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第8話 家
理人が仕事に復帰して三日目。黒瀬に呼ばれ、教授室のドアを叩いた。
「長谷川くん、体調はもう大丈夫?」
豪華な応接セットに、黒瀬と向かい合って杉山が座っていた。理人の顔をみるなり立ち上がった。理人は頭を下げながら、笑顔で答えた。
「杉山准教授のおかげです・・・助けていただきありがとうございます」
黒瀬が登坂を殴り倒していたあの時に、気を失った理人を抱え、さらに車を運転してマンションまで運んだのは、杉山だった。
黒瀬はソファで脚を組んだまま、杉山と理人が話すのを興味深そうに見ている。
杉山は黒瀬とそう歳は違わないはずだが、その明るい雰囲気と気さくな物言いから、若く見られることが多かった。理人に対しても、身体を気遣いつつ、辛いことを思い出させないように話を上手に進めた。
「これからは、必ず俺が直接呼び出す。長谷川が教授室を出入りすることは、俺の意志だ。隠す必要もないし、誰かがそれをネタにするようなことがあれば、俺に言え。俺が居ないときは、杉山に言えばいい」
黒瀬の話す横で、杉山は穏やかな視線を理人に向けていた。
理解があるとは言え、杉山の前で黒瀬が平然と話すのを理人は気恥ずかしく思った。杉山は白衣のポケットから名刺を取り出し、理人の目の前に差し出した。
「裏の番号が携帯だ。何かあったら遠慮なくここに」
「ありがとう・・・ございます」
両手で受け取った名刺には、杉山 瞬(すぎやましゅん)と、フルネームが印刷されている。理人が両手で受け取ると、杉山は軽く微笑した。
「それで杉山、他にやばい奴はいないだろうな?その度に殴っていたんじゃ俺も身が持たん」
「教授は何事も極端なんですよ・・・紅帯保持者が殴るとか危険すぎますから・・・僕が根回しするのにどれだけ大変だったか知ってます?」
「お前は学生時代からそういうのが一番得意だろ?」
「ええ、尻拭い担当ですから。・・・それでですね、登坂みたいなぶっ飛んだ奴はいないと思います。ただ長谷川くんは・・・目立つので」
「目立つ?」
黒瀬とほぼ同時に、理人も同じ言葉を小声で呟いた。
杉山は腕を組んで、真顔で続けた。
「この美貌です、ナースたちの間ではもちろん、登坂ほどではないにしろ、そっちの方面の奴らも色めき立ってはいますね。当面、手を出すと黒瀬教授に殺されると触れ回っておきますか」
「えっ」
思わず理人が驚きの声を上げたのを、黒瀬はさも楽しそうに笑った。
「それがいい・・・杉山、お前はどう思う?」
黒瀬は不敵な笑みを杉山に向けた。理人を親指で示しながら。
理人と杉山の目があった。意味を計りかねた理人に、杉山は穏やかな表情を崩さずに言った。
「僕は教授と刺し違える覚悟はありません。・・・美しいとは思いますが」
言葉の意味を知った理人が複雑な表情をしているのをよそに、杉山は会議があるといって、軽い挨拶で教授室を出た。
「杉山はお前と同じだ。女は抱けん」
二人きりになったのを待って、黒瀬は呟いた。ソファから悠然と立ち上がり、理人の腰に手を回すと、顔を近づけて言った。
「若い時からお互いの性癖をよく知ってる。俺が男もいけるのを最初に見抜いたのが杉山だった。あいつから何か漏れることはない。安心しろ」
「見抜いた・・・?」
理人の言葉に返事はせず、唇にごく軽く触れる程度のキスをして、黒瀬はデスクに戻ろうと踵を返した。
その白衣の袖を、理人がきゅっと掴んで止めた。
「教授・・・」
「・・・何だ?」
「見抜かれた・・・だけですか?」
「・・・そうだ」
「本当に?」
「何が言いたい?」
「・・・杉山先生と・・・何かありました?」
理人の必死な瞳に、黒瀬が怯む。白衣の袖はまだしっかり理人が捕らえている。
黒瀬の逡巡する表情に、理人が青ざめる。
「・・・今はなにもない」
「今・・・」
「20年以上も前だぞ。俺も杉山も忘れてる。だからお前を任せられるんだ。信じろ」
「・・・僕だけを・・・見て下さい」
「そうしてる」
「もっと・・・息苦しいくらいに、僕だけを見て!」
黒瀬の胸に体当たりをして、理人は叫んだ。
黒瀬と杉山の関係は、大学時代。黒瀬の初めての「男」としての相手が杉山だった。それから数十年が経ち、黒瀬は女性と結婚して破局し、杉山は独身を貫いている。
黒瀬はひとまわり以上年若い、傷つきやすい恋人を愛おしそうに抱きしめた。
「お前しか見ていない。・・・束縛してほしいのか」
「束縛してください・・・誰も、手出し出来なくなるくらいに・・・」
黒瀬は理人を抱いたまま、宙を見つめて何か考えた。
そして悲痛な表情の理人を冷たく見下ろすと、急に首筋に噛みついた。
「痛っ・・・」
登坂の付けた肩の噛み痕の逆側に、黒瀬の付けた痕。首を大きく傾ければワイシャツの襟から半分見えるか見えないかの位置だ。
驚く理人に、にやりと笑みを作った。そして襟をぐいと押し下げ、鎖骨の真ん中を、強く吸った。
「教授・・・っ?」
「これからは見える場所にマーキングしてやる。今まで我慢していたが・・・その必要は、もうなさそうだな」
何かを言い掛けた理人の唇を塞いで、その腰を自分の脚に押しつけた。
離れた唇からは唾液が糸を引いた。
黒瀬は今度こそ、デスクに向かって踵を返した。
デスクの引き出しから何かを取り出し、理人の手に何かを持たせた。
「これを使え」
「僕、合い鍵を・・・」
黒い皮のキーケースに入ったマンションの鍵を手に、理人は戸惑った。
合い鍵を貰ったのは、つい10日程前のことだった。
「今日から、お前は俺の家に帰れ。今住んでいる部屋は引き払え」
「教授・・・」
「これ以上何かあってはたまらんからな」
にやりと笑って背中を向けた黒瀬に、ぶつかるように理人は抱きついた。
黒瀬は、ちょうど鳴り出した内線電話の呼び出しを無視し、教授室の鍵を閉めた。
完
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