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番外編SS『はじめてのバレンタイン』〈累目線〉

 四歳になり、累ははじめてバレンタンデーにチョコを贈るイベントがあることを知った。  父・陣吾とともにスーパーへ立ち寄ったとき、でかでかと飾り付けられた真っ赤なハートのバルーンに累は目を奪われた。カゴを片手に「白菜が安いな……」とひとりごとを呟いている父のコートの裾を引っ張り、「あれはなに?」と尋ねてみる。 「あれはね、バレンタインのチョコ売り場だよ。チョコいーっぱい売ってるぞ」 「ふーん。なんでチョコ?」 「ああ、累はまだ知らないか」  その時の陣吾の説明で、日本には『バレンタンデーに好きな人にチョコを贈る』習慣があるのだということを累は知った。その瞬間、ぱっと脳内に閃くのは、当然のごとく空の可愛い笑顔である。  空にチョコレートをプレゼントしたら喜んでくれるだろうか。自分のことをもっと好きになってくれるかもしれないと想像すると、胸がドキドキと高鳴った。    累はぎゅっと父のコートを強く握って、青い瞳でチョコをねだった。 「ねぇパパ、チョコかおう! パパもママにプレゼントしたらいいよ!」 「あ〜、うん。それもいいんだけどねぇ。女の人から男の人に贈るっていうのが一般的なんだよね」 「? なんで? すきなひとにチョコレートをプレゼントするんでしょ? どっちでもいいじゃん。ねぇ、かおうよぉ」  普段ものを欲しがることのない累が珍しく食い下がってくることに驚いたのか、父・陣吾はちょっとばかり面食らった顔だ。だが、丸い顎に手を当てて一瞬なにか考えているようなそぶりを見せた後、すぐに累に向かって笑顔を見せた。 「ま、そうだよな! よし、チョコ買おう!」 「ほんと!? やったぁ!」 「累はどんなのにする? ママにはお酒入ったやつがいいよな〜。あとは自分用と……」  そんなやりとりをしながらハートのバルーンを目指す。累は陣吾のコートの裾をぐいぐい引っ張りながら小走りだ。 「わぁ〜! すごいね、いっぱいある!」  そしてたどり着いたチョコレート売り場は、甘い香りに満ち溢れていた。きれいに飾られた宝石のようなチョコレートの前で、たくさんの女性たちが目をキラキラ輝かせている。皆がときめいたような表情を浮かべている空間だ。累もなんだか楽しくなってしまい、パッと陣吾から離れて売り場をうろうろ見て回った。  そして見つけた。空にぴったりの可愛らしいチョコレートを。  子どもでも手が届く高さに陳列された列の真ん中に、ハート型の小さな箱に入ったチョコレートが陳列されている。箱の色は四色あって、赤、ピンク、オレンジ、そして鮮やかな水色だ。累は迷わず空色のハート型の箱を手に取り、両手にそっと包み込んだ。  きれいな水色のハートに、つるんとしたきれいな白いリボンがかかっている。これを渡した時の空の表情を思い浮かべて、累は自然と笑みを浮かべていた。 「あっ、もう! 累、急に離れたらあぶないでしょ!」 「パパ、これかって!」 「おっ、可愛いの見つけたなぁ。水色……ああ、なるほど、空くんにあげるの?」 「うん!」 「そっかそっか。累は空くんと仲良しだもんなぁ。早瀬さんにはいつもお世話になってるし……」 「パパは? ママのチョコあった?」  そう尋ねながらカゴの中を見上げてみると、そこにはカラフルな包装紙に包まれたチョコの箱が山のように収まっている。累は目を丸くした。 「こんなにかうの? ママ、ふとっちゃうよ?」 「あ、これはね、だいたいパパの。ママのはこれ、お酒入ってるおいしいやつだよ」 「ふーん。パパ、ふとらない?」 「ん〜〜まぁ、太るかもしれないけど、お仕事で痩せるからきっと大丈夫だよ! いやぁ、おいしそうなのいっぱいあるんだもんなぁ」 「だね〜」  頬をツヤツヤさせている父親と手を繋ぎ、レジへと向かう。  