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 胸に乗った頭の重さに安心しつつ金糸の髪をゆったりと撫でる。辰巳はいつもこうして深い眠りに沈み込むのだ。   【エピローグ】  『Queen of the Seas (クイーン・オブ・ザ・シーズ)』がサウサンプトンへの到着を翌日に控えたその日、辰巳はフレデリックと共に船上にある教会へと足を運んでいた。もちろん、嫁の我儘を叶えるために。  ガラス張りの天井からこれでもかと降り注ぐ光に照らされた教会は確かに美しい。それはもう新郎新婦を大いに祝福するかのようである。  だが、辰巳の心にはいくらかの雲がかかっていた。男二人で挙式など…と。そんな辰巳の様子に、振り返ったフレデリックが不満の声を漏らした事は言うまでもない。  念願の結婚式だというのに旦那様がむっすりしていては、嫁は寂しいに決まっているのだ。 「もう! 少しは嬉しそうにしてくれないと寂しいだろう!?」 「いや…だってお前よ…」  嫁の勢いは凄まじい。一応。教会を使用するためにマイケルに許可を得たのは辰巳である。それはなにもフレデリックに脅された訳ではなかった。辰巳自身が自ら、自発的にした事だ。だが、いざこう目の前にするとやはり滑稽に思えてしまう辰巳である。  船の上とはいえ、教会のある場所は小規模な庭園のような様相をていしていた。緑の植え込みや、小さな東屋まで配置されているそこは、とても船の中にあるとは思えないほどの上等さだ。そしてここは、結婚式を挙げるためだけに作られた場所なのである。  そんな場所まで来ておいて、今更といえば今更ではあった。  ここまで来てしまった以上引き返すのも大人げがない。やれやれと頭を掻いて教会の中へと足を踏み入れる旦那様である。  本当に結婚式をする訳ではないので、もちろん牧師やら神父やらはいない。その事だけが辰巳にとっての救いだった。教会の扉を閉めてしまえば、そこは辰巳とフレデリックふたりだけの空間である。  この夫婦は、”ふたりきりの空間で”愛情を示すことに何ら衒いがない。  フレデリックは普段と変わらぬ雰囲気で辰巳の肩に腕を回し身廊を進み、最前列の座席に並んで腰を下ろした。  祭壇の前で本当に挙式の真似事をさせられるのではなかろうかと怯え…もとい心配していた旦那様としては、これには胸を撫で下ろす。 「ったく、こんな場所に来てどうすんだお前は」 「ふふっ、別にどうもしないよ。ただ、ここで辰巳に指輪を嵌めて欲しかっただけ」  そうフレデリックは言うが、二人は薬指に指輪をしたままであった。今更この場で外して嵌め直すというのも滑稽である。そもそもここで指輪を嵌めて欲しいと本気で思うなら、この嫁は部屋を出る前に外して辰巳に持たせた事だろう。デキる嫁とはそういうものである。  そう思っていれば、辰巳の左肩に頭を乗せてフレデリックが囁いた。それはもう、とても甘い声で。 「Stay by my side forever」 「I don't want to lose you」  囁き返す辰巳にフレデリックは破顔一笑した。辰巳もフレデリックも、形式などにこだわりはない。ただ二人が納得できればそれでいいのである。  挙式などと言いながら、フレデリックはそれ以上の事を望んではいないのだ。愛する旦那様が我儘を聞いてくれるそれだけで満足だった。もちろん、礼儀正しい嫁は感謝の言葉を忘れない。 「僕の我儘を聞いてくれてありがとう…辰巳」 「おう。うちの嫁さんの我儘は、今に始まった事じゃねぇからな」  ぽんぽんと金色の頭に大きな手を乗せて辰巳が笑う。嫌だ嫌だと言っていても結局我儘を聞いてしまうのは、やはり嫁の喜ぶ姿が可愛いからであろうか。  不意にフレデリックが辰巳の顔を覗き込んだ。嫁の碧い瞳にはとても楽しそうな色が浮かんでいる。 「一生大事にしてください」  さすがに”不束者”などという日本語までは知らないフランス人の嫁である。