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第7話 黒瀬と慧
慧を抱いた堀 真人という男は29歳、それまでもが理人と同じだった。
終始優しく紳士的で、慧は自分が男であることを忘れさせられた。
そして何よりもその顔が、慧の理性をぐらぐらと揺さぶった。
いつもと同じ白衣を来て、今日は縁なしの眼鏡をかけている、理人。
今朝も黒瀬教授の研究室に行ったのか、すれ違いざまにワイシャツの襟もとに、小さな赤い痕がのぞいているのに慧は気づいた。
黒瀬に組み敷かれる理人の姿と、自分を抱いた真人の姿がオーバーラップして、慧は頭痛がした。
慧は、真人のことが忘れられないでいた。
それが理人に似ているからなのか、真人との身体の相性が良かったからなのか、判断を付けられないでいた。
「さっきから赤くなったり青くなったり、萩野くん大丈夫?」
「えっ」
「ずっと話しかけてるんですけど~」
「ご、ごめんなさい、えっと何でしょう?」
一年先輩の、瀧沢さくらが頬をふくらませて慧を見下ろしていた。
封筒に入った資料を慧の手にポンと置いて、さくらは言った。
「杉山准教授が、これを持ってきてくれって」
「へ?」
「へ?じゃありません。名指しなの。早く行ってきて」
「名指しってどうして・・・」
「昔お世話になったんでしょ?」
「それは・・・まあ、ずいぶん前のことですけど」
「何でもいいからさ、とにかく行ってきて?こっちが怒られるから」
「はあ・・・」
慧が杉山准教授に直接会うのは、およそ半年ぶりだった。
院内でもあまり遭遇しないので、緊張が走る。医局に向かう途中、あることに気づいて慧は足を止めた。
杉山准教授の直属の上司は、黒瀬教授だった。さらに緊張が高まった。
医局の扉の前で深呼吸をして、失礼します、と声をかけて扉を開けた。
見渡すと、たくさんの医師たちが騒めく最も奥で、杉山がコーヒーを片手に談笑しているのが見えた。
(急いでるようには見えねえな・・・)
気持ちが顔に出ないように注意して、慧は近づいた。
「杉山准教授、薬剤部の萩野です」
慧は、少し離れたところから会釈をしながら声をかけた。杉山は慧に気づくと、破顔して慧を手招きした。
「ああ、萩野くん、久しぶり。すまないね、わざわざ西棟まで」
いいえ、と答えながら近づくと、影になって見えていなかったソファに、慧に背を向けて座っていた人物が振り返った。
値踏みするような視線で慧を見たその男は、黒瀬だった。
瞬間、あの居酒屋で理人の携帯に表示された「黒瀬一樹」の文字を思いだし、慧の足はすくんだ。
回診や手術以外、滅多なことがない限り教授室から出て来ないと噂される黒瀬が、医局でくつろいでいるなど、かなり珍しいことだった。
「君はまだ新人だから、直接話したことはないだろう。こちら黒瀬教授だ」
杉山は、座ったままの黒瀬を手で示して紹介した。黒瀬は立ち上がろうともせず、軽く微笑して右手を挙げた。
慧は90度に身体を折り曲げて、萩野です、と挨拶した。
「萩野・・・」
黒瀬は独り言のように呟いた。慧が緊張して立ち尽くす横で、杉山が明るい声を出してフォローした。
「同じ大学の後輩でして。助教時代からの知り合いなんですよ」
「・・・そうか。薬剤部か?」
慧は黒瀬の低く良く通る声に、全身の肌がひりついた。はい、と答えるのが精一杯だった。慧が間近で見た黒瀬一樹という人物は、迫力のある男だった。
教授としては若いが、貫禄があり、威圧感もある。凛々しい眉の下の鋭い眼光が、整った顔立ちの中でも際立っている。
長身で中年にしては痩せ型の身体。理人と並んだら、黒瀬の方が少し大きいだろうかと想像して、慧は我に返った。
杉山に資料を渡し、脇の下の汗を感じながらもう一度頭を下げ、慧は医局を後にした。
「あれが、萩野ですよ。教授・・・好み変わりましたか」
「・・・馬鹿を言え」
「いや、すみません、冗談です。まあ・・・教授が気にするような男ではありませんよ。害のない奴です」
「杉山・・・世話をかけたな」
目を合わせることなく、黒瀬は杉山に低い声で礼を言った。
杉山は口の端だけで笑みを作り、医局を出ていく黒瀬に軽く頭を下げて見送った。
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