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反省という訳でもなかろうが、フレデリックは辰巳が目を覚ますまでその躰をずっと抱えていた。それはもう大事そうに髪を撫でながら。
◇ ◆ ◇
どんよりと重苦しい雲が空に広がり、些か海も不穏な雰囲気を醸し出していたある日。辰巳とフレデリックの姿は船内のトレーニングジムにあった。いざという時などそうある事ではなかったが、それでも躰は資本である。寝台の上で運動をしてもなお体力が有り余っている二人は、たまには健全な運動をするかと部屋を出てきた。
辰巳とフレデリックの船旅はこれで二度目である。フレデリックは元より、辰巳も船内の施設などは大方頭に入っていた。とは言え、辰巳がひとりで部屋を出る事はそうそうある事ではなかったが。
ジムでトレーニングをすると言っても、辰巳とフレデリックではまったくメニューが異なる。辰巳はただのストレス発散程度で満足だが、フレデリックはと言えばその辺の格闘家も逃げ出したくなるようなハードな内容だった。
当初少しくらいは一緒に運動するかと思っていた辰巳が、話を聞いただけで早々に諦めた事は言うまでもない。
それぞれに汗を流し、今は二人ともクールダウンを兼ねてランニング中である。こうしてフレデリックと過ごしていると、この男は化け物ではなかろうかと思う辰巳だ。
身長差は、たった三センチ。体重も然程変わらない。いったい何がそんなに違うのだろうかとぼんやり考えていれば、後ろから唐突に声をかけられた。英語のそれは、フレデリックに対するものだ。
『ようフレッド、相変わらず良い躰をしてやがる』
『ジャック。どうしたんだい? キミがこんな所に来るなんて珍しいじゃないか』
『それがよ、キングが”オトモダチ”をこのところ断ってるって噂があってな?』
どうやらクルー同士の噂話を吹き込むためにフレデリックの元へとやってきたらしいジャックは、そこに来てようやく辰巳の姿に気付いたようだった。
フレデリックがマシンから降りたのをきっかけに辰巳も床に立つと、ジャックが手を差し出してくる。
『俺はジャック。この船のカジノでディーラーをしてる』
『辰巳だ』
『お噂はかねがねだぜ。うちのキャプテンのスイートハニーだ』
『残念だけどジャック、辰巳は僕のハニーじゃなくてダーリンだよ』
さらりと笑顔で言ってのけるフレデリックに、ジャックが肩を竦めてみせる。
『そいつは失礼した』
『キングが”オトモダチ”を断ってるって、誰か恋人でも出来たのかな?』
『さあ、そこまでは。だが、こいつはちょっと前の話だが、おたくのキングが交際を申し込んだって話だぜ?』
『それはそれは…』
フレデリックとジャックの間で交わされる遣り取りは、辰巳にはいまいちよく分からないものだった。分かった事と言えば、キングが二人いて片方が友達を断っているというそれだけである。
だが、フレデリックの方は話が通じているらしく興味深げに頷いているので辰巳は黙って会話を聞いていた。
『うちのキングとおたくのキングがねぇ…』
『面白い話だろう?』
『そうだね。もし繋がったとしたら、それはそれでビッグニュースになるんじゃないかな?』
『まあ、あの二人じゃどう足掻いても合わねぇとは思うが、うちのキングが真面目になったとあっちゃあ話題にもなるってモンだ』
『確かにね。情報提供ありがとうジャック』
『また何かあったら知らせてやるよ、キャプテン?』
そう言ってふらりと居なくなってしまったジャックは、どうやら本当に噂話を吹き込むためだけにやってきたらしかった。随分と暇なんだなと辰巳が見送っていれば、隣でフレデリックがクスクスと笑う。
「どうしたんだ?」
「いや、今の話だけどね…ジャックの言ってたキングっていうのは、実はクリスの事なんだよ」
「友達を断ってるって話か」
「そうそう。まあ、そのオトモダチっていうのもちょっと訳アリでね…」
続きはシャワーを浴びてから話そうとフレデリックは言った。どうやら長くなるらしいがどうせ時間はたっぷりあると、辰巳はフレデリックと共にシャワールムへと向かう事にした。
クリストファー《Christopher》略称はクリス、年齢は三十八歳。身長、百八十四センチ。体重、六十九キロ。国籍はフランス。