いやむしろ、知っていたとしてもフレデリックは確実に不束者などではなかった。  朝は旦那様のために煙草とコーヒーを自ら進んで用意し、その日の服をしっかりと場所に合わせて選び抜き、旦那様の利き手に合わせて居場所にも気を遣う。僅かな時間を利用して、出来なかった料理もしっかりマスターした。  残念ながら帰国までには間に合わなかったが、新居の手配も既に済ませ、あとは入居を待つばかりだ。  旦那様より幾分か躰が大きくそのうえ頑丈で、飛びついては”稀によく”足蹴にされる事がある。たまに恨みを買って自殺に巻き込まれ、記憶を失う事もある。時折り暴走し、屈折した愛情で旦那様を抱き潰してしまう事など日常茶飯事ではあるが、良き妻であろうとするフレデリックは間違いなく辰巳の可愛い嫁だった。 「当たり前だろうが」  嫁が傷物になろうとも、自分の事を忘れてしまおうとも、動けなくなるほど組み敷かれようとも、辰巳はフレデリックを愛している。  美しいステンドグラスから差し込む柔らかな光の中、辰巳とフレデリックは口付けを交わした。  誓いの口付けというには些かならず長く深い接吻を交わすふたりの唇は、小さな水音を響かせる。  例え神聖な場所であろうとも、ふたりだけの空間に違いはなかった。この二人は、神など信じてはいない。畏れもしない。自らを守るのは、互いと、己の躰、それに蓄えてきた知識と技術である。  やがて満足したように離れた唇からは、透明な糸がふたりを結んでいた。 「罰があたるかな?」 「さあな。キリスト教徒でもねぇのに願われる方が神様とやらも迷惑だろうよ」 「ごもっとも」  綺麗だね。と、そう言って微笑む嫁の頬に辰巳は軽く口付ける。この船に乗っている間に『旦那様を骨抜きにする』というフレデリックの壮大な計画は、もちろんしっかりと実を結んでいた。  普段の辰巳は顰め面でいる事も多い。気分屋なうえに照れ屋で天邪鬼な旦那様ではあるが、こうしてふたりきりの時はしっかりと愛情を示してくれる。そして『お前を失いたくない』と指輪に願いを込める、フレデリックにとっては最高の旦那様だ。  辰巳一意(たつみかずおき)三十九歳。身長、百八十八センチ。体重、七十二キロ。国籍は日本。  黒髪に黒く深い闇を湛えた瞳は日本人独特のものだが、その体躯は日本人離れしたもので、惚れ惚れする程に美しい筋肉を纏っていた。  ヤクザの跡取り息子で本人もその家業に身を置き、右頬についてしまった傷痕のおかげで強面ではあるが性格はそう荒くない。マフィアを嫁にするためにはボスを脅し、嫁を守るために躰を張る事を厭わない男前である。  フレデリック(Frederic)略称はフレッド、三十九歳。身長、百九十一センチ。体重、七十七キロ。国籍はフランス。  金糸の髪と碧い瞳は天然のもので、大型客船『Queen of the Seas』の元キャプテンである。  柔らかな微笑みは見る者を思わずうっとりさせてしまう程に魅力的だが、中身はマフィアだ。その肉体には無駄なものなど一切ない。トラブルが起きると面倒が嫌いなのでさっさと相手を始末してしまうという実に恐ろしい性格をしているうえに、旦那様を傷付ける者は何人たりとも許さないという男前だ。  そう。何を隠そうこの二人はヤクザとマフィアである。人様にどう思われようとも気になどしない。ふたりが幸せであればこの夫婦は何があっても生きていける。  片やしっかりと後継者を持つ次期組長の旦那様と、片や次期ボスの座をほっぽり投げてヤクザに嫁ぐマフィアの嫁だ。恐れるものなどあろう筈がなかった。  日本に帰ればこの二人には一哉という後継者を育てる”子育て”が待っている。この船がサウサンプトンに帰港するのは明日だ。そこから辰巳とフレデリックは飛行機で日本へと帰国する予定だった。  もう間もなく、このふたりの蜜月は終わりを迎える。 END

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