早く明日にならないかなと、累は思った。    +  そして翌日。  緊張に胸を高鳴らせながら、累はその日を迎えていた。  本来ならば、チョコレートは保育園に持ってきてはいけないものだ。なので、帰り際を狙って空にプレゼントしようと考えた。その瞬間を想像すると落ち着かなくて、累は一日中上の空だ。いつもはこぼしたりしない給食のご飯や、おかずの煮豆を箸からコロコロと取り落としてしまい、空に「るい、こぼしちゃだめでしょ」と甲斐甲斐しく世話をされてしまった。  それはちょっと恥ずかしかったけれど、なんだかすごく嬉しくて、頭の中がふわふわとお花畑になってしまったような気分だった。  そして、夜のお迎えタイムが近づいてきた。  今日の空は泊まりではなく、夜の給食の後にお迎えが来るのだということを、前もってあいこ先生に確認しておいた累である。ちなみに累はお泊まりだ。最近めっきり空と一緒に眠ることができなくなってしまったため、夜が寂しくて仕方がない。  ちらりと時計を見ると、短い針が8に近づいている。そろそろ空にチョコレートを渡さなきゃ……! と思い、累は廊下にあるリュックサック置き場に空を誘った。 「るいー、どうしたの?」 「……う、うん。あのね、そらくんにわたしたいものがあって」 「わたしたいもの? なにぃ?」  累に手を引かれて素直に廊下までついてきた空の前で、リュックサックをごそごそと探る。そして、そこから小さな白い紙袋を恭しく取り出した。  そして、両手でしっかりと持ち手部分を握りしめ、そっと空に手渡した。 「? あっ、なにかはいってる」 「う、うん。チョコレートだよ。きょうはね、バレンタインデーっていって、すきなひとにチョコレートをプレゼントする日なんだって」 「チョコレート!? わ〜! ありがと、るい!」  チョコと聞いた途端、空のくりくりした目がきらきらとまばゆくきらめいた。思っていた以上に可愛い笑顔を見ることができて、ときめきがとまらない。累は胸をキュッと押さえた。 「にぃちゃんねぇ、むしばになるからチョコはだめっていうんだよー」 「へ、へぇ……そうなんだ」 「そらにはだめっていうのに、にぃちゃんはいーーーーっぱいチョコレートもってかえってきたんだよ」 「へぇ……そうなんだ。うらやましいね……」  ——あれ……なんだか、ちょっとおもってたのとちがう……  累としては『好きな人』にチョコレートを贈っているのだという部分を、もっと空にわかってほしかったのだが……。  空は純粋に、チョコレートをもらえたということを喜んでいるようだ。累はなんだか焦ってしまって、「バレンタインだからね、すきなひとにチョコをあげたんだよ」と重ねて言ってみた。 「うん! ありがとー! うれしい!」 「う、うん……どういたしまして」  すると空は、白くて丸いほっぺたを嬉しそうに桃色に染め、さっそくのように箱の匂いをくんくんと嗅ぎ始めた。そして「いいにお〜い!」と目を細めている。……その姿は天使のように可愛いのだけど、……なんだか、思ってたのと違う。  とそこへ、「そらくーん、おむかえだよ〜!」とあいこ先生の呼ぶ声が聞こえてきた。累のはじめてのバレンタインは、どうやらタイムアップらしい。 「あら、もう廊下にいたんだ。ここじゃ寒いでしょ?」  と、あいこ先生がいそいそと近づいてきたかと思うと、空が手にした紙袋に目を止めたらしく、ハッと何かを悟ったような顔をした。  そして、ニコニコ嬉しそうな空と、どことなく物悲しげに眉を下げている累を見比べて、あいこ先生は「ああ……なるほど、なるほど……」とつぶやきながら頷いている。  本来持ってきてはいけないものを持ってきたことを見咎められているのかと思い、累は慌ててあいこ先生に謝った。 「ごめんなさい。