肩まである赤茶の髪は緩く弧を描き、グレーの瞳をしている。大型客船『Queen of the Seas』のカジノディーラーだ。ゲームマネージャーである彼は基本的にすべての業務をこなすが、通常の担当はカード。ディーラーの仲間内でキングという愛称で呼ばれる彼は、特定の恋人を作らない事で有名だった。
そしてクリストファーもまた、フレデリックと同じ組織に属するマフィアである。フレデリックと共に養父であるアドルフ《Adolf》の下で育てられた、年は同じだがフレデリックにとっては弟なのである。それを知っているのは、本人たちと辰巳くらいのものだ。
というより辰巳がヤクザである事は知れているが、フレデリックやクリストファーには素性を隠さなければならない事情があった。沈黙の掟というものがマフィアにはあるのだ。自分たちがマフィアであるという事を隠して、組織自体を非公然のものとしているのである。
ヤクザとマフィアでは、その点が決定的に違っている。公然と看板を掲げ、暴力団というその名の通りの犯罪者集団と、徹底的に沈黙を守り、非公然の組織として活動するマフィア。どちらがより凶悪であるかと聞かれれば、その答えは言わずと知れたものだった。
辰巳はフレデリックの素性を知った事により、一度フランスに呼び出されている。その時にフレデリックの養父であるアドルフと顔を合わせた。いやむしろ絆を試されたとでも言うべきか。
元より辰巳もフレデリックも互いが好きなら許可など糞喰らえとばかりについでにボスのアドルフを脅し、フレデリックは日本へ拠点を移すという我儘を通してきたところである。
それは弟であるクリストファーも知っていて、フレデリックが拠点を移すにあたり不都合が生じた穴埋めをしてくれる事になっていた。幼い頃からあらゆる格闘技を叩き込まれて育ったクリストファーは、辰巳にとっては体術の師匠のようなものだ。前回のクルーズで知り合って以降、色々と教えてもらっているのである。
辰巳はこれまでに格闘技などを習った事はない。学生の頃に一度柔道を齧った程度だが、すぐにやめてしまっていた。
シャワーで汗を流し終えた辰巳とフレデリックは、ジムに併設されたラウンジで合流した。こういう時も大抵はフレデリックが先に辰巳を待っている。
体躯の大きな二人は、互いにどこにいるかがすぐに分かる。笑顔で手を上げるフレデリックを、辰巳はすぐに見つけることが出来た。
体躯の大きさは元より、片方は金髪で、片方は幾分強面である。そのうえ百九十センチ近い身長を誇る二人なのだから、存在感は言わずもがなだ。ただ並んで座っているだけでも目立つことこの上ない。
だからと言って当人たちに気にした様子は全くなく、フレデリックに手渡されたミネラルウォーターを辰巳は一息に飲み干した。空のペットボトルをめこめこと潰す。
「腹減った…」
「夕食の前に軽く何か入れようか」
「ああ」
辰巳の手によって無残に潰されたボトルは、フレデリックの手によってゴミ箱の中へと吸い込まれた。
噂話の続きを兼ねてという事で、フレデリックが辰巳を伴って訪れた場所はケーキなどを出すカフェだった。コーヒーをふたつとホットサンド、それにケーキをふたつ注文する。ケーキの個数に、辰巳が僅かに眉根を寄せた。
「俺は食わねぇぞ?」
「知ってるよ。僕が食べたいんだ」
フレデリックは、甘いものが大好物だ。クレープシュゼットなどはそれはもう幸せそうに食べるのである。
甘いものが苦手な辰巳は、だいたいいつも苦笑を浮かべてそれを眺めている。口には出さないがフレデリックの笑顔は辰巳にとってかけがえのないものだった。辰巳が躰を張ってでも守ると決めた、ただひとりの男がフレデリックである。
「で? クリスが何だってんだ?」
「ああそうそう。実はクリスはね、あれで結構な遊び人なんだよ」
クリストファーはカジノディーラーだ。ゲームや賭け事が好きなのかと辰巳がそう問えば、答えはNOだった。
「違う違う。ベッドの上でのお付き合いがね」
「はぁん? まあ、綺麗なツラしてんもんな。それじゃあれか、お友達ってのはセフレか」
「そうそう。廃業か休業かはわからないけど」
辰巳はホットサンドを、フレデリックはケーキを頬張りながらダラダラと話す。さすがに、こういった公共の場所ではフレデリックも向かい合って座るようになった。辰巳の躾の賜物である。
「キングってのは?」
「クリスの愛称みたいなものかな。稼ぐチップの額が半端じゃない」
