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 幼い頃に交通事故で両親を亡くした俺は、ばあちゃんに育てられた。  ばあちゃんは気の弱い俺にいつも、3つのことを言って聞かせた。  1、人に親切にすれば、必ず自分にも返ってくる。  2、言霊(ことだま)はある。叶えたいことをいつも口にしていればいつか叶うし、他人に酷い言葉を浴びせれば、自分も同じ目に遭う。  3、良い行いは、誰も見ていなくても、絶対に神様が見ている。  友達にいじわるをされたとき、何か失敗したとき、あるいは、作文コンクールで表彰されたとき。  ばあちゃんはいつも、優しい口調でこのことを言ってくれていた。  ときには、この教えのせいで傷ついたこともあって、自分が悪い子だったから両親は死んでしまったのではないかとか、ひとに親切にしたって親はいないし良いことなんてないとか……。  それでも根気強く向き合ってくれたばあちゃんのおかげで、気弱だった俺も普通にまっすぐ育ち、故郷から遠く離れた東京で、なんとかやれている。  両親とばあちゃんの仏前に、手を合わせる。出勤前の日課だ。  5年前、俺が21の時に、ばあちゃんは亡くなった。  大学を出たら良い会社に入って、ばあちゃんに楽をさせてあげたいと思っていた俺にとっては、スーツ姿を見せてあげられなかったことが、心残りで仕方がない。  でもばあちゃんは、病魔に蝕まれながらも懸命に戦い、やり抜いて天国へ行ったと思うので、やっぱり強いひとだったと誇りに思っている。  会社の最寄である山手線大崎駅に降りたとき、ふと、ホームのベンチでうずくまるひとが目に入った。  時刻は8:15。始業の9:00まではまだ時間があるし、知らんぷりして通り過ぎてあとで後悔するのも嫌だったので、迷いなく声をかけた。 「大丈夫ですか?」 「……はい」  小柄な、たぶん大学生くらいの若い青年。  頭をちょっと上げたら顔が青白く、どう見ても大丈夫じゃなさそうだった。 「駅員呼んできましょうか」 「いえ……休めば治るんで……」  と言いつつ、じんわりと汗をかいている。  そして、いまにも戻してしまいそう。  俺は鞄の中を漁り、電車に乗る前に買ったコンビニの袋を取り出して、青年の前に出した。 「楽になるなら吐いちゃってください。水もあります」  ペットバトルを差し出すと、無言でぺこっと頭を下げて、少し口をつける。  そして、袋の中へ盛大に吐いた。  通り過ぎるひとたちは、うわっという目ちょっと見て、エスカレーターに向かっていくだけ。  青年は浅い呼吸を繰り返していて、もう一口飲んで、また少し吐いた。  返事をするのも辛いかと思い、黙って様子を見つつ、袋を縛る。 「……すいません、少し楽になりました」  青年は小声でつぶやくと、ふーっと長く息を吐いた。  視界の端に、駅員が目に入る。  さすがにこれをゴミ箱に捨てるのはまずいと思ったので、どうしたらいいかと聞きに行ったら、そのまま受け取ってくれた――ウイルス対策のマニュアルがあるらしい。  感謝されて、大したことじゃないと思いながらベンチに戻ったら、青年はいなかった。  とりあえず、歩けるくらいになったならよかった。  水も持っていったようなので、少し安心する。  無理してないといいなと思いつつ、俺も少し急ぎ足で会社に向かった。  仕事が終わったのが20:00。  駅の改札に向かって歩いていたら、後ろから声をかけられた。 「すいません」  振り返ると、今朝の青年だった。 「あ、朝の。その後大丈夫でした?」 「はい。お礼もできなくてすいません。あのあとまた気持ち悪くなっちゃって、トイレに駆け込んでて。ベンチに戻ったらもう姿が見えなかったので、お礼言いたかったって思って……もしかしたら会えないかなって思って、待ってました」  体調が悪いのに、こんな寒いなか、わざわざ待っていてくれたのか。 「気を遣わなくてよかったのに」 「いえ、本当にお礼が言いたくて。ありがとうございました」  ぺこっと頭を下げると、こげ茶色の綺麗なボブが、さらっと揺れる。  そして顔を上げて目が合うと……ガラス玉のような茶色い瞳に、吸い込まれるかと思った。  どこか中性的な、整った顔立ち。表情はなく、じっと俺の目を見ている。 「病院へは行ったんですか?」 「いえ、吐いたらすっきりしたんで、そのまま学校に行きました。いまは大丈夫です」  やっぱり学生さんだったか。  とりあえず治ったなら良かったけど、今年のお腹の風邪はしつこいとニュースでやっていたから、養生してほしい。 「季節の変わり目ですからね、お大事にしてください。それでは」  ちょっと頭を下げて立ち去ろうとしたら、くいっとコートの二の腕のあたりを引っ張られた。 「あの、お礼させてほしいんですけど。食事とか」 「え? 本当に、気を遣わなくていいですよ」 「……ひとに優しくされたの、久しぶりで」  そう言って、ちょっと恥ずかしそうに目をそらす。  大人しそうな子だし、きっと、勇気を出して言ってくれているのだろう。  素直にお言葉に甘えることにした。

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