チョコ、そらくんにあげたくて、もってきちゃった」 「んぐぅ………………そ……、そっかぁ〜〜!! そっかそっかそっか、累くんから、空くんに……」 「もってきちゃだめってわかってたんだけど……」 「う、うっ……うううん、まぁ、まぁそうだけど、今回は先生、特別に見なかったことにするから! さ、空くんもリュックにしまっちゃお!」 「はーい!」  空はいい返事をして、自分のリュックサックにしっかりとチョコレートをしまい込んだ。そしてもう一度累を見上げて、「ありがと、るい!」とお礼を言う。  ——う、うーん……嬉しいけれど、なんだか……ちょっと思ってたのと違う…… 「ど……どういたしまして……」 「あっ、いっせーだ! ただいまぁ〜〜!!」  そして、玄関口に壱成の姿をみつけるやいなや、空はそっちへ一直線だ。そしてスーツ姿の壱成にぎゅっと抱きつきながら、さっそくのように「るいにねぇ、チョコもらったんだよー!」と報告している。 「へぇ、チョコもらったんだ! よかったね、空くん」 「うん! はやくたべたいなぁ〜」 「食べた後はしっかり歯磨きしなきゃだめだぞ? 彩人がうるさいからな」 「はーい!」  玄関口でキャッキャと楽しそうな声をあげている空を見送ろうと、累はあいこ先生にくっついていった。すると壱成も累に気づいて、にっこりと爽やかな笑顔を見せる。 「累くん、チョコレートくれたんだってね。ありがとう」 「……いーえ、どういたしまして」 「あ、あれ……なんか怒ってるのかな……? あはは……」  どうやら相当な仏頂面になっているらしく、壱成が冷や汗をかきかき苦笑を浮かべている。すると、あいこ先生が壱成の傍にある紙袋に目を留めて、感嘆の声をあげた。 「霜山さん、すごい荷物ですね。この紙袋、ぜんぶチョコレートですか?」 「ああ……はい、そうなんです」 「さすが……。きっと早瀬さんもたくさんもらって来られるんでしょうね」 「そうなんですよ。あいつ、先週くらいからチョコ持って帰ってきまくってて、置く場所にも困ってて……」 「すごい…………想像通りというか、さすがすぎるというか……」 「え?」 「あっ……いえ、なんでもありません」  などという大人の会話が終わったところで、累は力無く空に手を振った。ニコニコ顔で壱成と帰っていく空の背中を見送りながら、累は「はぁぁ…………」と重く湿ったため息をつく。  そんな累の肩を、あいこ先生がぽんと力強く叩いた。そっちへ顔を向けると、あいこ先生はなにやら力強い眼差しで累をじっと見つめている。 「累くん、浮かない顔だけどどうしたの? 空くん、チョコ喜んでくれてたじゃない」 「よろこんでくれたけど……なんか、おもってたのとちがった……」 「思ってたのと?」 「そらくんがぼくの『すきなひと』だからチョコをプレゼントしたんだよってことを、もっとはっきりいえばよかったなって……」 「ンんぐぶっぅ…………そ、そっか…………そうだったか……」  どうしてだろう。あいこ先生は真一文字に惹き結んだ唇をプルプルさせているし、顔も真っ赤だ。なのに目はうるうるしていて、なんだかすごく変な顔をしている。累は軽く引いた。 「あいこ先生、どうしたの? くしゃみでそうなの?」 「ごっ……ごめんね、ちょっとその……あまりにも尊くて…………」 「え? なんて?」 「うっううん、なんでもない! じゃあ、来年はもっと上手に伝えられるようにがんばろう!! きっと大丈夫だよ、累くんなら!」 「うん……らいねんはがんばるね」  あいこ先生に励ましてもらって、ちょっぴり元気が出た。  手を繋いで布団に向かいながら、累はひとつおおあくびをした。なんだかんだで一日中緊張していたせいか、今夜はすごく眠い。  ——らいねんは、もっとかっこよくチョコをわたせるようにがんばろう……!!  堅い決意を胸に抱きつつ、累は枕を抱きしめながら眠りにつくのだった。 番外編SS『はじめてのバレンタイン』 おわり♡

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