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再び・朝の珈琲

 こぽこぽと音を立てて、焦げ茶の液体がドリッパーを通過してサーバーに落ちていく。  ぽた、ぽた、とひとしずくずつ落ちていくそれを、游太は優しい目で見つめていた。  朝が早くても、もう暖房を入れるほど寒いということはない。しっかり上着を着れば、むしろ体感温度はちょうどいい。  四月はすぐそこ。年度が変わって新しい生活に入るひとも多いだろう。  先日、店に来てくれた美森さんは「将棋の会の場所が変わるんだ。家から近くなるから便利になるよ」と言っていたし、一緒にいた奈月は「四月から二年だから、先輩になるんだ」と誇らしげだった。  ほかにも「部署異動があってね」と話してくれる常連のお客もいたりする。桜もちらほら咲きはじめた季節は、変化の季節でもある。  カフェ・レニティフも春のメニューが増えていき、だんだん変わっていく。  今朝の游太は、少し早く目が覚めた。朝に弱いので珍しいことだが。  隣でまだよく眠っていた弘樹の額に軽くキスをして、起こさないよう静かにベッドを出た。  階下へ降りて、厨房でコーヒーを淹れる。手にしたのはブルーマウンテンの袋。しっかり濃い、コクのある味は朝の一杯にぴったり。  昨夜、弘樹は少し夜ふかしをしていたから、濃いコーヒーで目が覚めるように、それを選んだ。  コーヒー豆はブルーマウンテンだけではなく、ブレンドから単一までたくさんの種類を置いている。それは游太が自分の商売道具として探してきたものだ。  豆だけでなく、ドリッパーも、サーバーも、勿論コーヒーカップなどの食器類も。  ひとつひとつ、丁寧に選んで、良いと思ったからこそここにあるもの。選んできたそれらは、この空間の構成にひとつだって欠かせない。  選ぶということは恐ろしいことである、と言うひともいる。偶然が重なる不安定さがあるのだと。  しかし選ぶことは幸せなことだと思いたい、とだんだん濃くなっていく香りの中で游太は思った。  選ぶことができたなら、好きなもので身の周りを満たすことができるから。  それはいろんな選択肢があるからできること。  ひとつのものしかない中で、それを手にするのとはまったく違うこと。  確かに不安定な部分もある。ほかの選択肢があることで気持ちが揺らいだり不安になってしまったりもする。  けれど選んだものは、その不安すら上回る素敵なものになってくれる。  だから選ぶということは奇跡だ。  游太が弘樹を選び、弘樹もまた游太を選んでくれたことも。  (完)

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