157 / 157
番外編 再会直前
1998年5月 東京
柄にもなく、緊張しているじぶんを鏡のなかに見て、孝弘は深呼吸した。
東京本社のトイレはどこもかしこも清潔で、真っ白な大きなタイルも曇りひとつなく映し出される鏡も、中国慣れした孝弘の目には眩しいくらいだ。
洗面台の前で、もう一度深呼吸をする。
あまり着なれていないスーツはネクタイのせいで首回りが苦しい気がする。
ほんのすこしだけノットを緩めて、背筋を伸ばした。
あの人に、絶対に子供っぽい態度など見せたくはない。
年下は好みじゃないとはっきり言われているのだ。
ここまで追ってきたじぶんを見たら、彼はどう思うだろう。
それを考えると胸が苦しくなるほど不安になる。
いや、やめよう。
いまさらそんなことを考えるのは。
どうしても彼のそばにいたいと決心して、ここまで来たのだ。
1年前、広州の交易会で見かけてから、きょうをどれだけ夢見たことか。
鏡のなかのじぶんに言い聞かせた。
落ち着け。
…いや、落ち着けるわけなんかない。
もうすぐ、祐樹に会えるのだ。
北京で出会ったのは5年前。
半年足らずの短いつき合いで、気持ちをぐいぐい持って行かれて、気がついた時にはもうじぶんでもびっくりするくらい好きになっていた。
その勢いのまま告白して、あっさり振られた。
それでも気持ちを断ち切れなくて、思いをぶつけた。
満月の夜の、賭けのような誘いに、彼は乗った。
たった一晩、やさしく熱く体を重ねて、翌朝には消えてしまった想い人。
何を考えて許してくれたのか、あれから何度も考えてみたけれど、わからなかった。酔っていたからか同情か憐れみか、最後の最後でほだされたのか。
ほんの少しくらいは気持ちがあったのか…?
大人の彼は、孝弘には何も告げることなく、ただ一晩の思い出だけを残して去った。
「上野さん、こちらです」
部長室というプレートが入った部屋には、部長の緒方がいて話が弾んだ。
5年前、孝弘が初めて祐樹に出会って、その日のうちに通訳のアルバイトを頼まれたときから知っている人だ。当時の肩書はまだ課長だった。
数年前から部長となり、孝弘とも中国からの国際電話で何度も話をしているが、実際に会うのはこれが初めてだった。
祐樹が誘った単発の通訳のあとの夏休みの長期アルバイトから始まって、北京支社には長い間アルバイトに通ったし、ここ1年はあちこちの支店の短期契約を繰り返したから、話題には事欠かなかった。
最近の北京や上海の雑談でリラックスしたところへ、高橋さんが外出から戻りましたと女子社員が伝えにきた。
途端に全身に緊張が走った。
握りこんだ手が震えそうな気がする。
ノックの音がして背後のドアが開いて祐樹が入ってくる気配を、孝弘は全身で感じていた。
「おう、お疲れ。来週の北京出張のコーディネーター、紹介しておく。前にお願いしてた坂井さんが出産で休暇取ったらしい。で、こちらの上野さんが今回のコーディネーターだ」
緒方が紹介するのに合わせて深呼吸してソファから立ち上がり、ふり向いて祐樹と目を合わせた。
祐樹がかるく目を見開いて、息を飲んだ。
凍りついた表情で、祐樹が孝弘を覚えていたと知ってほっとした。
忘れられてはいなかった。
5年ぶりに会う祐樹は、すこし大人っぽくなっていた。
以前はまだ学生でも通りそうな線の細い感じがあったが、いまの祐樹には仕事をしている大人の落ち着きがあり、思わず見惚れそうになる。
「今回の出張に同行させていただくことになりました上野孝弘です。現地での通訳とサポート全般を担当することになっています」
感動に胸を震わせながら、かろうじて笑みを浮かべて名刺を差し出した。
手が震えなかったのは上等だ。
祐樹は目線を微妙にそらしている。
名刺を受取って、じぶんも出そうとしたのだろう、胸元を探りかけてはっとした顔になる。
「すみません。名刺入れを置いてきてしまって」
そこで緒方が笑い出し、緒方の言葉で、祐樹は旧知の仲であることをみんなが承知していると思い出したらしい。祐樹の動揺が透けて見える。
ねえ高橋さん、この5年間、俺のことなんか忘れてた?
すこしは思い出したりした?
あの夜のこと、今でも覚えてくれている?
祐樹は孝弘の視線を避けるように名刺に目を落とし、一呼吸おいて顔を上げて目を合わせてきたときには、もうさっき見せた動揺は消えていた。
そうだった、ポーカーフェイスのじょうずな人だった。王子さまのような微笑みを武器に、したたかな交渉術を持っている人だった。
孝弘の強い視線に臆することなく、真っ直ぐに見返してくる。そこに嫌悪や拒否といった感情は見られなくてほっとするが、本当の気持ちは読み取れない。
さあ、勝負はこれからだ。
孝弘は強い決意とともに、祐樹に向かってさわやかに笑いかけた。
完
ともだちにシェアしよう!