、落ち着かない眠りへ移行する。  翌朝、支度の部屋を訪れると男は用意された食事を旺盛な食欲でたいらげている。レシェムをみて満足そうな表情で眼を細めた。 「あんた、よかったぜ」  この男はどこから来たのだろう、とレシェムは思う。冬の砦の兵士たちに上流の者はまずいない。小さな村や都のはずれで育ち、兵士となった者。他の例にもれずこの男もそうなのだろうか。レシェムの知らない世界を通ってきた者。  この男が何者であれ、また戻ってこられればいい。そう考えながらレシェムはうなずく。 「時間です」と簡潔にいう。 「そうか」  兵士はすでに軍装を整えていた。ひとつだけ、昨夜は持っていなかった武装が加わっている。  ――剣。  レシェムは装備を身につけた兵士を従えて、支度の部屋の反対の扉をひらいた。男は眼前にのびる回廊をみつめ、驚いたような声をあげる。 「ここは神殿だろう。あれは――?」 「こちらへ」  レシェムは男を導いて回廊を歩く。神殿は砦と迷宮のあいだにある。正確にいえば、砦の中に入れ子か巣のように収まり、かつ、迷宮にも接しているのだった。悪しきものは迷宮のいたるところから森へ這い出して来るのに、逆はなぜかひとつしかない。迷宮の入口となる裂け目の扉は遠い過去、神殿を築いた者たちによってつくられた。  たとえ驚いたとしても、兵士はひるんでいなかった。まっすぐに扉をみつめている。 「私は戻らなければなりません」とレシェムはいう。 「ああ」男はふりむきもせずにたずねた。 「名前は?」 「レシェム」 「俺も戻れたら、またあんたに慰めてほしいな」 「ええ」  ほんとうにそうであってほしかった。  回廊をあとにしながら、レシェムの耳は裂け目の扉が開く音を聞いていた。神官にできるのは待つことだけ。神殿にいる者ができるのはそれだけだ。  月がゆっくり太っていく。  裂け目の扉が開かないまま、月は夕暮れの東の空に円い姿をあらわし、完全なかたちで森の上を通り抜けた。  その日、この冬最初の雪が降った。  悪しきものの哭く声が森の木立に響き渡る。兵士たちは部隊を組んで出動し、戦い、疲弊して、砦へ戻った。  あの兵士は戻らなかった。  レシェムは西の空を見上げる。  次に鎌の月があらわれる夜、べつの兵士の支度をしなければならない。

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