「なるほどねぇ。器用そうだもんな」
「今度遊びに行ってみるかい?」
「そのうちな」
微妙な顔つきでそう言う辰巳は、別にギャンブルが嫌いな訳ではなかったが、この船のカジノにあまりいい思い出がない。一度十万ドル程負けた経験がある。
ともあれクリストファーのディーラー姿をひやかしに行くのも一興かとは思う辰巳だ。きっと見目の良いクリストファーにはディーラーの制服も似合うだろうと、そう思う。
「もうひとりのキングってのは?」
「うちのチーフオフィサー、マイケルの事だよ」
「ああ、あの真面目な男前か」
「ふふっ、いいねそれ」
真面目な男前。辰巳の言い表しようは的を射たものである。
マイケル(Michael)略称はマイク、年齢は三十五歳。身長、百八十五センチ。体重、七十二キロ。国籍はアメリカ。
こげ茶の髪と瞳を持つ彼は『Queen of the Seas』いち冷静沈着で真面目なチーフオフィサーだ。今回のクルーズでは、キャプテンのフレデリックが休暇のために代理でキャプテンを務める事になっている。
フレデリックが弟と言うその通り、マイケルは次期キャプテンだ。今回クルーズのさなかに行われる創設記念の式典で、フレデリックからマイケルへと正式にその座が受け継がれることになっている。但し、それはサプライズなのでマイケル本人は知らない事だった。
「マイクも愛称みたいなもんか」
「それはちょっと違うかな? 愛称って言うよりも、俗称…かな」
「どういうこった」
「アイシクルキング。氷の王って言ってね、あの通りマイクはクールフェイスで真面目な事を言うものだから怖がられているんだよ」
辰巳が男前と言うように、マイケルの容姿もまた整っている。あの顔で説教か…と思えばフレデリックの言う事が辰巳にも容易に想像できてしまった。
小さく頭を振った辰巳に、フレデリックが微笑んだ。
船の中のような閉鎖空間において、噂話は格好のネタだという。確かに客と違ってクルーの娯楽は少ないかもしれないと思えば納得も出来た。
「あー…って事は、俺らもネタにされてんじゃねぇのか…」
げんなりとした表情で辰巳が言えば、フレデリックは当然だと頷いたのだった。
「ご明察。みんな聞いてくるからたくさん惚気ておいたよ♪」
「勘弁しろよお前…」
実際のところはと言えば、確かにフレデリックの色恋沙汰は話題にはなった。だが、幸か不幸か本人の惚気話が凄すぎて、あっという間に『溺愛している』という一言で片づけられたのである。
「でも、クリスの相手がマイクだとしたらちょっと拙いなぁ…」
「あん? 別に拙かねぇだろ。そのために遊び友達切ったんじゃねぇのかよ?」
「そうなんだけどねぇ…。まあ、辰巳にはそのうち話すよ。まだマイクがクリスの相手と決まった訳じゃないしね」
「ああ、そういやそうか」
冷やかしがてらマイケルを呼んで息抜きをしようと、フレデリックが笑った。その笑顔には裏があるという事に付き合いの長い辰巳は気付いていたが、自分が的ではないのでクリストファーに内心で手を合わせておいたのである。
フレデリックの底意地の悪さは、折り紙付きだ。辰巳とて何度痛い目に遭ったかわからない。質が悪いというか意地が悪いというか、とにかく先を読むことに長けたフレデリックは、時折こうして人を揶揄って遊ぶのだ。まあ、性格が悪いのである。
ともあれ夕食前に軽く空腹を満たした辰巳とフレデリックは、曇天にデッキの散歩を諦めて大人しく部屋へと戻った。
何をするでもなくソファに座って寛ぐ時間は、ふたりにとって苦痛ではない。辰巳の左肩に乗った金色の頭の重さは、今となってはない方が不安になる。
座っている事に飽きれば、辰巳はフレデリックを抱えたままソファに躰を横たえた。然程身長の変わらない二人ではあるが、大抵フレデリックは辰巳の胸に頭を乗せている。ぴったりと頬をくっつけて、まるで心臓の音でも聞いているかのように目を閉じるフレデリックの頭を、辰巳は大きな手で撫でるのだ。辰巳もフレデリックも、二人きりの時に愛情を示すことに何の抵抗もなかった。
他人の前ではけしてみせる事のない、ふたりだけの穏やかな時間。
「ずっとこんな時間が続けばいいのになぁ」
「はぁん? 退屈で死んじまうよ」
「辰巳は好奇心が旺盛過ぎる…」
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