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第30話 ─潤─
開閉扉に寄りかかった潤は、静電気を浴びた手のひらをジッと見詰め、それから流れる景色へと視線を移した。
車窓には、どこからどう見ても不機嫌そうな自身の姿が映っている。
一人になるといつも鏡を見たくなくなるが、今はもっと見ていられない表情をしていた。
「何この顔……これじゃ天くんも心配するよね……」
内側から、汚い色をしたものが流れ出てきそうな不機嫌の理由が、自分でも分からない。
改めてメッセージを読み返してみると、何故こんなにも必死だったのだろうと首を傾げたくなる。
ただ、天が潤の声を最後まで聞いてくれなかったというだけで、不満を覚えた。
仕事帰りにBriseに寄ってくれた時は、約束を守ってくれたとあれほど心がウキウキしていたのに、スマホを片手に店を出て行く姿を見てからというもの、昼間の二の舞いで潤の機嫌は地に落ちた。
戻って来た天の柔らかな笑顔を見ると、それはもっと深くなった。
まるで八つ当たりするかのように天に話し掛け続けた潤は、今日の時給は受け取れないと項垂れるほど仕事に身が入っていなかったと思う。
「……はぁ……」
車両から降り、改札を抜け、徒歩で十分ほどの我が家へ帰る道中も何だか足取りが重い。
潤は自宅の門扉を開き、リフォームしたばかりの目の前の本宅ではなく左奥の離れ家に帰宅した。
三年前、潤の性別が確定した二ヶ月後に建てられたこの簡素な離れ家は、両親からの大いなる期待を表している。
風呂は自宅にあるが、トイレと洗面台、室内には冷蔵庫、冷暖房、質素な勉強机、セミダブルのベッドのみが設置されていて、まさに勉強と睡眠のためだけに造られたここが潤はあまり気に入っていない。
手を洗い、冷蔵庫を開けてお茶のペットボトルを手に取った。
飲み物とビタミン剤くらいしか常備していないそこに、天から貰った缶コーヒーが加わってからは意味も無く冷蔵庫を開け閉めする時がある。
お疲れ様、と笑い掛けてくれた天の声があまりに心地良くて忘れられず、缶コーヒーを見る度にあの時の光景を思い出したいからだ。
「薬あったっけ……」
鞄の中からピルケースを探し当て、カプセルを一つ口に含む。
最近は薬が絶やせなくなってきた。
過剰な期待を背負わされ、敷地内とはいえ突然家族と離れて暮らすよう強要されたのはすべて、鬱陶しい性別のせいである。
潤は人一倍寂しがりやだ。
それを分かってくれているはずの両親は、泣く泣く特別扱いしているのだと何度も取り繕って言うのだが、潤は孤独を嫌う性分のためそれには納得も理解も示してやれない。
ただ、未成年だから親の言う事を聞く。
せめてもの反抗心でアルバイトを始め、思い通りになりたくないと反発している。
しかしながら期待に応えるつもりはサラサラ無いというのに、遺伝子的に無能でいられないのがツラい。
加えて、少しでも油断すると威圧のオーラが出てしまう。
「天くんまだ起きてるかな」
時計に目をやった潤は、先にシャワーを浴びるか宿題をやっつけてしまうかで数分悩み、スマホを手に取った。
あまり遅くなると、よく眠るらしい天の声が聞けなくなってしまう。
飲みかけのペットボトルを手に、広く見積って十帖ほどの室内をウロウロと歩きながら呼び出し音を聞いた。
『……もしもし』
ついさっきとは違う眠そうな声が、潤の鼓膜を優しく潤す。
先に電話して良かった。 あと十分遅ければ、無情な呼び出し音だけ聞く羽目になっていた。
「天くん、もうお布団の中なの?」
『うん。 お腹いっぱいで眠くて……』
「そうなんだ」
頷いてはみたものの、店で天に出したビーフシチューは女性向けで量が控えめだ。
潤だと三回はおかわりしないと満腹にならないのに対し、少食な天はお腹がはち切れそうだと笑っていた。
ちょこちょこ食べをするハムスターを思い浮かべた潤は、天の声が聞けた事もあり不機嫌から少しずつ解消されてゆく。
「あれ、今日海外ドラマは観ないの?」
『ん? 海外ドラマ……? あ、あ、あぁ、うん、観たいんだけど明日にしよっかな。 もう目が開かない』
「そう。 今度僕にもオススメしてね。 あ、天くんのお家で一緒に観るのもいいかも」
『えっ!? ダメ。 絶対ダメ。 家はダメだってば』
……まただ。
家に行きたいと匂わせると、途端に天は一線を引く。
出会って間もないが、対面し会話をしているとまるでそうとは思えない雰囲気になる。 それは潤だけでなく、天も同じく親しみを感じてくれているはずだ。
「僕、あとどれくらいで天くんのお家に行けるようになる?」
『えぇ? そうだなぁ……。 分かんないけど、五年後くらい?』
「はぁっ? 天くん、冗談でしょ?」
『ほんとに無理なんだってば。 潤くんに見せられるような家じゃないんだよ』
この間もこうして逃げられた。 友達ならば家の行き来くらいはするだろう。
拒否の理由もそうだが、さり気なく張り巡らせる天の線引きに納得がいかない。
……そこでふと、潤は窓辺に手をついて考えを巡らせた。
天を "友達" と称した微かな違和感に、自らの本意とは別ものであるかのような疑問を持った。
静電気が走るので容易く触れられないが、天を見ているとそれだけで脳内に何かが迸る。
これが、近頃カプセルを手放せない原因の一つだった。
「……天くんの憧れの上司は、お家に来た事あるの?」
『ううん、ない』
「じゃあいいや。 五年後でもいいから、第一号は僕を招待してね?」
『わ、分かった』
未来の曖昧な約束を取り付けた潤はひとまず満足し、「天くんおやすみ」と言って通話を切った。
静かで孤独な室内の窓から、綺麗な三日月を眺める。
この夜空の下のどこかで、満腹で睡魔が襲っている天が布団に包まってスヤスヤと眠っていると思うと、心が疼いてしょうがない。
「天くん……」
潤は毎晩、こうして切なく名前を呼んでいた。
振り向いてほしい人がすぐそばに居るというのに、何気なく天を思うと、叶わない恋だからと諦めていた想いがふわりと宙に浮いている。
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